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February 2006

2006.02.01

船橋市西図書館蔵書廃棄事件・差戻審判決の全文

 H17.11.24 東京高等裁判所 平成17年(ネ)第3598号 損害賠償請求

 やっと存在に気がつきました、Yahoo!のキャッシュの日付は2006年1月6日。

 「事実及び理由 第3 当裁判所の判断」の1は、粛々と最高裁判決に従った判断ですね。図書館についての考え方が述べられている。最高裁に続いて差戻審でも改めて繰り返されると、公立図書館は法的位置づけを判決で勝ち得たのだなあという実感が湧いてきました(もしかして該当部分、最高裁判決よりも長くなってない?)。
 で、経緯勘案の上での賠償額の算定の部分ですが、2で述べられています。これがまた、最高裁の先例を7件も!ひいています。私は引用された個々の判決を見に行ってはいませんが、「これだけ最高裁の判断に則っているんだから、文句なかろう」ってことかな?東京高裁。

 みなさん、論評楽しみにしています。既にお読みになっていて評価を書いておいでの方がおられましたら、ぜひお知らせください。
 とりあえず、ご報告まで。

【追記】
 第一審の判決を見つけました。控訴審はどっかにないかしらん。

 東京地方裁判所平成15年09月09日判決

【訂正】
 さっそく、記事のとんでもないミスにご指摘をいただきました。
 メールいただいた方の許可を得て、掲載いたします。
 ありがとうございました。

-----(メール引用始め)-----

> 最高裁の先例を7件も!ひいています。

 私が見たところ、2件でした。最初の判決は事件番号が4つついた判決で、あとの判決は事件番号が1つです。事件番号5つ+判決年月日2つ=7件という計算でしょうか?

 前者の判決は、在外邦人の投票権に関する判決です。関係するであろう部分は次のとおり。
「そこで,上告人らの被った精神的損害の程度について検討すると,本件訴訟において在外国民の選挙権の行使を制限することが違憲であると判断され,それによって,本件選挙において投票をすることができなかったことによって上告人らが被った精神的損害は相当程度回復されるものと考えられることなどの事情を総合勘案すると,損害賠償として各人に対し慰謝料5000円の支払を命ずるのが相当である。」
 違法・違憲の判断によって、損害が回復されているんだから、賠償金額は名目的なものでかまわない、という「名目的損害賠償」の考え方を示したものです。

 再上告(というのでしょうか?)審の争点は、人格的利益の侵害が違法判断によって相当程度回復されているかどうか、ということになるのかもしれません。

 後者の判決は、法人の名誉毀損に関する金銭賠償についてのもの。たぶん、下記のあたり。
「以上を要約すれば、法人の名誉権侵害の場合は金銭評価の可能な無形の損害の発生すること必ずしも絶無ではなく、そのような損害は加害者をして金銭でもつて賠償させるのを社会観念上至当とすべきであり、この場合は民法七二三条に被害者救済の格段な方法が規定されているとの故をもつて、金銭賠償を否定することはできないということに帰結する。」

-----(メール引用終わり)-----

【再掲】
 差戻審と損害額の算定について書かれた記事を再掲しておきます。

言いたい放題:船橋西図書館焚書事件差戻審
Because It's There:蔵書破棄訴訟差戻し控訴審判決〜補足

 後者の記事には、下記引用のとおり他の記事の紹介もありますのでご参考に(私はまだ読んでません…)。


なお、在外選挙権訴訟については、このブログでは過去に6回ほど取り上げていますし、在外選挙権訴訟における「名目的損害賠償」については、「『靖国参拝・靖国参拝違憲判決』に対する憲法学者のコメント」というエントリーでも触れています。ご参照下さい(在外選挙権制限訴訟について、「妥当な理解」ができると思います)。


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2006.02.02

『ドリトル先生物語』に差別意識を読み解く (3)

 引用第二箇所について。
 南條氏の指摘にハッとさせられたのは、「読者にそう感じさせるのは、ドリトル先生の人柄であり、作者ロフティングの文学の力だ。しかし、その文学の力が誤った思想を正当化することの是非も考えてみなければならない。これは些細な言葉づかいや揶揄(からか)いよりも、ずっと難しい問題である」というくだりである。
 まさに、文学の力とはおそるべきである。差別にせよ、毒をもっていたり誤った思想が、美しい文学の底流にあるということを読みとること。個々の表現そのものにこだわるということだけでは、かのごとく伏流する「意味」を汲みとる力がない限り、有効性をもたないだろう。
 そしてまた、そのような時代の意識というものは、著者個人に属するものではないから排除することなどできないし、作品と結びついているが故にこそ、「学問としての文学」が成り立つのである。

 南條竹則『ドリトル先生の英国』 p.224-230.


 この論争は、もちろんキリスト教の三位一体説をめぐる争いを皮肉ったものである。
(中略)
 ドリトル先生はこうしたことにはからきし興味がないようである。また先生が教会に行ったり、神に祈る場面もほとんど出てこないから―ただ一度だけ、先生はマシュツ王が世界を征服できなかったことを神に感謝するが―つまりは祈るということに関心がないのかも知れない。だとすると、他にどんな美徳があろうとも、聖者とよばれる資格はないように思われる。
 だが、そのかわり、先生は神に造られたすべての生き物をこよなく愛する。
 みなさんには場違いに思われるかも知れないが、筆者はここで、ロマン派の詩人コールリッジが書いた『老水夫行』という詩を引き合いに出したい。これはバラッド形式で書かれた有名な物語詩で、粗筋を語れば、次のごとくである―

(中略)

 著者は大学に入ってこのくだりを読んだ時、ハッと思った。―そういえば、自分の古い友人、ドリトル先生こそ、「人をも鳥をも、はた獣をも」よく愛する人ではなかったか?この詩の教えるところによれば、先生は地上ではもっとも良く祈る人なのではないか?「主よ、主よ」と唱えるよりも、「主にいます我らが父の御意を行ふ」(『マタイ伝』第七章第二十一節)ことが大事なのだとすれば。
 読者諸氏はどう思われるだろうか?
 ドリトル先生は、第一次世界大戦という戦争がきっかけで生まれた架空の人間である。けれども先生の物語を読んだ人には、先生はまるで血と肉を持っている生きた人のようであり、ついそこにいて、声をかけたり、手を握ることができるような気がしてしまう。それはきっと、作者自身もそうだったのではないかしら。ロフティングは国際平和と動物へのいたわりを終生説き続けたが、人類は一度の大戦争に懲りず、やがてもっと大きな戦争を始めた。ロフティングの晩年の心はきっと苦渋に満ちていたろう。彼は時々、ドリトル先生が今ここにいたらどうするだろうと考えて自分を励まさなかったろうか―たとえ、それが自分のつくりだした人物であっても。
 筆者はそんな空想を働かせてしまうほど、ドリトル先生を慕わしい人に感ずる。


 引用第三箇所・終

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2006.02.03

感想:出口保夫『物語 大英博物館』

BritishMuseum  目次はこちら

 まさに参考図書。「物語」としては楽しめなかった。しかし大英博物館について語るべきエピソードは網羅的に盛り込まれているようなので、必要に応じて目を通すために開くのがよいのだろう。巻末年表が不充分に感じられて惜しい。本文との対応が即わかるように配慮してほしかった。しかし、非常にコンパクトながら盛りだくさんの、よい本なのではないだろうか。
 前半は博物館の成立とコレクションの形成に焦点が当たっていて、それゆえ美術通でない自分にはどうも乗れなかった。大英博物館の展示物に詳しい人は楽しめるだろう。イギリスに行けるのがいつかはわからないが、大英博物館・大英図書館に行くときにはもっていこうと思う。展示物の来歴を知って見るには、実に有効であるに違いない。
 パニッツィ、南方熊楠はもちろん、多くの人々が大英博物館の歴史に絡めて登場している。ジョンソン博士がなぜ大英博物館に行かなかったとか。大英博物館は当時の文化人のひとつの指標になっていると考えてよさそうなほど、列挙されている。その意味でも、興味深い。

 しかし、19世紀といえど、世紀末と中葉では階級の変動も社会意識も異なっている。その辺の「民衆の感覚」が感じられない点、この手の英国本に不満を感じるようになってしまったらしい。これも『ホームズ』から『エマ』のせいか。
 ともあれ、度重なる財政難にもかかわらず結果的にずっと入館料無料を続けているというエピソードが繰り返される。入館者数の変遷も丁寧に書いてあるし、博物館というより「リーディング・ルーム」―実際的な機能した、シンボリックな「図書館」としての側面をこそ強調してある。「図書館」としてのサービスを提供する側、享受する側双方の苦労も描かれている。
 お金がなくて、時間を費やすためだけに図書館に通う人々というのは―しかしそこで知的刺激を得ることこそ幸福な時間でもあった者もいたかもしれぬと著者は言うのだが―昔からいたんだなあ。感慨。

 モンタギュー街にホームズが初めて開業した頃に界隈にあったはずの大英博物館がどうなっていたとか、「青いガーネット」の事件の発端になるヘンリー・ベイカー氏がどんなルートをふらついていたとか、この本だけじゃロンドンの風俗がパッと見でわからない。まだまだ不勉強。そうそう、ヘンリー・ベイカー氏は博物館に関係する仕事をしていたという推測もあったような。

 収穫は、実質「図書館」だった博物館職員の俸給が書いてあったこと。以下引用(p.161.)。


 一八八〇年代の大英博物館職員の数は三四四人であった。そのうち女性職員は一〇名にすぎない。その大半は便所掃除であったが、四人のチャー・レイディというお茶くみの女性がいたことは興味深い。「チャー・レイディ」ないし「チャー・ウーマン」という単語がはじめて見えるのが一九世紀末で、そのような女性が社会的に雇い入れられたのも、この大英博物館ではかなり早い時期であったに違いない。
 当時若年の職員に支払われる年俸は、約六二ポンド、所帯持ちの普通職員でさえ一五〇ポンドであった。少し後、ロンドンに留学した漱石が生活苦にあえいでいたようにみなしているが、これらの数字を比較してみると、漱石研究者たちがいかに当時のイギリス社会の経済事情に無知だったかがわかるだろう。
 しかし女性の社会進出についていえば、先進国イギリスでさえ、このように遅れていたのであり、彼女たちがケンブリッジ大学にはじめて受け入れられたのが、一八七〇年代であった事実からも充分にうかがい知ることができる。


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2006.02.04

Adam's AppleとMOO-T_blog

 "Beaute De Sommeil"(眠り姫)。イラストは和紗さん、Flash時計をKOuさんが担当。
 時計として使うにはとてももったいないので、鑑賞させていただきます。気に入られた方がいらしたらぜひ。リンク先のKOuさんの記事で掲載許可をもらってください。

 M O O - T _ b l o g: ■blogPartsにKOuさん作成のとても素敵な時計が揃ってます。
 KOuさんのCubeClockは、ずっと使わせていただいているもの。自分のブログはシンプルでかまわないんだけれど、何かセンスのいいブログパーツをひとつくらい付けてみたいなあと見つけてきたものです。とても気に入っています。自分の設置がセンスがないですが…(苦笑)。

 Adam's Apple イラストブログは、タグふれんずを始めたばかりの頃に、友達登録に応じていただいたのがこちらの和紗さんです。タグふれでは普通の人々の日常を書き綴ったブログを見ることができて(時間さえあれば)おもしろいのですが、さまよっていたさなかアナキン・スカイウォーカーの絵に遭遇。これをきっかけにちょくちょく覗かせていただくようになりました。精悍に描かれた人物や繊細な色づかいが好みなのですが、けっこうお茶目でハマッテます。最近はこちらが気に入ってしまい、このような記事に起こすまでに。
 コラボの話は、和紗さんとチャットをしていて、耳にいたしました。チャットでしたのでたいした話はお聞きしませんでしたが、あのKOuさんと!和紗さん!えええー!!!すごい、素晴らしい、美しい…。楽しみにしていました。リリースされた作品を拝見、予想を上回る出来でした。和紗さんのコメント記事にいろいろ細工が仕込まれていると書いてあります。例えばですね、時間によって色あいが変化するんですよ。ホントにすごいです。

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2006.02.20

昨今パソコン事情(1)―時代遅れ?の考え方

 この十日ばかり、古い機種を使えるようにするために四苦八苦していた。
 自分が使っているもので「新しい」と言えるパソコンはまったくない。だから、「相当古い」のだろう。
 Libretto100である。Windows95OSR2時代の機種だ。

 「パソコンはWindows95時代のマシンで十分だ」と感じてしまう自分の感覚は、かなりおかしいんだと思う。
 何をもって十分と思うかだが、OSがストレスなく動作する程度のCPU、最大搭載メモリ。アプリケーションはWebブラウザとWordが動くか。自分にとってはこんなところ。

 これまでも周辺機器導入の際、Win95/MacOS8.6で動作するかを確認してきた。無論「Win98以上」と書かれたものばかり。ネックはUSB。
 自分もさすがにUSB全盛のこの時代、フラッシュメモリや外付のポータブルHDDを活用しないことはない。Win<->Macでファイルをいじるための方法としては、これら取り扱い容易な周辺機器に飛びついたと言ってもいい。それまではSCSIの外部記憶装置か、通信プロトコルを共通化するための高価なソフトを用意するしか方法はなく、日常的には泣く泣くFDDに頼っていたのだから。
 キーボードも使いやすいものを見つけてきたときはUSB対応を考えたし、愛用するトラックボールの無線版を見つけたときにもUSB、であった。

 しかしそのほかは、本質的なパソコン利用においては、自分の考え方が旧態然としているのか、Win95時代のそれで十分だと思っている。いま自分のところでLibrettoL3/Win2000が最新の機種になっているのは、職場のOS移行が本格化したのを機に入れたからであって、自分のパソコン利用にとっては「副産物としてUSBで使える大容量記憶装置が付いてきた」ようなものだ。
 自分にとってはLibretto100/Win95OSR2は個人的な用途では「未だに現役で使えるもの」。実際、いつでもセカンドマシンして復帰できるよう周辺機器等も考慮してきたのだった。
 文章を書くのにはエディタで書いているし、せいさか年賀状印刷のときの画像処理とプリントジョブの重さくらいなものである。Wordを挙げるのは、しかたなくWordファイルを開くことがあるから。

 この雑文、続く。長くなっちゃったな。

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2006.02.21

昨今パソコン事情(2)―OSと昨年のパソコン新製品

 昨年2度ほど、近親のPC購入に関わり自分が選んだ。
 自分が知識も時間も十分もありメンテもするのであれば中古を買うのだったが、そうではない。だから使用者のパソコン習熟度を考慮、新品をウォッチしてみたのだけれど。
 なんかなあ。「どれでも大丈夫」だったな。というより、「どれもおんなじ」だった。

 OSは諸点よくなったと言われているが、スペック上は後退だと思っている。
 自分がLibrettoL3導入時、WinNT系のOSは2000に触ってびっくり。メモリも喰うがその倍のスワップ領域がHDD上に必要だという。メモリを今回、xpを普通に使う分には必要にして十分だという512MB追加すると、HDD領域を1.5GBは常にカラにしておかなければならない。95系なら100MB残しておけばなんとかなったのに…。
 10GB以上のHDDが当たり前に使えるというNT系OSの仕様は確かに進歩で、調子に乗っていろんなCDをイメージ化してモバイルできるようにしたが、そもそもOS自体が容量を食っているし。初期の20GBはあっという間に足りなくなり、あとで大慌てで80GBに換装しシステムを再構成してもいる。だいたい、OSが大きいということは、起動に時間がかかるということでもある。モバイル用途には本当に困った。
 そうなると、動作に不満なく使えるようになるためには、CPU速度やメモリ搭載容量の競争がまた始まるわけで。95系からNT系に移行したのにはいいトコロもあるのだろうが、アホかもう着いていけん。いつになったらマトモに使えるマシンが出てくるんだ、今解決が必要な仕事もあるんだけどなあ。そう思って、自分はOSについていくことから脱落したのだった。その時点で必要なものは充分だったし、新製品の開発の方向性は自分にとってはアサッテの方だったから。

 そんなんでしばらくぶりに見た新品パソコンのラインナップだったが、なんだかほんとに個性がない。dynabookがiBookの真似して白い筐体を採用してからは、ほかのメーカーもやっているし。価格面ではDVDドライブの差でしかない。スペック上の違いまで追求する用途ってのは、画像(動画)処理くらいなもんでしょう。あとは、DVDプレーヤとして使うかとかなのかな(この点は家電DVDレコーダの方が便利と判断。VHSのメディア変換もあるし)。
 いまやプリンタもネットワークにつながっていれば使えてしまうほどで、周辺機器拡張にはLAN端子があれば十分。あとはUSB、これはもちろん当たり前。
 こうなってしまうと候補には、サポートがよいと言われているNEC、余計なものの付いていないhpが残った。HDDはさすがに自分で苦労した40GBは割らないようにしたが、CPU速度は新品を売っている中で最低、メモリは512MB増設して、どちらも12万円ほどで済んだ。結果的にDVDは記録型にならなかったが、いまやCD-R/RWは標準装備になっている。便利な時代だ…。

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2006.02.22

昨今パソコン事情(3)―イマドキのPC導入の利点とは

 家人が初めて買ったWin95マシンを遂に買い換えるきっかけとなった、日用の不便は「重いWebページが増えてきていること」だった。もちろん、Netscape4.xはXML対応していないのでブログが読めない。それでもNetscape7.1はWin95上で動くのである。重い理由はページそのものだ。
 ブラウザ自体は、IEもFirefoxもそんなに重いものではない。そこに乗っているコンテンツ、というかファイル構成にバカな・頭の悪いページ制作者が多くて、普通の人のネットライフを圧迫しているだけなのだ。

 それに、新しいPC導入のメリットは「ネット上のストリーミングサービスが自由に使えること」なのだな。
 これは実家に光ファイバを導入してその新品マシンを繋いでみて実感、驚いた。映画の予告はもちろん、『妖怪人間ベム』だとか『宇宙戦艦ヤマト2』がもう、テレビと同じ。パソコンの画面だけが違和感だった。
 図らずも、今のパソコンなら最低限度で十分、と証明したような感触だった。これらの動画サービスを利用しないのであれば、今のパソコンの高機能は不要なんだ。

 それから―あと二つ。

 ストリーミングといっても、iTunes。映像系でなくて、音の方。
 日常的にはメインマシンのMacのiTunes1.1を使っているが、とりあえず動きはする。一部ネットラジオも使う。自分には充分だ。
 ところが、たまたまモバイル用のLibrettoL3/Win2000に、Win版QuickTimeをプラグインとして入れたら、iTunesがくっついてきてしまった(←これはこれで批判を耳にしていた)。
 このWindows版がまた、2000の上で充分動くのだな。自分の、最新とは言えない機種で。

 実家に光ファイバを入れたので、とうとう導入したWebカメラ。
 わが家ではYahoo!メッセンジャーを利用して簡易テレビ電話。絵はさすがに動画としては見ることはできず、静止画を時間遅れで受け取っているレベルだが、発色は悪くない。ピント合わせをちゃんとやれば、先方の表情は見分けることができてしまう。
 音はさすがにタイムラグと音質が問題なので、結局IP電話と同時利用している。これで充分。
 驚いたのが、Webカメラがハードウェアの要求仕様を満たしていなくてもストレスなく動くことと、わが家がADSLで実測3Mbps程度なのに、IP電話と動画チャットが同時にできてしまうことだった。
 要は、「ロースペックのマシンでできてしまう」のだ。

 これらを快適に動作させたければ、もちろん、最新の機種を買うのがよいのだろう。最低のスペックで充分だけれど。

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2006.02.23

昨今パソコン事情(4)―USB環境さえあれば

 今回のLibretto100復活大作戦は、そう、USBとIE6(or Firefox)である。これらが使えれば問題ない。それで、分散稼動させようという発想。
 手許にはWin95/98対応のUSB拡張PCカードがあり、Win98SEの正式版(未開封!)が手に入った。

 iTunesを動作させるだけなら大昔の型のメインマシン(MacOS8.6)でも大丈夫。きついのは、同時に複数のアプリケーションを立ち上げるときだった。
 それにWebカメラを起動している間に、同じマシンで文書作成をする必要は、自分にはない。そもそも、よほどリビングに近いほかの機種でやっている。

 それと問題は、同じ機体でネットサーフィンやらできてしまうと、余計な気が散ってしまうのだな。これは使う人間の問題なんですけど。
 いやいや、複数アプリを同時に起動させていると、機体に無理がかかってやっぱりオチてしまうことはある。これ、いかにNT系OSになったからと言って、変わらない。いつになってもCtrl+Sは必須!である。
 で、USBを拡張してしまえば、Libretto100/Win98SEで文書作成/簡易ネットサーフ/あわよくばWebカメラが使える、サブの据置Windows環境が作れてしまうじゃないか。
 そもそもが現状、USB接続の大容量外付HDDに作成途上のファイルを入れて活用しているんだから、それを繋いでしまえば「文書作成作業だけに集中できるマシン」になるんだよ。

 Lib100はたたんでしまうとビデオテープサイズ。ほんとに小さい。Librettoシリーズが流行した当時のメリットは、そこにある。
 今のWinメイン環境であるLibrettoL3/Win2000も、最近はモバイル用途だけでなく、パソコンデスクの傍らに置いてディスプレイとキーボード・無線トラックボールを繋いで使うこと頻なのだけれども、繋いだり外したりが少々めんどくさくなってきてしまった。
 Lib100は本体のディスプレイが、ノートパソコンの宿命で液晶の不具合が出てきてしまっていたのだけれども、外部ディスプレイに繋いでしまえば問題なし。USBが使えれば外付けキーボード・無線トラックボールも使える!

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2006.02.24

昨今パソコン事情(5)―機能限定据置PCとしてのLibretto100/Win98SEの復活

 てなわけで頑張りましたよ、ここ数日。
 いや、しかし面倒は面倒だった。モノがCDドライブ一体型でないので―それどころかFDDもPCカード接続だもんな、そこがLibrettoの苦労するところ。
 HDDは以前余らせてしまっていた6GBで充分、OSとOffice、一太郎、Firefoxとその他もろもろ(ウィルス対策ソフトにエディタにプリンタドライバ…)が余裕で入ってしまった。

 きついのはCPUがPentium166MHz、メモリが64MBというところか。
 それでも、USB接続でUSキーボードと無線トラックボールは動くようになったし、外付HDDはちゃんと認識できる。
 外付ディスプレイで美しい画面を見ることができたのは嬉しかったなあ。Win98SEは起動がWin2000よりも格段に早いし(まあ、同じくらいかもしれない)。IE6も動くし。
 となると、充分、普通に文書作成ができるというわけでして。

 この文章も、かのLib100/Win98SE上のエディタでテストがてら書いてみました。
 さてさて。

【追加】
 Firefox1.5はさすがに厳しかった!メモリが絶対的にキツイみたい。Google検索くらいはなんとかなるんですが…。
 でも、IE6はちゃんと動く。IEをありがたいと思うとは、珍しい。

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2006.02.25

目次:新井潤美『階級にとりつかれた人びと』

階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見
新井潤美
中公新書, 2001.5

目次

はじめに

第一章 二つのミドル・クラス
分をわきまえない人々 「ジェントルマン」と「ジェント」 劇場におけるミドル・クラス ヴィクトリア時代の劇場

第二章 ヴィクトリア朝―せせこましい道徳の時代
福音主義からリスペクタビリティへ 耽美主義とミドル・クラス 耽美主義の「偽物」

第三章 「リスペクタビリティ」という烙印
事務員の悲哀 新しい読者層の擡頭 事務員のレジャー セルフリッジの開店

第四章 「郊外」のマイホーム
「郊外」とsuburbs 「郊外」のイメージ 「郊外に住む人々」 ロウアー・ミドル・クラスの娯楽小説

第五章 ロウアー・ミドル・クラス内の近親憎悪
『キップス』 『トノ・バンゲイ』 ウェルズのロウアー・ミドル・クラスへの「復讐」

第六章 貴族への憧れ、労働者への共感
エドワーディアンとジョージアン こうもり傘を所有する人 美化されたワーキング・クラス 『マイ・フェア・レディ』と『ミー・アンド・マイ・ガール』

第七章 階級を超えるメアリー・ポピンズ
Uとnon-U シチュエーション・コメディ ロウアー・ミドル・クラスのヒーローたち

第八章 クール・ブリタニア―「階級のない社会」?
「典型的」なミドル・クラス 「ミスター・ビーン」 「イートン・コックニー」 新しい階級―「スーパー・クラス」 ロウアー・ミドル・クラスの名誉挽回

おわりに
主な参考文献

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2006.02.26

目次:ヒュー・ロフティング『ガブガブの本』

ガブガブの本 『ドリトル先生』番外篇
ヒュー・ロフティング 南條竹則訳
国書刊行会, 2002.11

著作権表示
Gub-Gub's Book by Hugh Lofting
Copyright 1932 by Hugh Lofting
Copyright renewed 1960 by Josephine Lofting
Additional illustrations copyright 1992 by Christopher Lofting
Japanese translation rights are arranged with Ralph M.Vicinanza, Ltd.
through Japan UNI Agency, Inc.

もくじと梗概

第一夜
"沼のほとりのパドルビー"の靴屋のジェイコブ・スタビンズの息子トミー・スタビンズが、本書とブタのガブガブについていささかの説明をする。

第二夜
偉大なる食べ物作家は歴史調査と食事芸術に関わる創意工夫について語り、シロネズミが本に多少の内容を付け加える。

第三夜
サラダ・ドレッシング博士は、ある種の記念日について述べたあと、トマト戦争の次第を家族一同に物語る。

第四夜
百科全書に記載される種々のことを説明したあと、ガブガブは名高い"食べ物ミステリー小説"をはじめる。

第五夜
"食べ物ミステリー"の続きと結末。

第六夜
クインス・ブロッサムがいかにして父親の命を救ったか。

第七夜
ブタ作家は食餌療法について二言三言述べたあと、かつて美しい日没から霊感をうけ、真にじぶんらしいものを書いたいきさつを語る。

第八夜
ピクニック王として知られるグズル二世の事績。その風変わりな宮廷のこと。不思議な暮らし。莫大なる富について。著者はここでかのピクニック叙事詩(それはシェイクスピアと同じほど末長く残るであろう)を語りはじめる。王の名高いピクニックのなかでも最大のものについて、ならびに世界各地より招かれた希代な賓客について詳説する。王と偉大なクリストフ・プランタンの友情について、ならびに彼のフランス人のソネットが、誕生日にはグズル王みずからそれで料理を作った黄金のシチュー鍋に刻まれた顛末を語る。

第九夜
トリュフ吟遊詩人、レモネードの川、ジャム品評会その他、幾日もつづく"大ピクニック"を輝かせたことども。

第十夜 最後の夜
王の肉親、甥のナスティボーゾ殿下が敬愛された伯父を失脚させ、政権の奪取を謀る。大蔵大臣の奸計によって国に革命が起こり、グズル二世は追放される。反革命が起きてナスティボーゾを追放し、前王の復位をもとめる。黄金のシチュー鍋とピクニック王が国民にした最後の約束。

訳者あとがき
固有名詞、パロディー等一覧

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2006.02.27

目次:マクロード『表現の自由vs知的財産権』

表現の自由vs知的財産権 著作権が自由を殺す?
ケンブリュー・マクロード 田畑暁生訳
青土社, 2005.8

目次

序章
知的財産権vs表現の自由R 最後に

1 この遺伝子は君の遺伝子 フォークソングと遺伝子のコモンズの囲い込み
ハッピー・バースデイ・スクリュー・ユー フォーク音楽を作る 過去からの借用 魂を盗んだのは誰か? ばかげた特許 生命の私有化 邪魔者としての特許 種=情報 グローバル化とその不満 最後の皮肉

2 著作権犯罪 こいつはサンプリングスポーツだ
著作権狂いのボゾ 二台のターンテーブルで作者をやさしく殺す 旧式のサンプリング サンプルに入る:アートとぶつかる法律 著作権犯罪 フェアにプレイする レコード会社は実際に何を守っているのか アート、商売、著作権

3 違法アート アートが法律とトラブルになるとアートも法律にトラブルを投げ返す
「表現の自由」を商標登録する アートのおふざけ屋たち アートと日常生活 不適切な流用 違法アート サウンド・コラージュ屋たちとのミキシング マッシュアップせよ 倫理入門:(コピー)ライトと(コピー)ロング?

4 文化株式会社 われわれの超言及的ブランド文化
T・S・エリオット、ミッシー・エリオット、そしてMISS-Y・ムーア 日常生活のブランド化 商品配置と「現実世界」 ブランド人間 メディア海賊 情報麻痺ハイウェイ上のビルボード 「法人」というフィクション オンラインの「表現の自由R」 「公正」な(あるいは少なくとも「より公正」な)世界に向けて

5 私有化された世界 公共圏、文化、教育、民主主義の売却
「表現の自由R」がモールへ行く 自然の私有化 知的財産vs自由な言論と民主主義 公的情報の私有化 私有化された世界における教育 私有化された世界における研究

6 デジタルの未来 そしてアナログの過去
レンタルの未来を抱きしめる(過去を忘れる間に) ファイル共有とCD焼きは、家庭での録音を殺す 音楽の共有と音楽の販売 世界戦争MP3 ファイル共有はビジネスにとって悪か 動き出す贈与経済 オープンソースとフリーカルチャー 音楽ビジネスから音楽家のビジネスへ 未来はかなり過去と似ている

結語 表現の自由R

謝辞
訳者あとがき
参考文献

索引

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2006.02.28

「目次:」「感想:」と。「書き手の責任」への決着。

※2006.3.1.にアップ。

 このブログで先月から始めた「目次」は、紹介してみたい本の「読了時のメモ」として書いてみている。感想をまとめるとまたひと手間かかるから、まずは即
 その上で余裕があれば、「自分が」ひっかかった事柄を「感想」として書き付けている。書いているうちに、別の記事に発展したりも。
 今回の目次は、「読了時のメモ」とならず「例外」になってしまった。読み終わらず、「未了」なので。
 マクロード『表現の自由vs知的財産権』。

 昨年の私の「のまネコ問題」は小倉弁護士のこの記事からだった。このマクロードの本と、のまネコを絡めた記事に自分は"絡んだ"のである。この件で「書き手の責任」、考えさせられた。先月の「匿名に関するメモ」と後続記事も、そのときに考えさせられたもので、昨年内に自分なりの結論は出ていた。書いたのは、あの時点で吐き出してしまいたくなったから。まだほかの理屈と一貫していなかったり、埋めていないところ、弱いところはいくらでもあるんですけどね。
 「書き手の責任」にしても、一貫・徹底する必要はないかもしれない。けっこう「気軽に書いてみる」ことが大事だと思っているし、それがいいんじゃないか。実際、かの小倉弁護士の記事にあっても、「表現の自由と知的財産権」「商標権」を少し勉強してからかかってこい!というのだったら、たぶん一般大衆の一人一人は何も書けない。専門家の言う表現に素人が「ものすごく違和感を感じてるんだけど!」ということが「表現できる」ことが醍醐味なんだと思っている。そうでなかったら、その道の専門家になるか、ネット専業のライターにでもなるしか、何も言えない。コモンセンスはどこに行ったよ!ってなことが「言える」ところがいいんだし。
 それでも、ほかのところでも書いていると思うが、書き込む前に、なるべくその前後の文脈は追って書きたいと思うし、そうしている。書かれる場合にもそう思うから。ブログの当該記事の前後、そのブログの全部、その話題に関してサーチエンジンやネット上の情報資源くらいは参照したい。状況によって参照のレベルは変えているけれど。

 ただしかし。後追いでもいいから、勉強はしないと、と思っている。例えば小倉弁護士の記事に自分が刺激を受けて、コメントまでした。なら、専門でないにせよ、自分の発言に関連することは「後追いでもいいから、フォローしたい」。これが、自分なりの「決着」である。
 書き手の「責任」とはちょっと違う。自覚している。自分がそうしたい、そうすることで納得したい。そう言っているんだから。お読みの方には勝手だよなーという方もおられるかもしれない。特に、橘屋さま。きちんと手当てをしておりません。まったく勝手ながら、申し訳なく思っております。この場を借りて改めてお詫び申し上げます。
 実のところ、ほかにも手当てをしないといけない記事があるのだけれど、きちんとできていない。

 書き手としての自分の立場、視点がどんなところからなのかってのに関わる記事が、続いていないしね。
 ただ、あんまりブログにエネルギーが避けないというのも事実で。書くスタンス、自分の書き方のスタイルもあるんだけれど…。

 次項に続く。

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