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January 2006

2006.01.10

2006年最初の挨拶

 昨年はオンラインでたくさんの方にお世話になりました。
 やっとひと息ついています。コメント等滞っていてすみません。
 年末はハードでした。まだしばらくはハードです。
 それなりに書いているんですけど、まとまらないですね。まとまったものはそれなりに放出したか、目前の仕事で余裕がなくなっているか。
 ときどき書き散らかしたくなったら戻ってきます。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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2006.01.11

@niftyBOOKSのアヤシイ挙動

 つらつらぐさ:なぜ公表されないのか

 ムムリクさんの「つらつらぐさ」とは、bk1のアフィリエイト関連記事をかねてより共通の関心としていました。ムムリクさんは気長に丹念に検証されるので、いつもありがたがって読んでいます。

 年末に出てきた、ひさしぶりのこの話題は。また気になる話!
 おいおい、@niftyよ。かくも丹念に追っかけているユーザがいるとは思わなかったのかねえ。アフィリエイトで相当な収入を得ようとしているユーザもいるんだから、甘く見たらいけないと思うけどなあ。

 ココログ・アフィリエイトがどんな対応をしているものであるか、つらつらぐさの上記一連の記事をご覧になっておくとよろしいと思います。

 自分は、最近はネット書店で本を買うことも少なくなったので、実害はないけれども。
 急ぎのときは、amazonではなくて、bk1をなるべく使いたい。@stationが便利だから。
 そのときにアフィリエイトがうまく動作しない、きちんとサポートしないとなると、ココログ・アフィリエイトは使おうという気にならなくなっちゃうよ。
 ただでさえ、ココログ・フリーにはムッとしてるんだから…。

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2006.01.12

目次:新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ』

※2006.1.20.にアップ。1.12.には読了。

不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」
新井潤美
平凡社新書, 2005.5

I ラヴ・コメディ今昔

嫌われるヒロイン?―ジェイン・オースティン『エマ』
 ジェイン・オースティンという作家
 オースティンのもっともスノビッシュなヒロイン
 微妙な階級差へのこだわり
 私生児は「問題なし」
 「憎めないお嬢さん」としてのエマ
 ビヴァリー・ヒルズ版『エマ』の『クルーレス』
 ここが違う、パルトロウ版『エマ』

エリザベス・ベネットが九〇年代のロンドンにいたなら?―ヘレン・フィールディング『ブリジット・ジョーンズの日記』
 『ブリジット・ジョーンズ』と『高慢と偏見』
 翻案としての映画版
 「ジェントルマン」とは
 階級の「目印」―Uとnon-U
 取り去られた「目印」、残された「目印」

II 働く女たち

逆境の淑女、ガヴァネス―シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』
 大衆文化と『サウンド・オブ・ミュージック』
 雇い主とのロマンス
 「ガヴァネス」という身分
 不敵なガヴァネス
 奔放な性格のバックグラウンドは
 読者を満足させた穏便で理想的な結末

なぜナニーは不機嫌なのか―P・L・トラヴァーズ『メアリー・ポピンズ』
 ガヴァネス的英語
 イギリスの「ナニー」
 ロウアー・クラスの女性は母性本能が強い?
 なぜ子供の養育を他人に任せるのか
 メアリー・ポピンズはナニーの典型
 ナニーと子供たちの別れ
 児童文学と階級
 ナニーという大きな存在

コンパニオンから女主人へ―ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』
 名前のないヒロイン
 階級とコンパニオンという仕事
 主人を悩ませる「使用人問題」
 投影された作者の「使用人問題」
 嫉妬と誤解
 「殺人」から「事故」へのハッピーエンド

III 階級と男たち

ジェントルマンと教育―チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』
 親の階級を超える子供たち
 インテリではないアッパー・クラス
 階級と教育
 ピップの話し方の謎
 ディケンズ作品映画のひそかな見どころ
 階級社会のメロドラマと子供の出世
 そしてディケンズの子孫も

愛を勝ちとる「格下の男」―E・M・フォースター『眺めのいい部屋』
 イギリス人の観光客
 ワーズワースと「習い覚えた嗜好」
 「海外のイギリス人」のステレオタイプ
 観光客どうしの階級の溝
 階級と郊外という場所
 ヒロインをとりまく二人の男
 細やかに描かれたミドル・クラスのスノビズム

「手の届かない女」への偏執―ジョン・ファウルズ『コレクター』
 ある練習問題
 『コレクター』のストーリー
 なぜ映画化が難しいか
 ロウアー・ミドル・クラスという「喜劇的手法」
 主人公はどのような「口調」で描かれているか
 主人公と対照的なヒロインの言葉
 描かれなかった階級的要素と、変容

IV イギリス人が異世界を描けば

「ユートピア」は階級社会の行く末?―H・G・ウェルズ『タイム・マシン』
 階級とともに語られる作家
 ウェルズという作家
 ウェルズとマルクス主義
 作品に投影された階級観
 映画化作品と「時代の関心」

悪の権化はなぜ「フツーの人」になったのか?―アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』
 不満だらけの映画化作品
 映画化作品のストーリー
 なぜ結末が違うのか
 「ステレオタイプ」からの脱却と言葉づかい
 隠語と言葉遊び
 『時計じかけのオレンジ』でのしかけ
 階級を超えた主人公
 悪の権化の「成長」が示すもの

魔法使いにも階級がある―J・K・ロウリング『ハリー・ポッター』
 イギリス児童文学と「学校もの」
 パブリック・スクールは地獄?
 ミドル・クラス層の増大と「学校もの」の隆盛
 「別の世界」への憧れ
 日英でのとらえ方のズレ
 配役とアクセント

V マイノリティたちのイギリス

日系作家の描いた「古きよきイギリス」―カズオ・イシグロ『日の名残り』
 現代バトラー事情
 舞台のバトラー
 イシグロのニッポン描写
 「型」で書かれた『日の名残り』
 イシグロの「無国籍性」
 「本物のイギリス」像へ

「新しいイギリス人」と越境する新世代―ハニーフ・クレイシ『郊外のブッダ』ほか
 ウェスト・エンドの劇場で
 多文化国家イギリス
 「サバービア」という舞台
 新しいミドル・クラスたち
 越境する新世代

あとがき
主な参考文献

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2006.01.13

小説エマ 1・2 (1)

Emma_Novel1 ※2006.1.13.に書きかけ。1.20.にアップ。

 ヴィクトリア熱というか。北原尚彦氏の小説第2巻解説は共感した一文。
 森薫『エマ』のおかげでヴィクトリア朝再入門といった趣きだ。昨年は随分と本を買い込んだ。年末年始に雑多な未整理の山に手を着けてやっと、昨年はエマの年だったなぁと実感する始末。気分転換にとポツポツと読み始めているが、なかなか意外な刺激がある。
 久美沙織の筆による小説には、とっつきにくい印象が残っていた。第1巻を手にした時点では。それが、たまたま第2巻から読み出したら、読める読める。ありゃ面白いや、と第1巻に戻ると、確かに違和感があって。1巻から素直に入ると続かなかったかも。これは不幸だ…。
 小説第2巻が面白いのは元々対応する原作の第2巻が盛り上がるストーリーだということもある。クライマックスがあるし、構成にもリズムがある。しかしその上でこの小説は、北原氏おっしゃるように「ヴィクトリア朝小説」として読んで面白いなぁと。ヴィクトリア朝が舞台という意味だけでなく、「あの時代の読み物」風。そこで第2巻は面白く読めたのだ。
 ホームズ物語の英語はよくも悪くもあの時代のもので構文が格式張っているらしいし、物語の構成も当時の典型的なスタイルと聞く。ドイルは書き手としては光るものがなかったのかもしれないが、叙景的な描写はともかくよく出てくる。ディケンズやらスティーヴンスンを同列に並べては違和感のある向きもあろうが、叙景にしろ叙情にしろあのくどくどしい感じが似ていると思う。
 そう、ヴィクトリア朝小説としての小説エマ。2巻は確かに、久美節は「幸せな結婚」を見せているように思う。長い叙景や叙情は波長が合わないとクドく感じるが、読めるときは流れるように描写が頭の中に流れ込んでくる。

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2006.01.14

小説エマ 1・2 (2)

Emma_Novel2  承前。

 原作と対比して、久美節の個性は3つの面に感じられた。一つは、登場人物の性格造形。一つは、感情や内面の描写(叙情)。一つは、当時の社会の背景描写(叙景)。
  第1巻解説で村上リコ氏が書いている。「久美さんが執筆を進めるにあたって、一度、映像資料のおすすめをするメールのやり取りをさせていただきました。一 九世紀ロンドンの情景を「視る」ために―という言葉を彼女は使いました。久美さんは心の眼で「視て」書く方なのですね。…(中略)…情景、音、匂いのみな らず、人々の心の動きまでも克明に、その世界にあるものとして幻視させてくれる文章がここにはあります」。
 そうなのだな。逆に言えば、原作のマ ンガは、ただただ淡々と心の内奥も何も語りもせず、音も立てずにカットの連続で描写していく。あのやわらかなタッチと繊細な凝りようが、たまらないのだ が。それは文章ではむしろできないことだ。むしろまた、マンガの描写は突き放しているとさえ思う。描写が意味するところが何であるか、そこがどこか、映っ ている服装とか、作法とか、モノが何か、その中での心情の推移とか。そこに、久美沙織の筆の入る余地があった。例えばモノが何か、森薫は自分の思い入れを 込めて丹念に書き込むけれども、わからない読者にはわからない。重要な描写であったとしても。文章は、そこに焦点を当てて書かないわけにはいかない。そこ で単なる書き起こしに負けていない、久美沙織の「視線」の個性が表れていたと思う。
 ある意味ではクドクドしいところがある「ホームズ物語」を、 人物の会話部分だけ取り出して分析的に読む人々がいるそうだ。この小説エマでも、そんなふうに読んでいる自分を意識した。というのも、心情描写のために、 改めて伏線や流れを作っているところがあり、マンガで描かれている場面の前後をうまく書いている。内心の声も含めて。その肉付け、ふくらませ方は、自分は 悪くないと思った。
 ただ、性格造型は久美沙織独特の領域があって。特にハキムである。第1巻は何とはなしに、マンガからの「逸脱」と感じさせる 描写が多かったように思う。残念ながら原作ノヴェライズの場合、読者の既存のイメージがあるから、そこでズレを生じさせると損だ。おそらく、第2巻を書く 時点ではアニメも終盤にさしかかり、確かにアニメ化をきっかけとしたノヴェライズだったのだろうけれど、広い意味での「エマ」ファン(数多く関わった作り 手を含む)のもつイメージがつかみやすくなっていたのだろう。うまく軌道修正できたのではないだろうか。

 この小説を、「ヴィクトリア朝を勉強しました!」という饒舌さに辟易して読めない、という人は多いようだ。自分はしかし、第2巻から読んでみたら 小説として成り立っているように感じた。終盤に差しかかるにつれて「くそー、またうまく泣けるように書いてある…」と久美節のよさを感じた。アニメ第12 話も、小説第2巻も、マンガの第2巻が少々物足りなく感じるくらいだ。
 そういった熱くさせる何かがあって、「その背景を知りたい」と思わせられ たのである。背景となったその時代にだって、人は生きていて。その無名な人々の一人一人だからこそ、『エマ』に登場する人々は魅力的なのだろうから。まさ に自分にとっては、「ヴィクトリア朝小説」である。

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2006.01.16

Intel Mac、Firefoxのことども。含デスクトップテーマ

 Intel Macのアナウンスがあった。いまだにOS8.6がメインだが、さてMacOS Xのマシンはどうするかなぁ。PowerPC搭載のMac Miniがほしくはあるが…。
 久しぶりにMacのことを調べてみた。

 旧機種のアップグレードなど、情報を載せているところは少なくなっている。Vintage Computer, LLCを覗くと、ちょうどホームページの改装をしたところ。
 社長さんのブログがいい。Intel Macの発表があったMacWorld Expoの記事を探していて辿り着いたのが、たまたまVintage Computerだった。
 へえデスクトップ即日販売開始かと驚くが、ノートの名称はMacBook Proに。PowerBookはPowerPCを想起させるので改称するのでは?という。MacintoshのノートパソコンはPowerPC搭載以前からPowerBookだったから、確かにずっとややこしかった。今さらという気もするけれど、わかりやすいか。にしても、MacBookなんて名前はセンスがない。PowerBookは憧れだったけど、高いのと、ノートをWindowsにしてきたので、買う機会がなかった。こんな名前じゃブランドイメージもないし、買いたくなくなる。現行のiMacのデザインは単なる箱にしか見えないし、なんだか残念。
 改めて、こちらのお店のことがわかる。十人に満たないベンチャー企業らしいこと。アメリカにあること。確かにあっちなら、日本よりもパーツは入手しやすいのだろう。
 G4のアップグレードCPUは、PowerPCに上位速度の石がないわけではないが、Intel Macの発表後では、需要が望めずべらぼうに高くつくために商品化が困難らしい。これまた悲しい。Intel MacがClassicOS稼働環境として心配がないなら問題ないのだけれど。
 オールドMacの情報交換はこちらの掲示板くらいしかないんじゃないか。Do-夢の掲示板も随分前になくなったようだし。

 実のところ、昨年のココログのバージョンアップがあってから、メインマシン=WaMComでのココログのメンテナンスはできなくなってしまった。細部をいじる程度ならできるのだけれど、新規記事の作成はなぜか入力からできない。昨年春にNiftyManagerが停止、WindowsのメールクライアントにEudoraを入れてからは、いい加減ロートルとなりつつあるはずのLibretto L3への依存度が高くなってきた。Firefoxも入れているし、iTunesもストレスなく動作する。
 Firefoxは年末に1.5がリリース。アップグレードしたついでに、テーマをたくさんダウンロードしてきた。MacOS X風のものは以前から使っていたが、バリエーションが増えた。
 Intel Mac以後ではいよいよ、気分だけでもMacを使っている気になるためには、Windowsノートを「似せMac」にするしかないか。Windows95の時代からMacOSのデザインを使ってきたけれど、これまたひさしぶりにデスクトップテーマ漁りを。よく探すのは、Star Trek、Star Wars、MacOS、Sherlock Holmes、イギリス、チェスといったところだ。

 普通にデスクトップテーマのアーカイヴを漁っても、昔あった筈のMacOS Xのアピアランス=Aqua風のデザインが見つからない。
 変だなと調べていたらようやく、2002年にAppleが著作権を振りまわしていたことがわかった。ありゃ…こんなところでも著作権かよ!ユーザの自由なカスタマイズに、法的に圧力かけないとやっていけないなんて。情けないな、Apple。
 デスクトップテーマには文句を言ったが、個々に組み合わせるのはいいらしい。デスクトップテーマはそもそもが個々のデザインの組み合わせを簡単なパッケージにしたものでしかない。手間が省けてありがたいが、そこが争いなのだろう。
 面倒だ諦めるかと思っていたら、よく覗いているブログご自身のカスタマイズを紹介していた記事があったことに気づく。デザインのせいで重くなっては困るから、実際には試してみないと常用するかは決められないのだけれど、まあやってみようと思っている。

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2006.01.17

N先生のことば

 (疲れているので、元気を出そうと思って書いた。)

 数年前に少しお付き合いさせていただいた、「当時学生さん」がいる。一年に一度やりとりをするかしないかくらい、それもここ数年は年賀状もきちんと出せない状態が続いているのに、あちらから連絡をくださる。
 今年も、先方からメールをいただいた。就職したという。早いなーと思って目を進めると…。
 図書館に。びっくり。
 よく勉強していて、問題意識が高い。もったいない、あとで「図書館なんかに就職しちゃって」と思うのではないかと勧めなかったつもりだったが、聞いてくれるのをいいことにこちらは勝手に毒を吐かせていただいたっけ。
 自分のようにダラダラしておらず折り目正しい文章。続けて次のことばが目に入ってきた。

 「司書や図書館が社会的に正当な地位を得られるかどうかは、正職員司書がどれだけ社会的に認められるような仕事をするかにかかっている」

 自分が昨年、お送りしたのだという。ダメだ、頭が死んでる。
 メールは、このことばへの同意と、しかし日々忙殺される現状、なおしかし前向きな気持ちが綴られている。

 自分のことばではない。
 きちんと形になったことばを送ったわけではないが、N先生のことばだ。講演を聴きに行って以来、共感している。(まあ、この主張に「ピンと来る」人はそっとしておいてください。N先生に迷惑がかかるといけないので。)
 めぐりめぐって「いまの自分」に返ってくるとは。
 たまたま前後して、近況を知る知人にN先生の様子を聞いたところだったから、冷水をかけられたような気持ちだ。

 もちろん、忘れたわけではない。それこそ、毎日とんでもなく「忸怩たる思い」で、日々過ごしている。
 黙々と資料を整理する。手際が悪いったらない。理屈はいいのだ。手を動かせ、手を。
 しかし、日々の積み重ねの先の、何に立ち向かっているのか。自分の力のなさに情けなくなる。
 なんだか、遠くに灯を見たような思いだ。ありがとう。

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2006.01.18

「匿名の卑怯者」という捉え方と対策についてのメモ

※2006.1.21.アップ。しばらく考えていて、1.18.に書き始めた。

 ネット上の匿名論議、問題視すること自体がだんだんわからなくなってきた。

 ときどき覗いているブログに採り上げられた元記事を参照しようと、弁護士落合洋司(東京弁護士会)の「日々是好日」に跳んでみたら、ありゃまたコメント欄でアバレてる。小倉秀夫弁護士。
 順に参照URLをメモしておく。

 今回見つけた大アバレ。唐突な印象。
弁護士落合洋司(東京弁護士会)の「日々是好日」:2006-1-17のコメント欄。

 小倉弁護士の"ウォッチャー"らしき方のブログ。
ネット樹海の魔窟から:出張ブログ放火のメリット
ネット樹海の魔窟から:師匠延々炎上観測

 町村泰貴教授のところでのやりとり。
Matimulog:anonyme:落合弁護士の見解

 上記「出張ブログ放火の…」に採り上げられた小倉弁護士の「まとめ」。観察記を1から見ることも。
世界の中心で左右をヲチするノケモノ:[炎上観察記:弁護士編]俺が見てきたこと【観察記まとめ4】

 「コメントスクラム」の語の解説。メディアスクラムという言葉からの造語だったのかぁ。
はてなダイアリー - コメントスクラムとは

 …ふぅ。
 小倉弁護士は、船橋市西図書館事件最高裁判決では著作権者との構図にあって図書館に配慮した記事を書いておられる。「ウェブログ図書館」で初めてお知らせいただいて、好印象を抱いた。言いたい放題:著作権vs表現の自由で言われているようなセンスが共有できそうで、嬉しかったからだ。ところが「のまネコ問題」の記事では、エエッ!という反応を返してしまった。確かに自分も不勉強なところはあった。それでも、未だに違和感は残っている。

 表現の自由の規制においては法概念上、あいまいな、時代によって変遷がありうる(=あまり法概念としてはふさわしくない)概念が残っている。わいせつ、名誉毀損、プライバシーだ。財産権はその意味では、理論的には整理済みの議論だと捉えている(あくまで「理論的に」ね)。
 だから、著作者人格権ならまだしも、著作者財産権のレベルで「伝統的な表現の自由」とぶつかる(―というより現状では「著作権が当然のごとく優先する」)という思考はアホかーい、と思ってしまうのだ。なお、図書館の問題は「伝統的な表現の自由」の問題ではないから「また別」ですけど。

 そんな、自分としては好意を抱きかけた彼が、なぜ「匿名の卑怯者」にこだわるのか。問題視する意識がどのようなものか気になっていたし、彼の言うような対応策が妥当なのか?とも思っていた。
 ちなみに、2chのような匿名掲示板は全肯定していいのかよく自分にもわかりません。価値観や規範でどうこう言う以前に現実、やっぱり「ネットってのはアンダーグラウンドな部分があるもの」なんじゃないかなあと思うんですね。だから、「ネット肯定論でそのまま行く」っていう立場もまた取らずに書いています。

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2006.01.19

匿名って、「当たり前のこと」じゃないのか

※2006.1.21.アップ。しばらく考えていて、1.18.に書き始めた。

 前項からの続き。

 そうそう、匿名に対する批判的な態度は、西尾幹二博士もとっておいでだった。

 本当は、規範的な意味を求めるのだとすれば、憲法学上の表現の自由において匿名性がどう扱われてきたか調べて書くべきなんだろうけれど。規範的判断が歴史的にどのような背景があって、とか。誰か教えてください。
 それでも、前の記事でリンクを張った町村ブログでの法学関係者の議論を見ていると、大上段な規範じゃなくて「目の前にあるネット環境においてどうするのがいいのか」という観点で論じているからいい。

 しかし最近離れた目で考えてしまうのは―具体に降りるにしても、歴史を見てみるというのも大事かなと思う。それも、即規範の世界にいってしまうのではなくて、ごく素朴に、匿名の表現ってどんなものだったか。匿名の背景に読む・書くということについて実際にどんな自由度があったのか。(別に以下で詳述するわけじゃないですけどもね。)

 幸いなことに図書館に勤めているおかげで、昔の出版物についての事柄を知る機会がときどきある。
 フランス革命のときに匿名の出版物が大きな力になったこととか。
 ジェイン・オースティンが匿名で書いていたこととか。
 19世紀のイギリスでは、本は労働者階級にとって「買う」ものではなかったし、教養ある女性たちが書き手になるには社会的に困難があったこととか。

 匿名なんて、よくあることだし、よくあったことなんだよな。実名の文化なり、表現者のID化の方が、珍しいようにも思う。(中国のネット社会は明らかに国の手がわざわざ入っているのだけれども、韓国のネット社会はどうして顕名の文化なんでしょう。やっぱり制度設計がある?)
 ネットでは確かに「コメントスクラム」なんて言いたくなる状況ってのはあるわけだけれども。法学部の先生って、特に憲法の先生って、活動家にからまれることは昔からあったようだし。「人権と報道」という捉え方があって、新聞・雑誌対個人という構図もある。
 ネットは確かに、自分の表現を簡単に誰でもが載せることができるようになった。紙の出版物に比べると格段にコストがかからない。痛い目にも遭いやすいかなあと思う。匿名に比べると、顕名なりID化のリスクは確かにある。
 でも、匿名が異常かというと、「昔からあること」なんじゃないか。名乗ってコミュニケーションをすることを「常態にしてしまう」よりは、名乗るかどうかを当人、関係者相互で個々に定めればよい。そういうもんじゃないのかな、といまは思っている。

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2006.01.20

Eudoraとライブドア

 ちゃんとメーラの更新やら移行を続けている人は問題ないのだろうけれど。
 Thunderbird考えよっかな〜という話。Outlook Expressなんか使ってるコワイ人は考慮の外ですよ。

 メールソフトは、パソコンの導入当初よりMacとWinの二足のわらじだったので、いつでもコンバートできるか、どちらかをメインにしてサブはただバックアップに、という考えになってしまった。
 年頭にMacユーザの知人から、旧環境を整理した旨伝えるメールに、「まだ最初からのメールが読める」と全てのソフト名を付けて書いてあった。さすがにComNifty時代は茄子ファイルだが、クラリスメールだけはインポートがうまくいかない。それでもほかのメールソフトのファイルは、MacOS XのMailという味も素っ気もない名前のアプリケーションで読み込むことができたようだ。
 自分もだいたいとってある。そもそも旧い環境をそのまま起動できる状態にある。WindowsではNiftyManagerをお陀仏になるまで使い続けていて、Windows 2000にもWin95からのファイルを移してきてある。Macでは、太古ComNifty時代はそもそも一通ずつテキストファイルを作成していたし、その後Eudoraを入れた。ほぼ平行してNetscape4.xでもバックアップを取るという用心深さ(…それくらいMacは当初トラブルが多かった)。
 Eudoraと付き合うようになったのは、Ver.4.xから。選んだ理由は、Windows版とMac版が同梱されていたため。メールソフトが登場した頃からある老舗、UNIX版からあったことくらいは耳にしていた。確かポストペットで初めて二つめのアカウントを取ったのだが、手許にマルチアカウント対応のソフトがなくて、それで製品版のメールソフトを物色したんだっけ。
 無償ながらNetscape4.xは信頼性が高い。職場ではずっと、未だにこれを使っている。絶対の汎用性がある。ほとんどのソフトでインポートが可能(元のファイルはシンプルなHTMLのようだから、たぶんOSの如何を問わないんじゃないかな)。マルチアカウントには対応していないながら、自動切り分け機能は実に便利に使っていた。初期設定だの含むフォルダ構成も単純だから、一括して引っ越せる。文字コードもこの時代までは全部読めるし。ホント、文字コードがあるから、そろそろBecky!かThunderbird辺りに移行を考えていいのかもしれない。

 ただ、そのEudoraの有償化ののちのある時代から、今のライブドアが絡んでいたって話。今回探してよくまとまってるなーと思ったのはこちらの記事だが(記事中リンク先も参照)、ほかの人も去年のフジテレビ買収劇の頃に触れているから、自分はかなり遅れてきた人である。
 自分がMac版Eudoraに世話になり始めた頃は、しばらく日本語版の取り扱いはクニ・リサーチだった。それが、オン・ザ・エッジになり、ライブドアになった…らしいのだが、ちゃんと追いかけていないから、よくわかっていなかった。エッジになってからバージョンアップのときにいやにカネをむしるなあ。まいいやこのまんまで、MacOS Xないし、とバージョンを上げなかった。
 それが、WindowsでNiftyManager中止のアトガマに「おおこんなときのためにEudoraのWindows版を用意しておいたんだ」と使い出した。ところが、Windows版はEudoraといってもちょっと違っていた。そこから、Mac版Eudoraも含めて、「うーん、何か違うな〜」と思っていたことに気がつく。ちなみに、今使ってるのも型落ち品。Ver.5.1だから、最新Ver.7.xがどうなってるかは知りません。
 ひとつは、ヘッダ情報が全部表示されないこと。送信がどこのサーバからかとか、確かめたいとき困る。ひとつは、Win版のみ、メールサーバ側でときどき起こる文字化けに対応できない。Mac版では大丈夫だから、どうも文字コードのせいのようなんだが。あとWin版で一番困ってるのが、テンプレートを作ったのに変な挙動を見せること。アテにならないんだよね。たぶん自分の環境だけだと思うが、いちいち調べているヒマがない。
 今回いろいろ調べていて、意外にも「Eudoraのメールファイルは添付ファイルまで含めて素直に移行できるかというと、そうでもない」という話がひっかかってきたこと。JustsystemのShurikenのコンバータを使って移行したなんてことが書いてあって、大いに助かりそう。これまた2002年段階の話だから、自分は周回遅れもいいところだが。

 ライブドアだから心配だ、なんてのは変な考え方だ(こんな困った話題も拾った)が、Eudoraが変節したというか、なんだか雰囲気が違うんじゃないのと感じていた背景には、何もないわけじゃなかったんだなということに今さら気づいたということ。まあ、パーソナルコンピュータだとか、初期のインターネットの理念を体現したものというのは、大きくなるにつれて次第に変わらないわけはない。Appleのように。伝説は伝説で、信奉し続けるのがいいというものではないのだな。基盤が難しいんだし、どんどん新しい人々が出入りしていくのが当たり前か。
 NetscapeがAOLに買収され、その後牙を抜かれ、しかしMozillaとして還ってきたのは奇跡かもしれない。Operaだってライブドア傘下に入った頃には一時有償化しちゃって、エエ!?と思いましたもん。Firefoxがヨーロッパでシェア20%という報道はすごい。数年前迄「現在のパソコンで充分、OSのバージョンアップしないんだからしばらくはブラウザもNetscape4.78でいいや」と思っていたのが、タブブラウザ機能に惹かれてようやくNetscape7.1を使うようになったのが2003年。使い勝手、見た目、危険でないかどうか。その後継たるFirefoxがここまで満足度が高いと、Firefoxに対応するメールソフトThunderbirdを試してみようという気にもなってきた。Eudora Ver.6.x以降のメリット、迷惑メールフィルタを耳にしていた頃から、Mozillaのメールフィルタは無償なのに有効だという評価があった。Mac側のOSをどうするか決めるときが来たら、今度こそ移行するだろう。

 それにしても、Eudora。どうなっちゃうんだろうなあ。けっして嫌いなソフトではなかったのに。好きじゃなきゃ使ってないよ…。ライブドアがダメになっても、国内販売の代理店は、いいところが拾ってくれるといいなあ。

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2006.01.21

目次:本田毅彦『大英帝国の大事典作り』

大英帝国の大事典作り
本田毅彦
講談社選書メチエ, 2005.11

序章 イギリス社会における「知」のインフラ―辞書・事典作りの伝統

第一章 『ブリタニカ百科事典』歴史
 第一節 一八世紀という時代
 第二節 『サイクロピーディア』から『百科全書』へ
 第三節 『ブリタニカ』

第二章 『オックスフォード英語辞典』の歴史
 第一節 イギリスにおける辞書編纂の歴史
 第二節 グリム兄弟と『ドイツ語辞典』
 第三節 ジェイムズ・マリーと『OED』
 第四節 『OED』に対する、現在の視点からの評価・批判

第三章 『イギリス国民伝記辞典』の歴史
 第一節 イギリス人と伝記―ジョン・オーブリーからレズリー・スティーヴンへ
 第二節 レズリー・スティーヴンの生涯
 第三節 スティーヴンと『DNB』

第四章 三つの辞書・事典の現状と将来

あとがき

人名索引

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2006.01.22

風邪をひきました

 布団にくるまって気晴らしの本を読み。
 モヤモヤしている想念を頭から追い出してスッキリさせようと記事に。
 それで、やけにエントリが増えています。そうでなきゃ書けませんって。

 顎の感じが変だし、頭は痛いし。膝の寒さは尋常じゃない…。目が悪くなってるのは携帯のせいだな。
 ああもう。気持ち悪い。明瞭な頭の人が羨ましい。

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2006.01.23

タグふれんずの投票箱

 アンケートやってます。
 投票箱は家電扱いなので、期限が来るとなくなっちゃう。前にもらったのはこの〆切を忘れていていつの間にかなくなってしまい、最終結果がわからなくなってしまって残念だった。
 久しぶりにもらって設置してみたら、前の設問と回答がそのまま残っていた!

Q「生活圏域に図書館はありますか?使ってるかどうかは別にして」
・ある 79%
・ない 18%
・考えたこともなかった 6%
 total 49 vote (2006.1.22現在)

 タグふれユーザは図書館に恵まれた人が多いみたいなんだよなー。でも、「ない」という人もけっこういるし、はっきりと「考えたこともなかった」と言ってくださる方もいて。まだ楽しみなんですよね。

 せっかくなので、そのまま継続します。

【2006.1.24.追記】
 タグふれんずリングに参加。タグふれの場合、ワンクリックでランダムに跳んでいく意義大ありなので。

タグふれんずリング
・お借りしたナビゲーションバー・デザインはWHOOPS!

 シンプルなデザインのを何度かお見かけして、気に入っていたので、あるときタグ内の掲示板に「不躾ながらお許しください。どこでお借りしたものですか」と問い合わせたものです。ゆみさん、お知らせくださって大変感謝しております!
 みなさん、よくこんなに小さいデザインできるし、マッピングできるよなあ…。設置はけっこう大変でした。好きこそものの上手なれというか、ブログ行くトコみんな力入れてきれいにしてるよ…。改めてびっくり。

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2006.01.24

目次:小林章夫『召使いたちの大英帝国』

召使いたちの大英帝国
小林章夫
洋泉社新書, 2005.7

プロローグ
家事使用人が多くいた 使用人はなぜイギリスが本場なのか 執事はイギリス的職業?

第1章 広大な使用人の世界―執事から従僕まで
イギリスは、召使いにとっては煉獄? 使用人の頂点に立つ執事 主人と見分けがつかない召使い頭 フランス人シェフとイギリス料理 バトラーの仕事は酒の管理から 「ジェントルマン付きのジェントルマン」、従者 長身でハンサムなフットマン

第2章 女使用人たちの仕事
「うるさ型」の怖いハウスキーパー 若くて従順な小間使いは奥様専用 「ミセス」と呼ばれた女性料理人 育児室の主、乳母 目が回るほど忙しい女中 他にもまだまだいた召使いたち

第3章 使用人部屋の世界を覗いてみれば
膨大な経費で使用人を雇う 使用人たちの年俸はいくらぐらいだったのか? 福利厚生が充実していた使用人 使用人の余得―チップと付け届け ちょっと息抜き 使用人の一日を覗く 何歳から働くか 召使いたちの退職後の生活

第4章 主人もさまざま、使用人もさまざま
一二匹の犬を食卓に座らせた主人 エキセントリックな主人の奇矯な振る舞い 思いやりのあるご主人も…… 『召使いへの忠告』 手抜きの方法教えます 赤ん坊を落としても知らん顔 上手にチップを手に入れる方法 いい召使いを雇うには?

第5章 貞操の危機―主人と使用人の緊張した関係
小間使いパミラのシンデレラ物語 『パミラ』のパロディ―男を手玉に取るシャミラ 愛人から売春婦になった女性召使い 召使い部屋は危険な場所 女も誘惑する 女中と夫を関係させる奥様 使用人との幸せな結婚 主人と召使いの同性愛

第6章 使用人と新天地
黒人少年売ります 召使いか?奴隷か? 海を渡る召使い 有名無実だった年季奉公契約 オーストラリアへ渡る人々 厚遇されたイギリスの召使い 召使いの上手な使い方

第7章 貴族の没落と召使いの変化
土地に頼って生きる貴族 貴族が没落していく 中産階級も召使いを雇うようになる 新しい召使い―運転手 よい召使いとはどのようなものか 過酷な条件で暮らす召使い 使用人世界の階級制度が消えていく

第8章 現代使用人事情
サーヴィス産業の発達と新たな使用人 どっこい、ナニーは生きている 女性の憧れの的、ナニー養成学校 執事もまた生き続ける ニュービジネス、執事養成学校 住み込みからパートの時代へ

エピローグ
家事労働は減ったのか 住宅事情が使用人を減らす 使用人は魅力的な職業だった

参考文献
あとがき

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目次:南條竹則『ドリトル先生の英国』

※感想はこちら

ドリトル先生の英国
南條竹則
文春新書, 2000.10

はじめに
名前について

第一章 博物学者
発端―物語の生い立ち 沼のほとりのパドルビー ドリトル先生の家 先生の庭 博物学者 ドリトル先生と進化論 もう一人の博物学者

第二章 興業の世界
ドリトル先生の金銭感覚 珍獣オシツオサレツ 「ブロッサム・サーカス」 パドルビーのだんまり芝居 「パンチとジュディー」の犬 にせ医者《ブラウン医学博士》 「カナリア・オペラ」 ドリトル先生とパガニーニ 画家モーランド

第三章 ドリトル家の食卓
楽しい台所 「古英国卓上暦」 先生の好物 美食家ガブガブ オランダボウフウの謎 『ガブガブの書』 町の名物 アブラミのお菓子 菜食と肉食について

第四章 ドリトル先生と女性
独身者 先生の家族構成 ドリトル先生は女嫌い? ヴィクトリア朝と女性 "新しい女"ピピネラ 白ネズミの恋人 オットセイとの駆け落ち

第五章 ドリトル先生と階級社会
靴屋主人との合奏 猫肉屋 世捨て人のルカ 貝ほりのジョー 治安判事ウィリアム・ピーボディ卿 動物にも階級あり スズメのべらんめえ イースト・エンドのドリトル先生 「無料骨店」その他 「ネズミ・クラブ」

第六章 世界の友
ジョリキンキの王子 ドリトル先生のライヴァル ファンティポのココ王 神秘の国・日本 植民地主義 月の巨人

第七章 ドリトル先生と聖書の世界
秘密の湖 ノアの方舟 アジアからきた外国人 フランチェスコ聖者との似より あまねき愛

あとがき―ドリトル先生の訳者―

参考文献
図版一覧

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2006.01.25

サイドバーのコメントツリー化と折り畳み

くくさんの"のっぺり"でゴー:ブログ人でコメントをツリー化
facet-divers:サイドバー折り畳み2:状態保持機能付き

 愚智提衡而立治之至也:「最近のコメント」表示のツリー化成功を読んで、同じくできないか四苦八苦。時間がない中うまくいかなかったので、他の方法も試してみたらうまくいったのが現状。これはこれで気に入っている。
 サイドバーがいい加減長くなってしまい、「折り畳んでしまってスッキリさせたい」というのもまた、希望だったから。ココログ:Tipsにも採り上げられている定番のfacet-driverさんのノウハウだし(古いのかな?)。

 しかし、トラックバックのツリー表示はMovableTypeのプラグインを入れるだとかしないとダメみたい。こうなると自分の知識じゃよくわかりませーん。簡単なんだろうか?

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2006.01.26

感想:南條竹則『ドリトル先生の英国』

DollitleinBritain ・目次はこちら
・子どもの頃熱中した。が、最後の数巻は未読。数年前、差別語狩りに遭うと聞いて、岩波少年文庫版を中古で購入してある。
・図に採られた作者ロフティング自身の手になる挿絵に惚れ直す。自分が最初に出会ったのは、学研の児童文学全集に収められた『航海記』で、水上勉の絵だった!これまた魅力的だった。実家に残ってるかな…。
・「ドリトル先生物語」もまた、19世紀イギリスのジェントリの話だった。ドリトル先生は全然ジェントリらしくないが、やはりその歴史的社会的背景を知って読み込むというのは非常に興味深い。これぞ知識人、大人の子ども読み!という感じ。大人になっても、なったからこそ、作品への愛情がじわぁっと伝わってきた本だった。訳に携わった石井桃子、井伏鱒二についてあとがきでまで語ってくれているが、これ「あとがき」じゃないよ絶対。
『ガブガブの本』、ほしくなった!南條さんの訳。いい仕事してる。こういうの見ると、出版産業って金儲けだけじゃ絶対やれないよなーと思う。

・第一章 第一次大戦下1920年代の執筆。パドルビーがどこか。ロフティングは1886.1.14.バークシャーのメイドゥンヘッド生(ロンドンから近い)。家と庭に見るジェントリとその逸脱者の生活。博物学・進化論の時代(1828年ロンドン動物園inリージェント・パーク)。『航海記』の始まりは1839年に設定、ダーウィン以前(『種の起源』1859年)。
・第二章 「ハーレクインの無言劇」に必ず出てくるパンタローネ、アルレッキーノ、…、コロンビーナ(どこかで耳に…)。「パンチとジュディー」に必ず出てくる犬トビー(トビーはホームズに出てくる犬の名前)。quacksalver(『閃光のハサウェイ』)。ビーチャムの丸薬。パガニーニ。
・第三章 平田禿木『古英国卓上暦』四季折々の英国定番の美味。ウミガメのスープ(『エマ』)。パセリならぬオランダボウフウの訳。アニメ版ジャングル大帝をひきつつ「ドリトル先生は菜食主義者ではない」。
・第四章 英国と独身者(『独身者の思想史』)。
・第五章 『航海記』1923年ニューベリー児童文学賞受賞。スタビンズ君は下層階級の出。猫肉屋と『ロンドンの街の声』。上流階級の狐狩り。動物たちに描き出された階級意識、ことば。ジャック・ロンドン『どん底のひとびと』。「貧乏犬のためのイースト・エンド無料骨店」「引退した辻馬車馬、荷馬車馬の会」「雑種犬ホーム」。「ネズミ・クラブ」の会員は初め五十匹だったのが、ネズミ算式に増えて五千匹になった。Mooniversary。
・第六章 バンポはオックスフォード大。ドリトル先生の博愛主義の困難。月の三部作にみるラヴクラフトの「宇宙的恐怖」。
・第七章 『秘密の湖』の文学的失敗。ノアと旧世界への絶望。マシュツ王=ヒトラー。コールリッジの詩によるしめくくり。

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2006.01.27

参考資料:『ドリトル先生物語』

Doctor Dolittle - Wikipedia
 プロジェクト・グーテンベルクに既収とは!

A Doctor Dolittle fan website

ドリトル先生 - ウィキペディア

Jardin Soleil内、南條竹則さんの本の感想のページ
 南條さんって英文学科卒でファンタジーノベル大賞受賞者なのね…。

・2000年の新版と「差別的表現」指摘の経緯
 2001.12.20.毎日新聞
 2002.2.4.朝日新聞の感想
 黒人差別をなくす会 - ウィキペディア

 しかし「サンボ」のみならず「黒ベエ」に「Qちゃん」まで奴らの仕業だったのか!(差別的表現で狩られたのは知ってたけど…)次の記事の気持ちは共有できる。自分も2001年末の報を聞いて(その後を知らずに)、慌てて買いに走った口だもんね。いやー、この本↓ぜひ発禁にすべきだよ(大笑)。あー、すっきり。
 2002.2.12.冗呆記:ある物語を発禁にせよ
 この指摘は、マジメに差別的表現を論じているときにも「じゃ、これはいいの?どうして?」と整合性を語る必要のある指摘。論は公教育での国語教育の位置づけにも及ぶんじゃないか?

FORZA!! 黒人差別をなくす会(「黒人差別をなくす会」非公式非認定応援ページ)
 黒人差別をなくすページの下位メニュー。もう元気ないんかな。

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2006.01.28

Googleパーソナライズド検索

 便利!
 Googleアカウントを取得する機会があって、ついでにGoogleツールバーを入れてみたりしている。ツールバーはツールバーで意外な効用にホクホクしているんだけれども。
 驚いたのが、Googleで検索した結果を全部保存していてくれる「検索履歴」。検索した結果から、クリックして開いてみたものも記録してある。だから、過去検索して見てみたページを「あれ何だったっけな…」というとき、この「検索履歴」を見ればすぐにわかる。どこのPCで検索しても、Googleでさえあればみな保持していてくれる。もちろん、MacでもWindowsでも!
 その上、「Googleブックマーク」。最初は、あれ、これはMyYahoo!のブックマーク機能かなあと侮っていたが、全然違う。あれはブラウザに保存してあるブックマークファイルを読み込むだけ。Googleブックマークは、先の検索履歴で開いて見たページの右側に、☆マークがある。このページをブックマークしておきたければ、クリックすると★に。Googleブックマークに登録されて、もちろんGoogleでログインできるところであれば、どこからでも利用ができるというブックマーク。
 当然、個人情報なので、取り扱いは注意だが、頻繁にパスワードを聞いてくるので、多少の安心がある。それに、ブラウザ側で履歴やフォームデータを保持している設定になっていなくても、Googleで調べてさえいれば、自分がどんなことを調べたのかは一目瞭然。効率的に調べものができる。

 これ、まだベータ版だけど、Yahoo!とかは危機感もってるんじゃないかなあ。だって、Yahoo!で検索しても履歴が残らないから、じゃ「何はともあれGoogleで調べよ」って気になるもの。
 もちろん、履歴を残さないようにしたいときは、Yahoo!を使うよう、使い分けができるようになっていてほしいもんだが…。

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2006.01.29

目次:出口保夫『物語 大英博物館』

物語 大英博物館 二五〇年の軌跡
出口保夫
中公新書, 2005.6

序章 新しく甦った大英博物館
二五〇年の歳月 「奪取」してきたという誤解 ルーヴル美術館との違い グレート・コートが変えた リーディング・ルームの魅力 三〇年通い続けた紳士 なぜ無料であり続けるのか ノース・ライブラリーの移転と改修 啓蒙主義ギャラリーの創設 七分野の展示物 啓蒙主義が意味するもの 一〇部門の博物館展示室

第一章 創立とハンス・スローン
一八世紀半ばのロンドン 啓蒙主義の時代 実質的な創始者ハンス・スローン 侍医として西インド諸島へ 国家へのコレクションの寄贈 国王の承認と理事会創設 スローンのコレクションの全貌 富くじによる資金集め 場所の選定 二四室の構成

第二章 草創期とウィリアム・ハミルトン
モンタギュー・ハウス周辺の風景 入館者への細かい規則 一七五九年一月の開館 ダフ屋から入館証を買った人 一〇万冊の蔵書と閲覧方法 一体のミイラ ウィリアム・ハミルトンの活動 ハミルトンの厖大な蒐集品 ネルソン提督と妻エマ ウェッジウッドの挑戦 コレクションからのヒント クック船長からの寄贈 軍隊八〇〇人の駐屯所 シェイクスピア像寄贈の意味

第三章 ロマン派時代とギリシア彫刻群
フランス革命の余波 タウンリー・コレクションの由来 一八〇八年の「開館」と大きな変化 バッセの大理石彫刻群 エルギン卿の苦難 離婚、捕虜、そして挑戦状 大理石彫刻群の公開 ジョン・キーツの称賛 ロゼッタ・ストーンの入手経緯 ラムセス二世の巨像 ジョージ三世の蔵書寄贈 ロバート・スマークによる新建築物 ディケンズ、ダーウィンがすごした部屋

第四章 ヴィクトリア時代の光と影
ヴィクトリア女王の訪問 もっとも忌まわしい事件 壊された壺のその後 大英博物館"正面"の完成 「文明の進歩」の象徴として 大英博覧会の影響 新しいリーディング・ルーム 図書館を超えた壮麗な雰囲気 強面のスーパーインテンデントたち 古代アッシリアの遺産

第五章 中興の祖オーガスタス・フランクス
半生を博物館発展に捧げた男 カトリックの芸術・文化に光を当てる 私費を投じて購入したもの 王の黄金杯 ケルト美術の再評価 日本古美術の蒐集 フランクスが果たした役割 アステカ族の双頭の蛇 自然史博物館の開館 館内の近代化 整えられていく景観

第六章 大英博物館を訪れた人々
開館当初から通ったトマス・グレー トバイアス・スモレットの小説 ジョンソン博士はなぜ行かなかったのか ジョン・キーツの詩 チャールズ・ディケンズが描いた紳士 三文文士時代のジョージ・ギッシング トマス・ハーディが描いた展示室 「二十世紀を動かした」人たち G・B・ショウの感謝 若き日のW・B・イェーツ 変わり者の南方熊楠 リーディング・ルームでの殴打事件 夏目漱石は通ったのか

第七章 困難な時代―ふたつの大戦をはさんで
「古き良き時代」のはじまり エドワード・ギャラリーの建設 第一次大戦の戦火を避けて 戦後の復活 ミイラの呪いとタイタニック号 二〇万ポンドの寄付 サットン・フーの発見 「自殺的エキシビション」 一五万冊の焼失と疎開 戦争の傷跡 幻の大英図書館増設案 ローマ時代の床モザイク発見 「ツタンカーメン王」特別展 国外からの入場者増加 北アイルランド紛争の影 日本からの接着剤 チャールズ皇太子の酷評 日本美術専門ギャラリーの完成 さらなるギャラリーの開設

第八章 大英博物館のさまざまな至宝
セレネの馬とパルテノン彫刻群 クニドスの女神デーメーテル マウソレウムの巨大石像 羊飼いの若者エンディミオン 古代ケルトの芸術 クラシキアヌスの墓石 ビザンチン美術と洗礼者聖ヨハネのイコン エジプト「死者の書」 ミトラ神の大理石像 ブレイクの『アルビオン』誕生 仏像の世界 ポリネシアの彫刻

あとがき
参考文献/主要図版出典一覧
大英博物館年表

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2006.01.30

『ドリトル先生物語』に差別意識を読み解く (1)

 南條竹則『ドリトル先生の英国』から、引用する。

 『…先生の英国』は2000年刊だが、『ドリトル先生物語』に差別的表現の指摘があったのは2001年末のことだった。しかし南條氏の著作には、既に差別の「表現」というよりも、差別の「意識」という点について、指摘がある。
 差別があるのだとすれば、ドリトル先生の「文学」の中に読み込むべきものである。このような指摘こそ「文学を読む」ということだろう。表層的な「表現」のレベルで争うのはバカバカしい。差別の本質は表現ではなく、意識や思考の領分にあるものだからだ。差別の本質とは、表現とは別のところにあるといってもいい。そしてそれは人の内心にあるものであるだけに、簡単に是正できるものではない。

 さて差別問題はさておき、これから『…先生の英国』から引用する箇所は、『ドリトル先生物語』本編において、自分にとっても印象的な部分である。
 最初の引用はドリトル先生の人となり、あとの引用は『航海記』でも感動の場面。最後に、南條氏の先生への語り。南條氏とともに、ドリトル先生の世界を楽しんだ。

 南條竹則『ドリトル先生の英国』 p.175-177.


 『ドリトル先生』物語は世界に覇を唱えた英国人の童話にふさわしく、地球各地の人間や動物たちが登場する。作者はそうしたさまざまな登場人物たちが、人種や生物種も乗り越えて友情を結ぶ姿を描きたかったのだろうが、そんな作者も人間であるから、生まれ育った時代の物の考え方や感じ方に影響されざるを得ない。
 この物語が書かれたのは主に一九二〇年代のことだ。だから、有色人種や異教徒に対して、今日の尺度からすれば、偏見や心ない表現と思われる部分が皆無ではない。そのため一九七〇年代になると、この作品の、とくにバンポの描き方について、人種差別的だという批判の声が上がった。批判の一部は正当なもので、ロフティングの認識に限界があったことを認めねばならない。(ちなみに、これはロフティングを弁護することになるだろうが、『オックスフォード世界児童文学百科』の筆者などは、『アフリカゆき』に描かれるバンポの滑稽化されたキャラクターに、ヒレール・ベロックら同時代のユーモア作家の影響を指摘している。)
 しかし、その一方で、強調しておきたいことがある。お気づきかどうかわからないが、物語の中で人種的な偏見をあらわにするのは、口の悪いチープサイドやポリネシアのような、"俗人"ないし"俗動物"であって、全巻を通じ、ドリトル先生がそんな態度を示すことは一ぺんもない―よしんば語り手の地の文が偏見を露呈していても。
 先生は人間や動物を、心根や能力でしか評価しない。実験に使っているウジ虫をダブダブが「きたならしい」といった時、先生はスタビンズ君に言った。

 「ある種類の動物が、他の種類の動物に対して反感をもつとか、けぎらいするとかいうことは、馬鹿げた、まったく理由のないことだ。わしは、どんな生き物にたいしても、決してそんな気持をもったことはない。わしにしても、とくに好きこのんで、ウジ虫やカタツムリと親友になるつもりはない。しかし、そういう虫がきたないとか、自分より値打ちがないとか考えたことはない。わしは、ぜひともダブダブに、よく話しておかねばならん。…」
(『月からの使い』)

 人間も虫も平等に扱うドリトル先生は、人間界の地位も身分も、年齢も、人種も意に介さない。彼がこの世の人間の中で一番敬意を払っているのは、アメリカ原住民の博物学者ロング・アローである。


 引用第一箇所・終。

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2006.01.31

『ドリトル先生物語』に差別意識を読み解く (2)

 南條竹則『ドリトル先生の英国』 p.188-193.


 先に、バンポのことで人種偏見の問題に少し触れたが、ドリトル先生自身には、通常の英国人のような偏見はないとはいえ、先生もやはり西欧中心主義的な考え方からは抜けきっていない面がある。
 『航海記』で、ドリトル先生はクモサル島の住民に様々な文明の利器を教え、生活を改善させる。それに忙殺されてイギリスに帰ることを忘れているので、ポリネシアは帰国をうながしたが、先生は首を振る。

(中略)

 先生は、クモサル島の住民たちをあまり賢いと思っていない。自分がいなくなれば、すべてがまた元に戻ってしまうと考える。これはまさにヴィクトリア朝人の考え方だ。七つの海を我が物とし、世界に大植民地を築いた英国人の頭には、西欧世界の外に住む原住民たちは自分たちより劣った人間であり、白人が教え導かねばならないという思想が、確固としてあった。しかも教え導くといっても、一度教えれば済むわけではない。「野蛮人」は、白人がいなくなるとすぐもとの蛮風に戻ってしまうから、白人はいつまでもかれらのもとにいなければならない―すなわち、そこに定住して支配を続けねばならぬ。かくして、植民地の存在が正当化される。
 こうした思想を側面から補強したのは、かれらの宗教だった。なんとなれば、かれらキリスト教徒にとって、蒙昧な異教徒に福音を広め、その魂を救ってやることは無条件に「善」である。植民地化は現地人にとって多少の不都合があったとしても、それと一緒にもたらされる福音によって永遠の救いを得ることに較べれば、他のことは取るに足りない。
 かれらがいかに善意に満ちていたか、英文学に描かれる「伝道者」のイメージを見てご覧なさい。

(中略)

 こうした人間は、何らかの事情があって自分の属する社会にいられなくなり、しかも魂の救済を求めて、いわば自分の都合のために「蛮地」へ行き、神に身を捧げようとする。「蛮地」にもとから住んでいる人間にしてみれば、迷惑かもしれないなどとは考えてもみないのである。
 ドリトル先生は、もちろん、この手の輩とは比べものにならない。先生は自分の魂のことではなく、現地の住民のことをしんから思っている。利己主義のかけらもない。
 先生をイギリスへ帰らせるため、策謀家のポリネシアは旅立ちの用意をすべて整えて、先生を海辺へ連れ出した。そこにはみんなの「乗り物」になる大ガラス海カタツムリが待っていた。先生は、人々に別れを告げに戻らなければならないというが、そんなことをしたらひきとめられるといって、ポリネシアは反対する。

 年寄のオウムのことばがほんとうだと、先生の胸を強く打ったようでした。先生はしばらくの間、もの思いにしずんで、だまって立っていました。
「だが、わしの手帳がある。」先生はまもなく口をひらきました。「あれを持ち出すためにかえらなくては。」
「ここへ私が持っています、先生。」と私は声をかけました。「みんなあります。」
 先生は、また考えにふけりました。
「それに、ロング・アローの採集も。」と、先生はいいました。「いっしょに持ってゆかねばならん。」
「ここにございます、王さま。」と、ヤシの木かげから、アローのおちついた声がきこえました。
「だが食糧は、」と、先生はききました。「旅行用の食糧は?」
「私たちの休暇にあてた、一週間分の食糧があります。」と、ポリネシアがいいました。「必要以上にございますよ。」
 三たび先生は、だまりこんで考えました。
「なお、わしの帽子がある。」と、先生は、とうとうじれったそうにいいました。「やかたに帰らねばならん。帽子なしじゃ、出発できん。こんなかんむりをかぶって、どうしてパドルビーに姿を見せられようか?」
「ここにあります、先生。」と、バンポがいいながら、使いふるされたシルクハットを、上着の下からとり出しました。(『航海記』)

 とうとう先生は出発を決意する。ここは、けだし『航海記』の中でも一番感動的な場面だ。

 偉大な決意がなされるのは、いつでも、一瞬間をでないものです。だんだん明るくなる空をあおいで、先生の姿がきゅうに起きなおりました。ゆっくりと先生は、神聖な王冠をぬいで砂の上におきました。
「あれたちは、ここで、かんむりをさがしあてるだろう。」と、先生は、涙にむせぶ声でつぶやきました。「わしをさがしにきて、そうして、わしの逃げ去ったのを知ることだろう…。わしの子どもたち、かわいそうな子どもたち!なぜ逃げたか、わかってくれるだろうか…。なあ、わかってくれるかしら。―では、堪忍しておくれ!」(同)

 西欧中心思想だろうと、植民地主義だろうと、クモサル島の住民としては、自分たちをここまで思ってくれる人のことを悪くは言えないだろう―読者にそう感じさせるのは、ドリトル先生の人柄であり、作者ロフティングの文学の力だ。しかし、その文学の力が誤った思想を正当化することの是非も考えてみなければならない。これは些細な言葉づかいや揶揄(からか)いよりも、ずっと難しい問題である。
 思うに、慈愛に満ちたドリトル先生のお話に較べると、ミュージカル『王様と私』などは、幼稚で拙劣な植民地主義の礼讃だ。だから、かえって無害といえるかも知れない。
 御存知のように、あのミュージカルでは、王子の教育係としてシャムの王室に雇われたミセス・アンナという英国婦人が、英邁な君主を色じかけで殺し、あとに英国流西洋崇拝思想に毒された幼い国王を残す。この政権がやがて豺狼のごとき帝国主義者たちに弄ばれ、シャムの国がどうなるかは目に見えている。何と破廉恥な筋書であろう!
 ミセス・アンナは凄腕の工作員だと筆者は今でも思っている。


 引用第二箇所・終。

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