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2005.10.25

公立図書館の公共性?と公共経済学という手法

 今回JSLIS研究大会で大場さんの発表を聞かせていただいて、改めて…どうも疑問なのだが。自分が愚かなのを告白するようで恥ずかしいのだけれど、備忘にて。

 先行研究にあげられている昨年の池内淳氏の発表や塩崎亮氏の諸論文には、当方、感銘を受けたクチである。
 そして、今回の大場さんの発表で、なるほど公共政策のための一般理論として公共経済学を考えた場合、どうだろうねえ、という考察にもやっぱり感銘を受けた。
 大場さんは発表で既述記事のとおり、指摘している公共政策のために公共経済学を有用な指標とするのは、その「効率」(市場の失敗)と「公正」(社会的公正さ)という概念である、と。←理解間違っていたらごめんなさい。
 不安定な「公共性」概念に必ずしも依拠しない。大場発表だけでなく、「公共性」概念に手を焼いている様子は先行研究でも見え隠れする。

 しかし、どうなのだろう?ここからが自分の疑問。
 公立図書館を数多くの政府の事業と並べて論ずることは大いに意義あることだと思う。ちゃんとついていけていないが、理論上はそこまで来たのだなあと感慨もわく。
 しかし、しかしだ。
 ではね、ほかの「図書館一般」には公共性とか、ないの?
 大学図書館や専門図書館の蔵書構成は、図書館員の裁量一辺倒なの?
 これはまた自分の勝手な命題設定だけれど。公的資源が投入される理由付けあらばこそ、公立図書館設置の正当性や公立図書館司書の専門職制が正当化されるのだとすれば。
 大学図書館や専門図書館は、正当性はどこにもないのかな?委託する/しないの考え方の枠組みは、何もないのかな?
 むしろ、図書館一般の、社会的な妥当論拠ってのが論じられるべきじゃないのか?
 自分は、ロジックが逆転していると感じられてならないのだ。

 もちろん、公共政策を記述するための理論として、公共経済学を用いるのはいいかもしれない。だけど大場発表のとおり、理論的には公的セクターによる図書館サービスの供給は正当化できなかった。
 ここをもう少し意地悪く突っ込んでみると、消防や警察だって、純粋な公共財じゃないよ(反証があるそうだ)。国防や外交はどうかと思うけれどさ。司法制度だってあやしいもんだ。
 自分がかじった程度の経済学では、「現実に公共財と定義されている財・サービスは、「歴史的にそのように認識されてきたという程度のもの」であって、理論的な純粋公共財とは弁別されるべき」という記述もあったやに記憶する。
 公共性概念をなんとか説明・記述するため、あるサービスの政府による供給を正当化するために、公共経済学が生まれたんじゃないのか。
 逆に、大場理論を突き詰めていくと、政府の公的サービスすべてが公共経済学で説明できるのかということにもなるんじゃないか。大場発表は図らずも「多くの公共政策は外部性に依存する」というオチを、言ったんじゃないかとも。

(…自分は、もんのすごいオオバカな理解をしているんだろうなと赤面しながら書いている。)

 たまたま、公共的な性質をもっている/もっていないとされる事業体(政府)があって。
 政府なら公共的なサービスを供給すべきものだとの考え方があって。
 「法」「契約」も、単なる「道具」。
 「図書館」も。
 そんな一種の限界をもった現実の「道具」の性質が先にあって、それを政府なり様々な事業体が採用するかしないか。本当は、図書館という制度、しくみ、「道具」の側になんらかの「性質」があって、それを事業体(設置母体)が様々に理屈をつけて(つけないかも)政策として採用・設置しているだけ。
 だから、公立図書館が公共的な性格があるように見える。公共性をもっているとされる政府がやってるから「公立図書館」と言ってるだけなんで、考え方が逆転してるんじゃないか。
 大場発表が経済理論による規範の「記述」であること、そのこと自体にはとても感銘を受けている。
 でも、正に「読むことに正の外部性があると"信じられている"」とする、社会的価値にコミットしていくこと、そのことこそ、実は学として整序を付けていくことが必要なんじゃないだろうか

 うーん、結局同じところで勝手にループしているのかもしれなくて。大場発表の序論でも、きちんとした断り書きがある。「公共政策として公立図書館の規範理論を論ずる際の論拠には、民主主義だからとかあるけれども、理論として公共経済学を選択する」と。
 でも、混乱しているようで、疑問は疑問としてあるんだよなあ…。ああ、バカだバカだ。

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Comments

本人です。

プレゼンが不親切だという指摘は多方面から受けまして、この場を借りて反省させていただきます。あと「よく分からない」という感想もけっこう頂きました。骨格となる部分の提示を優先したために細かい説明をほとんど省いたためだろうと思いますが、時間の制約がある以上、これについては致し方ありません。(数回に分けて発表すれば良かったのかな?しかし、それだと全体の議論を把握し難くなるだろうし・・・)

さて、僕の発表について疑問となっている次の二点について、お答えしておこうと思います。
一つは、全体の議論における「公共性」概念の位置づけ
もう一つは、公共経済学という方法の適切性

発表では「図書館の公的供給に正当性があるのか」という問いを立てました。

この問いに公共性という概念を必要だというなら、それが公的/私的供給の判定基準となることが証明されなければなりません。しかし、民間のサービスにもそれが適用可能であるという現状の用法から推論すれば、公共性の有無は公的支援を決定づけません。定義の問題は残りますが、たぶん他分野の議論とも共有可能な定義を設定したら供給の公私を境界付けず、公私を境界付ける定義を設定したら共有可能で無くなる、という結果になることが予想されます。そういうわけで、この問題に対しては公共性をハナから採用しない方が混乱が少ないのです。エントリで言及されている大学図書館や専門図書館は、法人組織内の一部門の取引費用の話(つまり組織内効率の問題)なので、社会全体の効率と公正が関わる公立図書館とは評価方法が異なると思われます。

あと、論証方法として公共経済学という方法が適切なのか、という問題についてです。
適切だといえる理由は同時代のパラダイムに従った方がよいということにすぎません。現状は経済学に説得力があるように見えるというだけです。そういうわけで、図書館の公的供給についても、経済学理論に対抗してわざわざ自力で論理を組み立てて正当性を主張するよりは、提供された概念的枠組みの内部に位置付けた方が説得力が増すのではないでしょうか。もちろん、論拠が外部性ぐらいしかないという分析結果に不満はあるかもしれません(他の諸政策と比べたときの優先順位は落ちるでしょう)が、公的供給の論拠は一応見出せるというポジティブな見方もできます。(外部性が計測不可能だという事実に悲観的になる必要はないと思います。学校教育でも同じことですから)。

以上が僕の解答です。
それでも「公共性」概念にこだわりたいというのなら・・・いや長くなるので止めときます。
それでは。

Posted by: おおば | 2005.10.26 at 12:42

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