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2005.09.03

教科書検定制度と公立図書館

 当ブログの8.31.付記事「「西尾幹二のインターネット日録」管理人「年上の長谷川」さま」を、いわゆる「西尾シンパ」風の記事のあるところに少なからずTBしてみました。
 ウェブログ図書館業務日誌:図書館員の愛弟子に煽られた格好です。また、葦岸堂:PageRankの謎という記事がありますね、私もかつて興味があって検索エンジンに批判的な記事を書いています。
 TBされた方々、関係ないんじゃないかと思わずに、ぜひ当ブログの船橋市西図書館蔵書廃棄事件の判決に関する記事を読んでみてください。ココログの不具合で、多重TBになってしまわれた方にはお詫びします。大変申しわけありませんでした。

 ところで、「新しい教科書を作る会」シンパの方々の文章を読んでいて、自分がかつて学生時代に家永教科書裁判に関心をもち、そこから普通の法学部生から足を踏み外しはじめ(だってアレって法律論じゃないんだもん…)、しかし図書館にたどり着いたことを思い出しました。
 そのことから主に、かのシンパの方々向けに当記事は書いてみたいと思います。やっぱりね、腹立ちましたもん。わかってないなって。単なる右だの左だのって問題でもない、単に「表現の自由」の問題にもとどまらない。もっとややこしい問題なんだぞってところが。
 例にとりあげる方の記事は果たして適切と言えるか自信がありませんが…先方に書いたコメントがこの記事の元になっています。

橘屋宗兵衛のひとりごと:船橋市立図書館の蔵書廃棄に関して

 判決そのものはトンデモ司書の行為からすれば妥当とも見れましょう。そこは争いません。しかし、裁判の結果を「新しい教科書を作る会」の勝利、そのような評価をするのは間違っています。
 そして、この記事に書かれた検定教科書に関する箇所を見て失笑してしまいました。

>中国や韓国のように国定教科書一種類だけで、歴史を伝えるのとは違い、

 戦前の日本と同じ「国定教科書」ですね。教科書と呼べるものがひとつしかない。

>多様な考え方で記された書籍を自由に読み、批判したり共感を得ながら
>学習する事ができるのである。

 問題はここです。国による検定を経た教科書は複数あります。
 しかし、学校現場で使用される教科書は、ひとつのエリア(市など自治体レベル)では一種類しか採択されない。
 子どもたちの立場に立ってみれば、教育内容に対する選択の「自由」なんてないのです。

 歴史観として、「自虐史観」ということばに対応する「自由主義史観」ということばはあっていいですが、子どもにとっては現行検定制度のもとでも"自由主義"ではありません。日本の検定制度を少しでも調べればわかることです。他国では、検定制度の下でも、多様な教科書をかなりせまいブロックで選ぶことができ、教師が選ぶことさえできる国があります。
 日本の現行検定制度の元で「自由」を肯定する論理が安易に出てくる、という発想は信じがたい。自分も単純に否定はしませんが、教育の水準を維持するために行われる検定制度は、「公教育の逃れがたい矛盾」なのです
 国が、教科書(the book)を教える─その枠組みを壊そうとしたのが、家永教科書検定訴訟でしたが、「作る会」の論理はそれ以前のレベルです。
 多元的な価値観の教科書を用意しようとする、それはいい。賛同すらします。しかし検定制度に乗ったまま、検定制度を肯定した状態です。検定制度すなわち、教科書=政府の言論に拘束させたまま。その教科書=the bookになりかわりたい、それが「新しい教科書を作る会」の運動"でしか"ありません。「検定制度自由化運動ではない」。
 その意味では、「新しい教科書を作る会」の活動は"反自由主義"的とすら言えるでしょう。「自由主義史観」とはよく言ったものです。
 子どもたちにとっては、自由主義ではない。与えられる「自由」は、真の自由でしょうか?
 教育、とりわけ公教育が胚胎する「自由」との矛盾は、考えられていますか?

 家永訴訟は、「著作者」家永三郎の名の下に、教科書「検定制度そのもの」=政府と闘った。子どもたちや、学校教師、教育現場のために。
 今回の判決において、誰の表現の自由が、誰から、何のために守られたのか?よく考えてほしいと思います。

 検定制度ではない、選定制度のもとであってもthe bookによる学校教育はなくならない。そのためにbooks=library=学校図書館がある。
 それが、アメリカの学校図書館の蔵書構成に対する訴訟の数々です。日本の教科書検定訴訟と対応している。元々the book「だけ」で教えないから、教科書裁判にならないのです。せいさか、学校図書館が標的になる。日本の学校図書館は理念倒れ、カリキュラムの中での現実には注目さえされていないのですけれどもね。
 しかしまた、「政府の言論としての公立図書館」の構図は、家永訴訟の段階から理念的には予想されるものだったと言えます。

 その構図が、たまたまトンデモ司書の特徴的な行動によって裁判になった。
 問題は、訴える側と判決の論理です。「新しい教科書を作る会」関係者の主張や判決は、社会における図書館をあり方を占う上で、妥当だったでしょうか?

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「図書館」カテゴリの記事

Comments

私の記事に対して、コメントをいただき有難うございます。少し誤解されている部分があるので書き込む事にします。

日本の教科書に自由がない制度であるとの、ご指摘がありましたが、今日の日本において子供が学習する上で、学校が与えた教科書だけで学習している日本人はどれだけいるのでしょうか?ご自身も書かれているように図書館の機能があるから様々な価値観の書籍を読むことができるのですよね。そういった意味で子供たちは自由に学習する事ができると思います。(教師がどのような立場をとるかで変化はありますが、子供の自由意志は阻害されない状況にあるのではないでしょうか?)

日本においては、教科書検定制度があっても、選定制度的に運用されている場合が、多くあると思います。私もそういう環境で学習しました。(私立学校は、副読本という形で他の教科書での考え方を学習する場合が多いです)ですから、図書館の機能が大切であると考えています。

私は、司書ではありませんので、間違っているかもしれませんが、公共図書館には世の中にある書籍を管理する機能があると思っています。国立国会図書館では発行された書籍はすべて届けることになっていますよね。
公共図書館が書籍を主義・主張で選択して蔵書を破棄してしまうことはあってはならないことです。そういった意味で当たり前のことかもしれませんが、この裁判で、「様々な書籍を誰でも読むことができるという自由が守られた」と私は考えています。そういう意味で図書館の在り方においても重要な裁判であったと思います。

私は個人的には、「新しい教科書を作る会」の考え方には賛成していません。それは「作る会」の教科書が唯一であり正しいとしている考えがあるからです。それでも、その考え方が嫌だからといって処分する・排除するという考え方は良くないと思うだけです。

私にとっては、歴史教科書が外交のカードに使われる事の方が憤りが大きいですが、それに振り回されることよりも、どんな事実があったのかを正しく学習できるための書籍を、どのように作っていくか、日本人がしっかり議論していくことが大切であると思います。

Posted by: 橘屋宗兵衛 | 2005.09.04 at 13:50

追伸

ROEさんのHP全て読み終わりました。様々な面で深く物事を捉えておられ感心いたしました。
当方もブログをはじめて間もないのですが、日頃考えている事を、文章にするのは難しいですね。私も普通のサラリーマンですが、書き込みをいただいた事で、ROEさんのHPに出会えて良かったです。もう少し文章力を鍛えないといけませんね。

Posted by: 橘屋宗兵衛 | 2005.09.04 at 17:14

 橘屋さま、ていねいなコメントありがとうございました。
 反省しております。やはり例として掲げるには適切ではなかったな、と。だって「西尾シンパ」じゃないんですものね、きちんとした歴史を追っておられる方としての意見表明だったんですから。
 ただ、今回の判決は普通の方にも、普通に読んだら「表現の自由」万歳!という印象づけはさせてしまうわけで。
 でもね、トンデモ司書の弁護なんぞせずとも、複雑な困ったワケは知っていただきたい、という気持ちになってはいるのです。

>公共図書館が書籍を主義・主張で選択して蔵書を破棄し
>てしまうことはあってはならないことです。そういった
>意味で当たり前のことかもしれませんが、この裁判で、
>「様々な書籍を誰でも読むことができるという自由が守
>られた」と私は考えています。そういう意味で図書館の
>在り方においても重要な裁判であったと思います。

 普通にはそう読めると思いますし、それでいいのかもしれません。私が変にこだわりすぎなのかもしれませんね…。なぜこだわってしまっているか(特に図書館関係者が)、補足いたします。

 私が問題とした箇所を、再度今度は切れ目なく引用します。

>歴史教科書問題に関して、これまでも書いてきたが、歴
>史をどうとらえるか立場によって記述方法が違う。日本
>においては、教科書検定制度が複数の教科書を、子供た
>ちのために活用する事を認めている。前にも述べたよう
>に、中国や韓国のように国定教科書一種類だけで、歴史
>を伝えるのとは違い、多様な考え方で記された書籍を自
>由に読み、批判したり共感を得ながら学習する事ができ
>るのである。

 このあとに本判決と表現の自由礼賛が続くのですが、私がこの記事に反応してしまったのは、今回の判決と、教科書問題とをサラッと結びつけたように見えてしまったからです。
 特に本判決の当事者は、上告人が「新しい教科書を作る会」関係者で、勝訴した論拠の「表現の自由」の意味合いはよく考えるべきだと思っています。
 再度同一箇所を引用。

>公共図書館が書籍を主義・主張で選択して蔵書を破棄し
>てしまうことはあってはならないことです。そういった
>意味で当たり前のことかもしれませんが、この裁判で、
>「様々な書籍を誰でも読むことができるという自由が守
>られた」と私は考えています。そういう意味で図書館の
>在り方においても重要な裁判であったと思います。

 上記コメントでも普通、表現を受け取る権利─一般には「知る権利」でしょうか─と絡めて理解されるでしょうね。だけれども。
 戸惑っている例として、最新のリンクをふたつ。そこに挙げられているリンク先も更に遡ってご覧いただけると、そう簡単でもなさそうだなあ、という気分もわかっていただけるかと思います。

http://d.hatena.ne.jp/himagine_no9/20050830/p4
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20050901/p2

 ところで、検定制度については私も気になって、罪滅ぼしにと、久しぶりに、学生時代の教育関連本を詰め込んだ段ボール箱を二つ、ひっくりかえしました。
 「自由採択制-検定制-国定制の類型」を詳細にきちんと書いてあったのは、山住正己『教科書問題とは何か』岩波ブックレットNo.21,1983.でした。意外に簡単に出てこなかった…。ネットでも。
 すみません。

 しかし、私のブログを全部読んでいただいたとは。
 「深い」というより、「へたくそで長い」「こだわる」「しつこい」と言える文章を、お読みいただいて、恐縮です。
 もし、お許しいただけるなら、今後もときどきお付き合いくだされば幸いです。

Posted by: roe | 2005.09.04 at 21:57

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Tracked on 2005.09.09 at 05:38

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