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2005.09.14

雑録・船橋判決、西尾日録、表現の自由(続)

※以下は、9.13.付記事の橘屋さまのコメントに対するレスです。9.17.に書いています。暴走して長文になったので、記事にしてあいている日付に捻じ込んでみました…が、やっぱりダメデスカ?

>いつもながらの、ROEさんの「辛口批評」は納得
>させられるばかりです。

 橘屋さま、再前は失礼いたしました。またの書き込み、大変嬉しく思います。
 こう↑言われると恐縮するばかりです。先方は本当にシステム障害である可能性も捨てきれないのですが、実際の心境から、努力していただけているのかなあ、焦れてるんだけどなあ、という気持ちが辛辣な表現になっています。

>ところで、国会図書館と一図書館では保障、
>機能の差があると書かれていますが、ここでいう
>保障、機能とはどういうことですか?教えてください。

 橘屋さまが図書館初心者でないとすると失礼があるかもしれませんが、「そんなの知ってますよ!訊きたいのはそういうことではなくて…」ということでしたら改めてご質問ください。
 なお、本記事文中でも書いているとおり、結論としての上告人勝訴は一定の合理性、妥当性をもっていると考えておりますので、念のため。

 機能から。

 日本の国会図書館は国立図書館の機能をもっていて、納本図書館、保存図書館と言われています。
 納本制度とは、国内で刊行されたあらゆる出版物が国立図書館に収められることが国立国会図書館法により法定されています(事実上漏れはあります)。また、法定されてはいませんが、国会図書館は受け入れた正本の資料を廃棄することがありません。
 結果、日本の国会図書館は国内で出版物のほとんどすべてを、将来の国民をも含めて提供する「機能」をもっています(実際にどのようにして実現するかは別にして)。

 他方、通常の図書館、公立図書館や大学図書館・学校図書館、そして企業図書館のような図書館法に定義にあてはまらなくとも「図書館」と観念できる普通の図書館は、通常、自館に受け入れる資料を「選択」し、「廃棄」して、「蔵書構成」を行うのが常です。
 国立図書館のような納本制度があればいいじゃないかと言っても、そうもいきません。事実上、資源には限界があるのが前提です(予算、物理的な保管スペースなど)。だから、選択し、廃棄するのです。
 「機能」上、通常の図書館は「有限の資源」に則って、その図書館が目的とする利用者に、限界のある資料によってサービスを行います。

 保障の違いについて。

 実は国会図書館についても正確に言えば蔵書構成や資源の有限性はあると考えられるのですが、細部は措いておくとして。
 上記機能の違い、「資料選択及び保存/廃棄の差」から、自分は二つのことを申し上げておきたいと思います。
 ひとつは、有限の蔵書構成には、どうしても「誰か」の判断が必要なこと。だから、公立の図書館には明確な蔵書構成基準(収集基準、廃棄基準)があることが望ましいと言われている。納税者、市民に対する説明責任ですね。有限の蔵書構成による選択的な保障は「誰かさんによって」成り立っている。判決はここを突いているし、自分は「なればこそ」の議論の余地もあると思っています。端的には、後半で使う言葉を使えば、「知る自由」を部分的に、合理的な裁量をもって保障している制度。それもいくつもある制度のひとつでしかない、と個人的には思います。
 もうひとつは、この「誰かさん」による選択的な保障に対して、蔵書構成の判断がない国立図書館はどうか。あらゆる資料を維持し続けるということは(あくまで実現可能な手段があればですが)、他が保障してくれない最低限の資料提供を保障できる「可能性がある」ということです。これは、通常の図書館では考えられない思考です。裏返して言えば、他の図書館は、国立図書館の保障に加えた保障をしていることになります。

 とりあえず教科書的にはこんなところですが、以下は暴走してますので(既に暴走してるか…)、レスはあってもなくても。
 ただ、このくらいの論理構成のステップを踏まないと本当は、公立図書館に関する判決は出てはいけないと思っています。実際、憲法学にせよ図書館学にせよその近くまで来ています。
 かの判決の理由を読めば読むほど、あまりに安易だと思う…。

 元の記事の文脈にこの図書館の2類型の「保障」の話を戻せば、「表現をさせる/させない自由」は有限の蔵書構成の通常の図書館に、どこまで保障の要求(請求)が可能か。そもそもどこまでが妥当であるのか、という話になります。
 そして、それは誰に対する保障なのか。これは元の9.13.付記事で混乱がありますが、表現をする者に対する保障なのか、表現を受け取る者に対する保障なのか、もっと具体的な、例えばある自治体の市民全体に対する保障なのか。
 「知る権利」ということばが登場して久しいですが、「政府情報の公開」ならまだしも、図書館に対しては「権利」性には自分は懐疑的です。あらゆる情報をなぜ公立図書館=政府が提供しなければならないのだろうか?そんな無限責任的な考え方はナンセンスだということは誰でもわかるはずです。では、公立図書館が何を保障しているのか。
 最低限の生活を保障する「生存権」は概念としては理解できても、実際の社会保障、つまり「政府による自由の積極的保障」においては既に争いがあります。それは資源に限界があって、配分のための制度設計の段階で争いが起こるからです。自然権に対して、介入なくしてはありえない、人工的、制度設計的な権利ゆえです。
 翻って「知る権利」はもちろん、図書館界では「知る自由」と言い換えているけれども(『図書館の自由に関する宣言』)、「権利」と「自由」の違いは実は丹念に考えなければならない。「表現を受け取る自由」は一般的な自由としては理解できるけれども、「権利」としてはどこまで保障すればいいのでしょうか?

 反面、個人個人の単なる自助による自由の実現では不可能な領域もありえます。ある本を入手する機会は全員に平等に与えられていないのです。自分が生まれる前の本を簡単に入手できるでしょうか。近隣の書店であらゆる本を扱っていて、買うことができるでしょうか。
 となると、本当の意味での「最低限の保障」として、国立図書館が機能する必要はあるでしょう。いまはその看板を捨ててしまいましたが、「最後の拠りどころ」=last resortとしての性格です。他で入手する機会のない本の利用制限というのは、そのくらい、意味は重いと思います。

 でも自分は原則、どちらも「政府による自由の積極的保障」である以上、「正当な理由付けがあれば」、裁量は認められるという立場です(少し前の安井一徳論文の紹介記事とコメント欄におけるkaw氏とのやりとりが手がかりになると思います)。昨年11月に「夏のひこうき雲」のsummercontrail(左近)さんと私の記事で意見交換したのですが、話をしているうちに、どちらも「柳美里『石に泳ぐ魚』事件」のことが念頭にあったことがわかってきました。最高裁判決は図書館における利用を論点にしなかったにもかかわらず、国会図書館は利用制限措置を施しています。二人ともこの国会図書館の制限には肯定的です。
 更に自分はひねくれていて、左近さんとのやりとり当時は明確にしなかったんですが、それでも自分は「民においては表現のアナーキスト」であって、左近さんとは最後は袂を分かつかもしれません。
 amazonやネットオークションなど、入手の機会はかなり高くなってきています。「政府の保障」なぞなくとも、基本的には勝手に入手して読めばいいし、書けばいい。それが本当の、「表現をする自由」「表現を受け取る自由」でしょう。それを阻害されたりしたら怒るのは自由の主旨からしてまずもって当然だし、どこまで政府に積極的に介入して「もらって」、保障してもらって「喜ぶ」のか。バーリンだったかな、「積極的自由は奴隷の自由」とまで言っていたかと思います、記憶が定かではありませんが。
 その上で、公立図書館=政府が何をするのか、させるべきなのかを問うべきだと思っています。これまで述べたところから直結はしないですけれども、今のところ、児童ポルノ検閲官としての国立国会図書館の対応にはあまり賛成できません。詳しい事情はよく知らないのですが、公けになっている新聞記事だとかを読むと、情けなく見えますね。

 ところで、上に書いた、「本来的な民の間での自由な表現の流通」という意味では、西尾日録は公立図書館=政府に保障される以前の自由を、やっぱり履き違えている気がします。
 その上、口頭弁論でも政府(国会図書館や調査研究型の図書館)が既に確保して保障している言論を「喪っている」と騒いでいる。卑しい、政治的な意図を感じないではいられません。

 勢いで書いてしまいましたら、3000字超です。あーあ。
 駄文、失礼いたしました。回答になっていればいいのですが、なってないですかね…あとで読み直して、恥ずかしくなったら消します。

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Comments

熱のこもったお返事ありがとうございます。
素人の質問に的確に回答いただき、恐縮するばかりです。

機能については、ある程度予想していた通りでしたが、図書館における「保障」の定義についてははじめて知りました。
それにしても、公共の機関である図書館が、
蔵書構成基準を明らかにしていくことの、責任の重さを感じました。「誰に対して」の責任を持つのかが、曖昧になってしまっては本質がぼやけてしまいますね。

さらに、ROEさんが指摘されているように、裁判の結果を、正しく解釈せずあたかもお墨付きをもらったように振舞うようでは、自らのレベルの低さを露呈している事に気づくべきなのだが、概して著名人は反省しないのが常のようです。

Posted by: 橘屋宗兵衛 | 2005.09.18 at 01:38

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