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September 2005

2005.09.01

「西尾幹二のインターネット日録」管理人「年上の長谷川」さま。:追記

※9/2に書いています。

 下記「追記」、元は8/31の記事に書いて一度は削除したものですが、「西尾幹二のインターネット日録」正常化までは、下のような状態で残しておきます。なお、前日8/31コメント欄は必ず参照してください。
 気が短いのかもしれませんが、結局のところは現状では何の対策が表れておらず、結果としてメディアとしてブログによるコミュニケーションが行うことがまったくできないままです。TBはまったく受け付けてもらえないし、下に書いたコメントも反映されていません。
 自分としてはもちろん、「年上の長谷川」さまの言うとおり、単なる機械的な問題でしょう、と復旧を心待ちにしているのですが…。
 ちなみに@niftyは、エキサイトブログにTBできない問題を2ヶ月を越えて解決してくれました。エキサイト側の仕様で、こちらのタイトルに引用符などが入っている場合に受け付けてくれない、ということを。そのくらい、大変なことなんじゃないかと思います。
 「日録」のシステム担当者さま、真摯に受け止めてくださることを希望します。現状では下記に書いた"言論状態"はまったく変わっていないのです。

【追記】
 この記事を日録:最高裁口頭弁論(二)にTBしてみましたが、システム上受け付けてもらえていません。その後も、関連する記事をほかの記事にTBしてみましたが、やはりダメ。
 次に、「メールアドレスがわからず自分のブログ上にこの記事を書いた」旨、日録:最高裁口頭弁論(二)にコメント入れましたが、まだ反映されていません。通常なら、チェックののち一日もかからず反映されるのに…。最後に書いたひとことがまずかったですかね。"「検閲」「焚書」ですか?"
 明白な事実の指摘に再反論もできないどころか、反論自体を封殺するなんて、都合のいい「表現の自由」だなあ。 個人的なブログにしても、社会に問題を問うていくメディアを自認しているはずじゃないんですか?特定サイトからのTBをガードするしくみはシステム上実装 されていると思いますが、貴サイトのような場合は明確にスパムと言える場合以外は受け入れるべきじゃないでしょうか。もし拒否設定をしているのだとすれ ば、ほんとに低レベルですよ。「表現の自由」の基本的理解がなってません
 「年上の長谷川」さま、この追記を削除できることを願っております。何らかの反応を示していただけますよう。「@niftyのシステムがおかしいんじゃない?」とかでもいいんだからさ。

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2005.09.02

夏が過ぎれば秋が来る

 昨朝(9/1)支度をしていて、驚愕した。
 カレンダー、7月のままだったのだ。それだけ8月が、気持ちの上で慌ただしかったかわかる。そしてそうこうしている間に過ぎてしまったことも。
 8月分は残念ながら鑑賞することなしに、9月のカレンダーになった。

 夏は暑いのと、蚊が出るので、休日子どもの運動のために出かけるのにも苦労する。
 出かけるのに躊躇があるのは夏だけ。秋から冬、春にかけては、散歩や何かによく出かける。
 関東は新潟と違って、冬は春みたいだ。晴れてるし、気温もそんなに低くないし。外出しがいがある。さびしいのが出かけるところ、自然がないところ。どこまで行っても街、街。がんばって歩く場所を探す。
 冬は、乾燥して喉を痛めるのを気をつけるくらいか。風邪をひくと共働きの保育園一家はつらい。

 いまさらですがこの秋を迎えるにあたり宣言します。
 夜更かしをしないで、朝早く起きる。生活リズムを整え、睡眠をきちんととれるようになること。
 できれば、朝軽く30分ほど身体を動かす。日中は集中、夜自然に眠くなり、朝は早く起きられるように。
 ダイエットも。体調をよくするためにも。なんとかこの3ヶ月くらいで体質改善をしたい。

 春、2週間くらい(もっと短かったかも…)やってたんですよね。
 さあて、今度はどのくらいもつかな?

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2005.09.03

教科書検定制度と公立図書館

 当ブログの8.31.付記事「「西尾幹二のインターネット日録」管理人「年上の長谷川」さま」を、いわゆる「西尾シンパ」風の記事のあるところに少なからずTBしてみました。
 ウェブログ図書館業務日誌:図書館員の愛弟子に煽られた格好です。また、葦岸堂:PageRankの謎という記事がありますね、私もかつて興味があって検索エンジンに批判的な記事を書いています。
 TBされた方々、関係ないんじゃないかと思わずに、ぜひ当ブログの船橋市西図書館蔵書廃棄事件の判決に関する記事を読んでみてください。ココログの不具合で、多重TBになってしまわれた方にはお詫びします。大変申しわけありませんでした。

 ところで、「新しい教科書を作る会」シンパの方々の文章を読んでいて、自分がかつて学生時代に家永教科書裁判に関心をもち、そこから普通の法学部生から足を踏み外しはじめ(だってアレって法律論じゃないんだもん…)、しかし図書館にたどり着いたことを思い出しました。
 そのことから主に、かのシンパの方々向けに当記事は書いてみたいと思います。やっぱりね、腹立ちましたもん。わかってないなって。単なる右だの左だのって問題でもない、単に「表現の自由」の問題にもとどまらない。もっとややこしい問題なんだぞってところが。
 例にとりあげる方の記事は果たして適切と言えるか自信がありませんが…先方に書いたコメントがこの記事の元になっています。

橘屋宗兵衛のひとりごと:船橋市立図書館の蔵書廃棄に関して

 判決そのものはトンデモ司書の行為からすれば妥当とも見れましょう。そこは争いません。しかし、裁判の結果を「新しい教科書を作る会」の勝利、そのような評価をするのは間違っています。
 そして、この記事に書かれた検定教科書に関する箇所を見て失笑してしまいました。

>中国や韓国のように国定教科書一種類だけで、歴史を伝えるのとは違い、

 戦前の日本と同じ「国定教科書」ですね。教科書と呼べるものがひとつしかない。

>多様な考え方で記された書籍を自由に読み、批判したり共感を得ながら
>学習する事ができるのである。

 問題はここです。国による検定を経た教科書は複数あります。
 しかし、学校現場で使用される教科書は、ひとつのエリア(市など自治体レベル)では一種類しか採択されない。
 子どもたちの立場に立ってみれば、教育内容に対する選択の「自由」なんてないのです。

 歴史観として、「自虐史観」ということばに対応する「自由主義史観」ということばはあっていいですが、子どもにとっては現行検定制度のもとでも"自由主義"ではありません。日本の検定制度を少しでも調べればわかることです。他国では、検定制度の下でも、多様な教科書をかなりせまいブロックで選ぶことができ、教師が選ぶことさえできる国があります。
 日本の現行検定制度の元で「自由」を肯定する論理が安易に出てくる、という発想は信じがたい。自分も単純に否定はしませんが、教育の水準を維持するために行われる検定制度は、「公教育の逃れがたい矛盾」なのです
 国が、教科書(the book)を教える─その枠組みを壊そうとしたのが、家永教科書検定訴訟でしたが、「作る会」の論理はそれ以前のレベルです。
 多元的な価値観の教科書を用意しようとする、それはいい。賛同すらします。しかし検定制度に乗ったまま、検定制度を肯定した状態です。検定制度すなわち、教科書=政府の言論に拘束させたまま。その教科書=the bookになりかわりたい、それが「新しい教科書を作る会」の運動"でしか"ありません。「検定制度自由化運動ではない」。
 その意味では、「新しい教科書を作る会」の活動は"反自由主義"的とすら言えるでしょう。「自由主義史観」とはよく言ったものです。
 子どもたちにとっては、自由主義ではない。与えられる「自由」は、真の自由でしょうか?
 教育、とりわけ公教育が胚胎する「自由」との矛盾は、考えられていますか?

 家永訴訟は、「著作者」家永三郎の名の下に、教科書「検定制度そのもの」=政府と闘った。子どもたちや、学校教師、教育現場のために。
 今回の判決において、誰の表現の自由が、誰から、何のために守られたのか?よく考えてほしいと思います。

 検定制度ではない、選定制度のもとであってもthe bookによる学校教育はなくならない。そのためにbooks=library=学校図書館がある。
 それが、アメリカの学校図書館の蔵書構成に対する訴訟の数々です。日本の教科書検定訴訟と対応している。元々the book「だけ」で教えないから、教科書裁判にならないのです。せいさか、学校図書館が標的になる。日本の学校図書館は理念倒れ、カリキュラムの中での現実には注目さえされていないのですけれどもね。
 しかしまた、「政府の言論としての公立図書館」の構図は、家永訴訟の段階から理念的には予想されるものだったと言えます。

 その構図が、たまたまトンデモ司書の特徴的な行動によって裁判になった。
 問題は、訴える側と判決の論理です。「新しい教科書を作る会」関係者の主張や判決は、社会における図書館をあり方を占う上で、妥当だったでしょうか?

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2005.09.04

またまた、滞っています。

 8.24.付記事にobaさんと書物奉行さんがコメント付けてくださってますが、後藤先生の本の話はさておき、『諸君!』8月号掲載「南京図書大略奪」の雑誌記事を読んで記事にしようと思っています。『正論』の西尾論文を叩くだけじゃバランスも悪かろうと思いまして。実質、書物蔵の方では解決したようですので、読書日記にもリンク貼って自分なりの感想書くだけになりそうですが、雑誌記事のほかに論文2本もあって、まだ読んでおりません。
 ちなみに、8.22.付記事で紹介した掲示板でも進展がありました。

 それから、ウェブログ図書館では安井一徳論文紹介記事は「GHQ没収指定図書総目録補遺」に入れられちゃったんですけど、春季集会で本当に書きたかった発表は別にあるので、このところ手許に置いています。

 もちろん、船橋判決の法学的な評価、というか感想ね。書かないと。ウェブログ図書館さんでも紹介がありましたし、けっこうあちこちで評価立ち上がってますね。これもリンクにして逃げちゃおうかしら。…まあ、書き出したら止まんないだろうなー、という気がしていますが。

 すんません、今日はこれで落ちまーす。

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2005.09.05

西尾幹二氏という人物の風評

 昨日「ちなみに、8.22.付記事で紹介した掲示板でも進展がありました。」というところですけど、こちらをご覧ください。
 新・正気煥発掲示板´:『正論』を読んで、思うこと。焚書。
 (スレ主「アル中流・乱暴」さん)

本はこれだけ残っていますから、騒ぐ必要はありません。

 最高裁口頭弁論で、西尾幹二氏が、「件の『没収指定図書総目録』の最初の「ア」のページから何冊か書名を書き出してみよ う」と述べて、表で示した15冊についての調査結果を示す。(前の数字はWebcat Plusによる所蔵図書館数。括弧内の数字は、現在「日本の古本屋」で売りに出ている冊数。)

[中略]

 以上の通りで、すぐには見付けられなかった本も幾つかあるが、これらの本を今読むは、ほぼ研究目的に限られよう。その観 点から見ると、資料は十分に残っていると言うべきであろう。西尾氏がこれらの本を挙げた直後に述べた、「これらの書物が暗示する一つの大きな心の歴史、そ れがぽっくり抜けて、空洞となり、私たちは歴史の連続性を失った」というのは、妥当性に欠く感想であろう。「大きな心の歴史」は発掘して報告・紹介するこ となら、直ぐにでもできる状態にある。やる気があればということであるが。

 私は裁判については詳しいことは知らない。最高裁がこの程度の調査もせずに、「焚書」に関するこの議論の影響を受けたことがあるとすれば、嘆かわしいことだと思う。『正論』は所詮商業ベースの雑誌に過ぎないのであって、学術誌ではない。

 スレ主の方は、どんな方なのか。まあ掲示板自体が一定の傾向をもっているようなところですし、詳しくはわかりません。しかし、かなり理性的な対応をしてくださっていて、自分としては嬉しい限りです。もひとつ、こちら
 私が口頭弁論の論拠にこだわった理由も、最高裁判決の論理のずさんさに不満があったんだということを思い出してきましたよ。

 ところで、アクセス解析でそのまんまGoogleで「西尾幹二」で見ていきましたら、大先生、けっこういろんな風評が立っているんですね。
 どうも私、やっぱり「日録」には出入り禁止になっているみたいだなと疑い始めてきました。今でもTB、コメント不可です。
 いくつか紹介します。コメントは控えておきましょうか、最低限に。

Irregular Expression:西尾幹二騒動
 昨夏の「ソースロンダリング疑惑」と呼ばれる事件。サヨクと変わらん、という声も。
ハリぼんの世評ナナメ読み:小泉空白の10分疑惑に見るソースロンダリング
ハリぼんの世評ナナメ読み:「正論」10月号の西尾論文の分析
 上記まとめ記事。ついで、当時の論文の分析。
週刊オブイェクト: 西尾幹二さんの自滅劇場
 同感想記事。
Bloged Maniac Enthusiasm:西尾幹二氏と文筆家の責任
 更に踏み込んで、「日録」の「文章表現への責任」を問う。

「日録」過去ログ:ネットの憂鬱
 西尾氏自身の筆になる。上記事件は「日録」の「応援掲示板」で起こったという。
 批判者のネットの匿名性を非難。対等に立つなら実名で、と主張。
※応援掲示板なら、出入り禁止にもなるわけか…。

MIYADAI.com Blog:西尾幹二のトンチキな見解への批判(笑)を含む文章です
 西尾氏はヴァイツゼッカー批判もしているらしいですが、宮台真司氏の記事では、西尾氏言うところの「集団の罪」(口頭弁論論拠その二でも出てきましたね)と「集団の責任」とは分けられた概念であるらしい。
 となると口頭弁論第二の論拠もあやしくなってくるなあ。「集団の罪」って西尾氏言うように使う側によって難しい概念ですよ。きちんと定義しないと。都合のいいところだけ言ってません?

 TBからおいでになって戸惑われている方に。このブログは最近は、船橋市西図書館蔵書廃棄事件の裁判を追っています。
 判決そのもののおおまかな結論は措くとして(トンデモ司書が悪いのは間違いありません)、判決の論理、特に「著作者」に認められた「法的利益」には図書館員たちは不満や戸惑いを覚えています。関連リンク(0)が代表的なものです。
 私のブログでは、まだ途半ばですが、上告人の側の主張にいくつか大きな問題、虚偽があることがわかってきました。
 まとめはこちらこちら、端的には8.23.付記事がわかりやすいですし、8.31.付記事も結末から見ていくにはいいかと思います。
 感想なぞいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

【2005.9.13.追記】
Bloged Maniac Enthusiasm:マス(大衆)コミュニケーションへの適応異常
 西尾氏の「ネットの憂鬱」を受けて、即批判していた。
週刊オブイェクト: 西尾幹二さん、悪魔の証明を要求
 西尾氏自身が掲示板で逆ギレした内容の紹介。コメントの山は論点がずれているので、見なくてよいでしょう。

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2005.09.06

即効性、TB効果?

 えーと、ここ数日ちょっとずつTBをばらまいていたことは書きましたが、びっくりしたので記事に。
 本日9/6のカウンターが371ヒットを記録しました。例の最高裁判決の出た7/14から400ヒット超いったのと比べると少し落ちますが、今回は突然です。8月下旬から「西尾幹二のインターネット日録」という有名サイトにTB入れさせてもらった影響で、一日150ヒット前後だったところ、本日急に。
 原因は、アクセス解析によると、宮台真司氏のブログにTB入れさせてもらったおかげでした。リンク元が宮台氏からは98件。ブックマークがゆっくり増えて40件弱あるのに比べるととんでもない数です。
 学習しました。「超有名サイトにTBを入れると、アクセス数が伸びる」。
 まあ、一過性のものだと思いますけど、以前から書いているように、関心もって固定読者が出てきてくれると嬉しいです。

 せこせこTB打った結果は、アクセス件数にはあまり影響ないみたいです。総じて言うと、関心向けてもらえないみたい。一見でおしまいみたいで。
 でも中には、逆にTB打っていただいたり、コメントでの交流ができて嬉しかったです。
 それと、驚くべきはGoogleのランク。「西尾幹二」でひくと、7件めに遂に着けました!TB打ってた記事「図書館員の愛弟子:「西尾幹二のインターネット日録」管理人「年上の長谷川」さま。」が出てきています。
 これ、たぶんアクセス数も関係しているんじゃないかと思います。前後に、「Irregular Expression: Category Archive: 西尾幹二騒動」という割に古い記事、「西尾幹二のトンチキな見解への批判(笑)を含む文章です - MIYADAI.com ...」というかなり新しい記事が来てます。どちらもうちで紹介した効果もあるんじゃないかなあと妄想。

 この調子だと、40,000hitは射程内。これまでは3ヶ月で1万のペース、30,000hitは7/14。
 さて、次はいつになるでしょうか。

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2005.09.10

PCトラブルに奔走中…

 ごぶさたしております。
 諸々、詳しく述べたててもしかたないのですが要するにですね。
 モノ書きに使っているWindowsマシンが…OSからして起動しなくなってしまいました。ほかのトラブルを解決している矢先、悪いことは重なるもので。「解決のめどが立ったぞーウォー!」とほっとしたのもつかの間、そのための手を打っていたらこの始末。
 ここ2日ほどは、目の前真っ暗でとにかく手を尽くしていました。いまようやく、解決するのではないかという光明が見えてきたところです。
 ファイルの消失はなく無事救出ができているのは幸い。体調が思わしくないのが問題だなあ。部屋の電気点けたままパソコンの横で転がってるのを朝、家族に発見されるというような生活が続いていたからなあ。
 てなわけで、しばらく更新どころではなくなりました、というご報告です。

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2005.09.12

なん…とか、復旧しました…(バタ)

 物書き用のWindowsノートですが、なんとか復旧に成功しました。いや〜最終的には以前と何の変化もなく、助かった。
 しかし、おかげで体調はメタメタです。風邪をひきました。
 しばらくおとなしくしています。

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2005.09.13

雑録・船橋判決、西尾日録、表現の自由

 『裁判所時報』2005.8.1.号に、船橋判決が出ていました。以前の記事から考えると、民集登載の流れでしょう。あれから調べたのですが、『裁判所時報』掲載の判決は民集・刑集掲載件数よりも少ないようです。まあ、『裁判所時報』の形式が官公庁の公報の体裁ですからね…。

 @niftyから、「西尾幹二のインターネット日録」にこのブログからTB入らない件、最終的な連絡あり。随時進展あり次第、中間報告的に調査結果をお知らせくださるようにお願いしていたのですが、今回の回答から、やはり先方で「出入り禁止」ではねるような設定にしてあるという容疑が固まりつつあります西尾日録は検閲、焚書ブログであることがやはり明らかになってきたと言いますか(笑)。
 @nifty側では、自分が同じ記事から先方と他の宛先にも同時にTBを送信していることは監視していて、ログ上、他のところでTBが成功しているときにも常に同じ返信で拒否してきていることがわかるとのこと。ココログにもIPごと制御してしまう方法はありますが、もっと高度な選り分け方をしているらしいです。
 そのうち、先方の管理人さんの「年上の長谷川」女史に問い合わせのメール打ってみます。

 なんか、こういう人の「表現の自由」ってなんだかな、って思いません?もちろん、法や国家が保護するのは原則、「表現をする/しない自由」でしかなくて、「表現をさせる/させない自由」ではない。バーリンの「二つの自由」観念で言えば消極的自由に過ぎないわけですね。それを今回は、公立図書館に限り「表現をさせる/させない自由」を保護したわけですよ。その同じ人物が、社会的に「公的な表現の場」を設けて自分の主張を好きなように言うだけ言う。でも反論は認めない。これって変じゃないですか。違和感があります。
 今回あちこちで「焚書事件」についての記事を見たのですが、その中に図書館員全般に左翼傾向を見る記事があり、ちょっとちょっかいを出してみました。まさに西尾幹二氏の口頭弁論に惹かれた論理です。「そのお考え、興味深いです。自分自身の体験からもある程度納得もしますが、事件や西尾論文をひいて論理を組み立てていますよね。それについては私のブログで虚偽があることを明らかにしており、看過できません。もしそれら以外にもご自身の経験なり論拠をおもちならば、ぜひお聞かせください」。返ってきた返答は、「私の書いたものを受け手がどう読むかは自由です」で、それ以上のコメントを拒否されました。そもそも、TBを受け付けていないブログです。
 まあ、個人がブログをどう運用しようが、この御仁にせよ西尾氏にせよ同じで、私も同じでしょう。それが本来の「表現の自由」です。しかし、公的な言論空間に参与しようとする以上、そうした事実、最低限保障すべき領域を超えて、意見を交わす場を設置する者が目的に応じて見せるべき誠実さ、公正さは社会的にあるはずです。そしてそれは法や国家が判断するよりも、その言論空間を読み、そこに参加する読者が判断すべきもの。
 これが原則であるなら、判決が依拠している論拠は、少し考えが変な気がしてきます。公立=政府であることは間違いないが、一図書館に求められるべき線は、「表現をさせる/させない自由」という観点においては、論じられるべきであったのだろうかと。もちろん、トンデモ図書館員のやったことからすれば、「公正さ」という点から裁かれる必要性はどこまでもあったのかもしれませんが。
 国立国会図書館の児童ポルノ検閲なんかは逆に「表現をさせない自由」を認めちゃっていて、レベルからしたらこっちの方が影響大ですよね。「表現をさせる/させない自由」を、船橋市西図書館が行使するにしても、読者は勝手に廃棄された本を読みたければ買えばいいんだし、最後の保障は国会図書館があります。国会図書館の利用制限措置はそういう意味で重大なはずなんです。自分は言論の場を維持する、という点からすれば国会図書館にも裁量があると思っていますが、問題は国会図書館と一図書館の保障、機能の差です。一図書館はどこまでも「表現をさせる自由」を維持してやらねばならないかというとそれは違うのは当たり前。
 判決についての感想はずるずると書いていくことになると思いますが、この辺りから突っ込んでいくことになるんだろうと思います。

【追記】
 日録:最高裁判決にこの記事からTB打つもダメ。以下のコメントを送信しておきました。さて、掲載されるかどうか。


 「西尾幹二のインターネット日録」が言論の公器であるのか、単なる応援ブログで「検閲」を当然とし反論も認めないのか、このコメントが載るかどうかで一材料とします。
 私のブログに関連記事を掲載しました。ご参照ください。


【同夜追記】
 無事上記コメントは反映されました。「一材料」にほっとしつつも、TBは何度やっても受け付けてくれないので、このコメントの反映も疑心暗鬼にかられそうです。つまり、コメント反映は内容を見てアリバイ作りに今回のみ掲載されただけなのでは、という疑念に。
 以前も書いたように、システム上TBが入れられない以上、反論を許さない場になっていることは間違いないということを、管理者の方はお忘れなく。コメントが入れられたらそれでいいでしょ、というのでは個人的には納得しません。

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2005.09.14

雑録・船橋判決、西尾日録、表現の自由(続)

※以下は、9.13.付記事の橘屋さまのコメントに対するレスです。9.17.に書いています。暴走して長文になったので、記事にしてあいている日付に捻じ込んでみました…が、やっぱりダメデスカ?

>いつもながらの、ROEさんの「辛口批評」は納得
>させられるばかりです。

 橘屋さま、再前は失礼いたしました。またの書き込み、大変嬉しく思います。
 こう↑言われると恐縮するばかりです。先方は本当にシステム障害である可能性も捨てきれないのですが、実際の心境から、努力していただけているのかなあ、焦れてるんだけどなあ、という気持ちが辛辣な表現になっています。

>ところで、国会図書館と一図書館では保障、
>機能の差があると書かれていますが、ここでいう
>保障、機能とはどういうことですか?教えてください。

 橘屋さまが図書館初心者でないとすると失礼があるかもしれませんが、「そんなの知ってますよ!訊きたいのはそういうことではなくて…」ということでしたら改めてご質問ください。
 なお、本記事文中でも書いているとおり、結論としての上告人勝訴は一定の合理性、妥当性をもっていると考えておりますので、念のため。

 機能から。

 日本の国会図書館は国立図書館の機能をもっていて、納本図書館、保存図書館と言われています。
 納本制度とは、国内で刊行されたあらゆる出版物が国立図書館に収められることが国立国会図書館法により法定されています(事実上漏れはあります)。また、法定されてはいませんが、国会図書館は受け入れた正本の資料を廃棄することがありません。
 結果、日本の国会図書館は国内で出版物のほとんどすべてを、将来の国民をも含めて提供する「機能」をもっています(実際にどのようにして実現するかは別にして)。

 他方、通常の図書館、公立図書館や大学図書館・学校図書館、そして企業図書館のような図書館法に定義にあてはまらなくとも「図書館」と観念できる普通の図書館は、通常、自館に受け入れる資料を「選択」し、「廃棄」して、「蔵書構成」を行うのが常です。
 国立図書館のような納本制度があればいいじゃないかと言っても、そうもいきません。事実上、資源には限界があるのが前提です(予算、物理的な保管スペースなど)。だから、選択し、廃棄するのです。
 「機能」上、通常の図書館は「有限の資源」に則って、その図書館が目的とする利用者に、限界のある資料によってサービスを行います。

 保障の違いについて。

 実は国会図書館についても正確に言えば蔵書構成や資源の有限性はあると考えられるのですが、細部は措いておくとして。
 上記機能の違い、「資料選択及び保存/廃棄の差」から、自分は二つのことを申し上げておきたいと思います。
 ひとつは、有限の蔵書構成には、どうしても「誰か」の判断が必要なこと。だから、公立の図書館には明確な蔵書構成基準(収集基準、廃棄基準)があることが望ましいと言われている。納税者、市民に対する説明責任ですね。有限の蔵書構成による選択的な保障は「誰かさんによって」成り立っている。判決はここを突いているし、自分は「なればこそ」の議論の余地もあると思っています。端的には、後半で使う言葉を使えば、「知る自由」を部分的に、合理的な裁量をもって保障している制度。それもいくつもある制度のひとつでしかない、と個人的には思います。
 もうひとつは、この「誰かさん」による選択的な保障に対して、蔵書構成の判断がない国立図書館はどうか。あらゆる資料を維持し続けるということは(あくまで実現可能な手段があればですが)、他が保障してくれない最低限の資料提供を保障できる「可能性がある」ということです。これは、通常の図書館では考えられない思考です。裏返して言えば、他の図書館は、国立図書館の保障に加えた保障をしていることになります。

 とりあえず教科書的にはこんなところですが、以下は暴走してますので(既に暴走してるか…)、レスはあってもなくても。
 ただ、このくらいの論理構成のステップを踏まないと本当は、公立図書館に関する判決は出てはいけないと思っています。実際、憲法学にせよ図書館学にせよその近くまで来ています。
 かの判決の理由を読めば読むほど、あまりに安易だと思う…。

 元の記事の文脈にこの図書館の2類型の「保障」の話を戻せば、「表現をさせる/させない自由」は有限の蔵書構成の通常の図書館に、どこまで保障の要求(請求)が可能か。そもそもどこまでが妥当であるのか、という話になります。
 そして、それは誰に対する保障なのか。これは元の9.13.付記事で混乱がありますが、表現をする者に対する保障なのか、表現を受け取る者に対する保障なのか、もっと具体的な、例えばある自治体の市民全体に対する保障なのか。
 「知る権利」ということばが登場して久しいですが、「政府情報の公開」ならまだしも、図書館に対しては「権利」性には自分は懐疑的です。あらゆる情報をなぜ公立図書館=政府が提供しなければならないのだろうか?そんな無限責任的な考え方はナンセンスだということは誰でもわかるはずです。では、公立図書館が何を保障しているのか。
 最低限の生活を保障する「生存権」は概念としては理解できても、実際の社会保障、つまり「政府による自由の積極的保障」においては既に争いがあります。それは資源に限界があって、配分のための制度設計の段階で争いが起こるからです。自然権に対して、介入なくしてはありえない、人工的、制度設計的な権利ゆえです。
 翻って「知る権利」はもちろん、図書館界では「知る自由」と言い換えているけれども(『図書館の自由に関する宣言』)、「権利」と「自由」の違いは実は丹念に考えなければならない。「表現を受け取る自由」は一般的な自由としては理解できるけれども、「権利」としてはどこまで保障すればいいのでしょうか?

 反面、個人個人の単なる自助による自由の実現では不可能な領域もありえます。ある本を入手する機会は全員に平等に与えられていないのです。自分が生まれる前の本を簡単に入手できるでしょうか。近隣の書店であらゆる本を扱っていて、買うことができるでしょうか。
 となると、本当の意味での「最低限の保障」として、国立図書館が機能する必要はあるでしょう。いまはその看板を捨ててしまいましたが、「最後の拠りどころ」=last resortとしての性格です。他で入手する機会のない本の利用制限というのは、そのくらい、意味は重いと思います。

 でも自分は原則、どちらも「政府による自由の積極的保障」である以上、「正当な理由付けがあれば」、裁量は認められるという立場です(少し前の安井一徳論文の紹介記事とコメント欄におけるkaw氏とのやりとりが手がかりになると思います)。昨年11月に「夏のひこうき雲」のsummercontrail(左近)さんと私の記事で意見交換したのですが、話をしているうちに、どちらも「柳美里『石に泳ぐ魚』事件」のことが念頭にあったことがわかってきました。最高裁判決は図書館における利用を論点にしなかったにもかかわらず、国会図書館は利用制限措置を施しています。二人ともこの国会図書館の制限には肯定的です。
 更に自分はひねくれていて、左近さんとのやりとり当時は明確にしなかったんですが、それでも自分は「民においては表現のアナーキスト」であって、左近さんとは最後は袂を分かつかもしれません。
 amazonやネットオークションなど、入手の機会はかなり高くなってきています。「政府の保障」なぞなくとも、基本的には勝手に入手して読めばいいし、書けばいい。それが本当の、「表現をする自由」「表現を受け取る自由」でしょう。それを阻害されたりしたら怒るのは自由の主旨からしてまずもって当然だし、どこまで政府に積極的に介入して「もらって」、保障してもらって「喜ぶ」のか。バーリンだったかな、「積極的自由は奴隷の自由」とまで言っていたかと思います、記憶が定かではありませんが。
 その上で、公立図書館=政府が何をするのか、させるべきなのかを問うべきだと思っています。これまで述べたところから直結はしないですけれども、今のところ、児童ポルノ検閲官としての国立国会図書館の対応にはあまり賛成できません。詳しい事情はよく知らないのですが、公けになっている新聞記事だとかを読むと、情けなく見えますね。

 ところで、上に書いた、「本来的な民の間での自由な表現の流通」という意味では、西尾日録は公立図書館=政府に保障される以前の自由を、やっぱり履き違えている気がします。
 その上、口頭弁論でも政府(国会図書館や調査研究型の図書館)が既に確保して保障している言論を「喪っている」と騒いでいる。卑しい、政治的な意図を感じないではいられません。

 勢いで書いてしまいましたら、3000字超です。あーあ。
 駄文、失礼いたしました。回答になっていればいいのですが、なってないですかね…あとで読み直して、恥ずかしくなったら消します。

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2005.09.15

愛機・LibrettoL3の模様替えをしました

 ひょんなことから、USキーボードが手に入った。
 LibrettoのLシリーズのキーボードは同時期に発売されていたB5サイズノートPC(dynabook)とまったく同じだから、そのキーボードが流用できるのである。
 しかし旧Macと同じく、Librettoも情報が少なくなって久しい。さびしいものだ、思い入れを綴ってみたい。

 最初にL3を手にしたときは、それまで使っていたLibretto100との相違点と類似点が気になった。違うようで似ている、似ているようで違う。使い勝手が気に入るかどうかの瀬戸際だ。一番最初に買ったWindows機は、2kgもあったDynabookSS475というWindows3.1がデフォルトだったB5ノートだった。ずいぶん勉強させてもらったが、いかんせん重く、通勤鞄と別に鞄を持ち歩いていた。この後のLibretto100は、1kg。Windows95用として、かなり使い込んだ。鞄に気軽に入れていけるサイズが魅力だった。L3はその後継として検討した結果だったのだが、実は一年近く箱にしまいこんだままだったのである。
 さすがにWindows95から移行する必要が出てきて、L3を出してきて、環境を整えることにした。従来のLibrettoシリーズ(20,50,70)に比べ異質だった100の延長線上にある、L3の横長の精細画面はそれなりに慣れるかと思えた。しかし何よりも大きな違いは、キーボードだった。Librettoは原則「VHSテープ」サイズから出発していたから、コンパクトに変形した配列、小さなキーが前提である。これはこれで使っているうちに慣れてしまうのだが、ところが、LシリーズはB5サイズとまったく同じキーボードを採用していた。慣れる必要がないのである。100を使っていた頃、やはり小さくキータッチをする際は、次第に無意識になるとはいえ「やるぞ」と切り替えが必要だった気がする。
 このB5サイズキーボードに合わせた「Librettoの大型化」はLibretto自身のアイデンティティを切り崩してしまったかもしれない。実際、画面を縦長にしてしまえば、B5ノートと変わらなくなってしまう。Lシリーズは1,2,3,5で打ち止めになってしまい、以後新シリーズとしては現れなかった。東芝のサポートの方が雑談している中でこうおっしゃっていた。「Librettoとして売る理由がなくなってしまったんですよね」。Lシリーズに限らずLibrettoは電源容量維持のためにCPUの能力がひと世代前。Lシリーズはintelが急遽開発した低電力CPU、Crusoeである。しかし時代は、モバイルノートにも充分耐えうる低電力のPentiumを登場させた。B5ノートのPCはどんどん薄く、軽くなっていった。ここに至り、Librettoは存在意義を失ってしまったのである。
 現在使っているL3唯一の利点は、幅はB5と同じでも、やはり小さいという点だろうか。Librettoは「小さな本」という意味がある。Dynabookとの対比だろう。自分にとっては、キーボードの不自由のなさと、このコンパクトさが気に入っている。Crusoeは非力だが、まあ筆記用具にはゲームは不要だろう。

 Windows2000も、Libretto100-Windows95から移行してきて慣れなかった一因だ。とにかく起動からして遅い。安定性、堅牢性に期待しているのに…。
 しかし、HDDを20GB->80GBと移行して、ようやくこの巨大なOSも乗りこなせるようになった気がする。

 そこへひょんなことからこのUSキーボードである。
 電車内やファミレスではなく、自宅で使うときはスタンドに畳んでしまって(100円ショップで買ってきたフライパンの蓋立て!)、ディスプレイ、トラックボール、キーボードを外付けにしてしまう。これらを実現した辺りからカナが振られていないUSキーボードへの関心が始まっていたのだが、外付け<->モバイルのたびにいちいちキーボードのドライバをインストールし直すのが面倒でしかたがなかった。
 今回導入したUSキーボードは、実はけっこうレイアウトが変わっている。Delの位置が最下段なのはそのうち慣れそうだが、PageUpやPageDownも独立のキーになっている。Librettoは元々、マウスコントロールよりもキーボードショートカットを多用するから、正直嬉しい。
 ATOKのかな<->英数字モード変換のキーの割り当てなどもう少し工夫は必要だが、なんだかやっと、本当に自分のモノ書き用の道具になった気がするのである。たかがUSキーボードなのに(当然JISの方が便利な局面もある)、変な話だ。

 トラブルのお陰で、Windows2000自体は修正インストール。システムが新造されたようだ。なんとなく快適な感じがしている。

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2005.09.18

40,000hit!―おそるべきは「タグふれんず」

 昨晩、@niftyトップページのフラッシュ広告に「タグふれんず」というのが出ていたので、どんなものかと思い、クリックしたのが運の尽き。
 あんまりサイドバーにタグアクセサリ、それもキャラクターものを入れてないよなーと思っていたんですわ。で、試しに登録してみたら…今日ハマってしまいました。
 結果として今日稼いでしまったカウントだけで、40,000ヒットは来週半ばくらいだろうと踏んでいたのが、明日には実現するはずです。

 タグふれんずの説明、してみますね。知ってる方はご存知なんでしょうけど(夏にイベントまでやったそうです)、自分は初めてだったし、遭遇する初心者も多かった。
 PostPetはメール配達ペットの育成ゲームみたいなメーラーでしたが、そのブログ版と言ったらいいのかな。
 サイドバーにタグでスペースを用意して。自分を投影するキャラを作って。スペース内にある小さな掲示板や、訪問ログから、ほかのサイトに設置してある「タグふれんず」を訪問する。これがすべてです。

 訪問して、そこにキャラがいたら、チャットができる。友達登録させてもらうと、いろいろできるミニブックマークになります。
 訪問して、そこにタグふれんずの提供している特殊キャラに遭遇できると、いろいろなアイテムがもらえる。このアイテムを集めることで、自分のサイドバーに設置したスペース内がどんどん充実していく。アイテムにはペットもあります。

 問題というか、しかたがないんですが、ブログの本文を読まずに「アイテム探しのためだけに」どんどんリンクを跳んでいってしまうんですよね。辿り着いたらすぐにサイドバーのタグふれんずを見て、特殊キャラがいないか確認して、いなければすぐにそこの掲示板や訪問ログからまた移動。
 「アクセスカウンターの数だけが注目されるべきでない」とはこれまでのヒット区切り記事で書いてきましたし、その考えは変わらない。が、タグふれんずの結果として、カウンターはどんどんまわります。ブログの内容を見ないで、タグふれんず、それもアイテム探しのみを目的としてネットサーフィンしてしまうからです。
 その上、チャットで先輩の方々に教えていただいたのですが、6日前に「ショッピングモール」というのができて、リアルマネーでアイテムが買えるようになった。そのせいか、特殊キャラの出現頻度がぐんと下がったというんですよ。…@nifty、ひどいよ…。流行に鈍い自分が悪いのかい?

 よいこともありました。
 本当に普通の人のブログを、見ることができました。新潟県中越地方の震災がらみとか、図書館とかばっかり、つい見てますからね。
 子育て中の親御さんが(やはりお母さんが)多かったです。何と言うんだろう、単にニュースを繰り返すようなブログでもなくって、自分の生活がテーマなんだな。そういった、にじみ出るような個性に読ませられるブログが嬉しかったです。チャットしていても、子育てのナマの感覚がすぐ伝わる。
 テーマ別のブログ登録サイトとか、ブログ専用検索エンジンだと、こういう普通の人の横のつながりは作りにくい気がします。そこはすごい。

 ウェブログ図書館で、図書館系ブログが訴求性が弱い、残念と言っていただいていますよね。もちろん、このご指摘をすぐに思い出したんです。だって、「友達登録いただけますか?」というとき、自分のブログが最近とみに狭い領分に行っちゃってて、お勧めできるか疑問が湧いてしまったから。普通の人に図書館のこと、伝わるようなブログじゃないんだよな…(目的や意図がそもそも違うんですけどね)。
 でも館長さん、彼ら普通の人の日記系ブログもご覧になっているんでしょう?ウェブログ図書館に登録されているような記事全体が、どうなんでしょう。彼らとは縁遠いような気がして(今度、ちゃんと見てみないといけないですね)。図書館に近い話題であり、もっと彼らに縁のあるはずの、音楽著作権とかだって。
 それでも、こんな方法で一般の方に興味もってもらえるかもなー、というわずかな期待も。著作権の話を、延々チャットでお付き合いいただいた方もいらしたんです。

 ただですね、ずっと継続的には続けられはしないかなー、って感じ。
 とにかくアイテム探しは効率悪いから。記事書く方がかえっておろそかになっちゃう。
 ときどき、チャット相手を探しに、週末に出かけたりするのにはいいかも。オンラインの気軽な友達作りにはいいと思います。二人、よい友達ができましたし、二つ、よいサイトを見つけられました。

 カウンターですが、9/18一日で297ヒット、初めての訪問者数が204。
 最終的な0:00時点で39,973。こりゃ、深夜のうちに40,000ヒットいっちゃうかもしれないです。

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2005.09.21

アニメファンから見た「恋のマイアヒ」(1)

 先週末、仕事帰りに、買い物をしようと街に寄った。
 通りがかりにレコード店の前を通った。数人がテレビの前に立ち止まって観ている。
 ああ、これが問題の「のまネコ」かあ。DVDでアニメビデオを出してて、原曲が「ソラミミ」でおもしろく聞こえちゃうってことを観せてるわけね。
 こりゃモナーとどこが違うんだかわからんよな。確かさ、「日本ブレイク工業社歌」のときにもいろんなフラッシュ作られたけど、同レベルじゃん(リンク貼ろうとしたらまとめサイトが凍結・閉鎖状態になっちまってる…涙)。
 avexの著作物性がどうの、というよりさ。このアニメ作ったアニメーション作家の気が知れない。作らせて売る方もひどいけどさ。
 志が低すぎる。買う奴らの気も知れない。そりゃ「表現を受け取る自由」は誰にでもあるけどさ。これのどこに金を払って買おうという気にさせるだけの「おもしろさ」がある?もっとおもしろいフラッシュ、ネットにゴロゴロしてるじゃないか(真鍋かをりだって楽しんでいる。ここここ)。

 自分はヤマトやガンダムだとかで育ってきて、ナウシカだってヲタクアニメだったことを知っている、そんなアニメ世代。ここでは、アニメを見る目、として書こうと思う。著作権法がどうとか、ということじゃなくてね。
 怒った…というかあきれたのには、二つある。どちらも、「あんな、パブリックドメインに属するモナーをビジネスにできる、金になるっていうんだったら、…」というあの「のまネコ」の映像の独創性のなさ、節操のなさにつながる。
 そして言いたいこと。
 avexの企画に乗って、あんな映像を作ったヤツは、唾棄されてしかるべきだ

 ひとつは、ジャンルとして何と言うのか知らないけれど、同じ「音楽アニメ」というのかなあ。NHKの「みんなのうた」って番組は最近改めてぶっとんでるなあと思い知らされたから。それと比較したら雲泥の差だ。
 国民的な愛唱歌を生んできた番組だけど、自分たちの世代はまた、あのアニメと一緒にセットで楽しんできた。ヲタクアニメと平行して、ときに詩情あふれる、一種の「芸術」路線に近いアニメ作品とアニメ作家をあそこで、知っている。単なるセルアニメだけがアニメーションじゃないってところからね。
 そして、いま、子どもが生まれてから一緒にまた見るようになって、ぶっとんだ。歌の内容もとんでるけど、アニメも合わせて最先端を突っ走ってる。CGを効果的に使うのは当たり前、クレイ作品も頻々と出て、よくまあ、あんな手のかかるアニメを投入してくるもんだ。例えば、椎名林檎が「りんごのうた」をもちこんできたのも、そんな番組の路線を知って、自分の方かららしいじゃない?あの歌のアニメも歌に合わせてエキセントリックだった。
 そんなんだから、「みんなのうた」セレクションはCDじゃ満足できないことがわかっていて、曲数をもっと盛り込んだいいDVDが出ないかなあと待っている。

 こんな流れに連なるのが、ユーリ・ノルシュテインのアニメだったり、『ほしのこえ』だったりするわけでしょ。
 ノルシュテインはかねてより名前は聞いていたので、ラピュタ阿佐ヶ谷ができたばかりの頃に、作品集の上映を観に行った。ジブリの高畑監督だったかの招待で初来日したときで、宴席の写真や参加記念に書かれた参加者のサインを見て、そうそうたるもんだと思った。「みんなのうた」で知ってる名前も多かった。2回目の来日のときは、NHKがドキュメント番組を放送している。彼と彼の作品の紹介と、アニメ作家の卵たちとの交流。
 『ほしのこえ』は知ってる人も多いでしょう。パソコン使って若手が一人で作った作品。映画館にかけたらヒットして、DVDも売れ、マンガ化までされた。あれで、ネット上にあんなような映像作家の卵たちの作品を紹介するサイトがあることを知った。いまの技術だったら、ひとりでも映像が作れる。「みんなのうた」のような。
 ノルシュテインと対峙していた映像作家の卵たちの熱い眼と、「恋のマイヤヒ」のクリップを作ったヤツとは、比べようもない。そういう販売戦略を採るavexも。

 もうひとつは、フラッシュ作家の人たちももっと怒っていいんじゃないかってこと。「恋のマイアヒ」程度のフラッシュアニメだったら、もっとおもしろいのあるよね。あんな、パブリックドメインに属するモナーをビジネスにできる、金になるっていうんだったら、ほかのフラッシュ作家たちの独創性は何だって言うんだ?

 ここで改めて、「のまネコ」で検索したら…まとめサイトとか見たけど、なんだ…ひどいね。
 ということで、別項に続く。

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2005.09.22

アニメファンから見た「恋のマイアヒ」(2)

 前の記事でこう書いた。


 怒った…というかあきれたのには、二つある。どちらも、「あんな、パブリックドメインに属するモナーをビジネスにできる、金になるっていうんだったら、…」というあの「のまネコ」の映像の独創性のなさ、節操のなさにつながる。


 ひとつめが、NHK「みんなのうた」に代表される、「お芸術系」とでも呼べるとにかく品質の高いアニメとの対比。
 イコールセルアニメじゃない、ってところがポイントね。いまはセルもアニメ工程の中ではなくなってしまったけれど、セルに彩色したアニメはとかく商用の普通のアニメに使われてきて、ほぼ「テレビアニメ」とイコールなほどだから。大量の動画マンを動員して毎週放送する作品を作っている。
 それに対して、例えばノルシュテインを引き合いに出したのは、あの人は職人肌で、遅作、寡作。要するに、「アニメーション作家」と言えるくらい、ひとつの作品をひとりで製作する。必ずしも作品が売れるかどうかに拘泥していない。
 だから、avexという営利企業も、手を出すなら「みんなのうた」みたいなアニメーション作家をプロデュースしたらいいのに、という主旨で書いた。
 それがこの時代の、コンテンツを大事にしようとしている文化大国の企業ってもんだろう。

 商用テレビアニメであっても、だ。手塚治虫が『鉄腕アトム』で初めて実現した時点で、制作環境はひどい劣悪な環境に置かれた。手塚が作品を安くスポンサーに売るという、そんなシステムを作ってしまったからだ。これは宮崎駿が昔から繰り返し批判してきている。そして今に至るまで、それは変わっていないという。
 ちなみにあのすばらしいクオリティで『エマ』をアニメ化したスタジオぴえろ。力が入りすぎて大赤字だそうだ。『新世紀エヴァンゲリオン』もTVシリーズ当時は、質を維持していたのはクリエーターたちの自発的な姿勢であったことは周知の事柄。今なおエヴァグッズは散見されるが、企業、商売としてはその分儲けようと思ってんだろうなあ(劇場化の時点で儲けはとりかえしたようだが)。
 商売にできるものにしたって、クリエイターが「創造性」を込めるってことは、それだけのものがあるってことだ。

 ふたつめに書こうと思ったことを、ざっと書いてから、「のまネコ問題まとめサイト」で得た情報での感想を改めて追加したい(次回)。

 で、ふたつめというのは、ネットで散見されるフラッシュと対比して、どう感じるか、ということだった。
 自分が街頭で見た「恋のマイヤヒ」ソラミミバージョンのアニメは、ネットのフラッシュレベルだったから。

 マクロメディアのフラッシュは、周知のとおり、パラパラマンガ感覚で容易に個人で動画を作成できる環境を提供した。ひとつめで採り上げたアニメ作家とは言えないような素人が、どんどん自分のおもしろいアイデアを表現する道具を手にすることができたのである。このことはすごいことだったと思う。
 例えば、自分が好きな作家さん、熱湯さんのホットウェルタンク。※各作品には音が付いているので、再生するときは気をつけてね。
 この中の「スイート・スイート・スイートホーム」がきっかけで(魚沼弁を再現した作品で大会に出品するという発想…)、こうしたフラッシュ作品の大会が開かれていることも知り、そこからさらに違う作家さんを知るようになった。
 もちろん、著作権や肖像権に抵触しているフラッシュも多い。政治・時事ネタフラッシュはどうしてもそうなっている。
 だから、基本的にはアンダーグラウンドではあるのではあるが、ネットによる批評の場が与えられることによって、優れた創作性が磨かれていることはよくわかる。

 「マイヤヒ」もただのネット上のフラッシュだったら「へーおもしろいじゃん」だったろう。そこに「モナー」というキャラクターが出ていたって当たり前だし、ソラミミバージョンなんてよくあるフラッシュ。
 問題は、ネットでみんなで育ててきたキャラクターをavexがそのまま使って、商売にしているというレベルの低さだ。いや「そのまま」どころか、「インスパイヤ」された別の二次著作物だと言っているのは許せない。優秀なフラッシュどころじゃない、ネット上のジョークレベルで商売するっていう発想、おかしくないか?そうして、みんなで育ててきたキャラクターを改変しただけで、著作権が発生するなんて…オリジナリティなんてことばは、どこにあるんだ?
 「モナー」を改変したヤツには、ほかのフラッシュ作家だって、怒っていいと思う。最初に言ったことばをここで繰り返しておこう。
 avexの企画に乗って、あんな映像を作ったヤツは、唾棄されてしかるべきだ。アニメーション作家として恥を知れ

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2005.09.23

アニメファンから見た「恋のマイアヒ」(3)

 前の記事までが「ふたつめ」だったのだが、「のまネコ問題まとめサイト」やここここを読んで、事実関係を確認したらびっくり(遅いって)。

 元々は「わた」氏というフラッシュ作家の純然たる作品で、ネット上で話題になっていた。ちなみにこの原作品は理由不明のままネット上では見られなくなっている。
 現状で「わた」氏の声明等で明らかになっているところでは、avexが彼女に商品化(原フラッシュからの部分的な著作権譲渡契約?)の話を持ち込んだ。
 「のまネコ」をデザインしたのは、「わた」氏(!!!)。
 avexの(子会社の権利保持者の)公式見解では、「のまネコ」はモナーに「インスパイヤ」された二次著作物。だからといって、モナーをのまネコの著作権侵害等で利用を制限することはない。

 著作権法上は問題ないのだそう。穴をくぐり抜けたというか。
 まとめサイトの「MUZOについて」には、流言蜚語に惑わされないで事実誤認から「わた」氏を個人攻撃しないで、というコメント。

 しかし、アニメファンの視点から言いましょう。
 「のまネコ」をデザインした時点で、「わた」氏は、創作者としての立場を放棄したとみなされてもしかたがない、と自分は思う。原作品にあったであろうひらめき、おもしろさ、オリジナリティも、それでパアにしてしまった。元々「みんなのもの」や違法な借り物を使った、それでも彼女のオリジナリティが込められた作品だったのに、それもまとめて作品ではなく「商品」として売り渡してしまった。
 いかに違法でないにせよ、みんなが使っていたものを商用に改変したのだから、アングラにも戻ってこれないでしょうね。
 原作品に残っていたであろう著作者人格権がそもそも意味するところも、何の意味もないでしょう。

 マンガやアニメの著作権、管理がうるさくなっています。ファン活動も難しい。
 ガンダムという作品、ありますね。あれ、原作者の富野監督、三十万円くらいで制作会社のサンライズに渡してしまった。以来、彼に著作権はありません。原則としては団体著作物扱いになっているみたいです。以後ガンダムは多々作られましたが、それでもガンダム世界はサンライズ公認の著作物だけで成り立っていったわけではない。「アニメック」という雑誌が嚆矢となり、背景世界の設定を作り込んでいった。ファン活動が広がらなかったら、作品も売れなかったでしょう。自分は今でも、おもしろいサイトをときどきチェックしていますが、右サイドバーにある「直撃」ブログなんてのもそうです。
 メカニックデザインの大河原邦男という人がいます。これも売り渡しているようです、未だに。で、カトキハジメという若手デザイナーが、今の時代に合うように、昔のガンダムをリデザインしてプラモになっています。だからといって、カトキハジメの創作者としての名前は揺るぎません(批判者はいても、その批判者にアレ誰がデザインしたのさ?と言って文句を言う人はそうそういないでしょう)。
 リデザイナーであろうと、クリエイターとしての名前は出るんです。

 「のまネコ」で名前が残って、嬉しいですか?わたさん。

 (1)の冒頭に戻ると、レコード店の店頭でひととおり映像を見た後、ビルの前で人だかりがしていた。中にはデジカメで写真を撮っている人も。
 覗いてみると、バンドの演奏。人だかりのちょい外で、「有線ヒットチャートで××位です!みなさんぜひ聴いていってくださーい!!」という、からした声。
 レコード店頭のテレビとそう距離がないのに、この人の集まり方の違いは何なんだろう、と思いながら通り過ぎた(…自分が単に流行に乗り遅れただけなんだろうけどね)。

【同夜追記】
 らくだのひとりごと:雑誌取材を断ったなんて方もいらっしゃる。ちょっと離れた話かもしれないが。5.3.付記事の後日譚。翌5.4.付記事も主題的にはつながっているのでご参照いただけば。

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2005.09.24

「南京図書大略奪」の件(1)

※9/6から書き始めて、やっとアップすることになりました。歴史は苦手ですー。

 訂正記事、になるのかな?過去書いた記事の記述が誤っていたならば、間違いは正さなければならない。最低限、「このような指摘がある」との事実を認識していることを、明らかにしておくに越したことはあるまい。
 ただし本ブログでは、戦時中の図書の「略奪」に焦点は当てておらず、占領下日本及び中国における「焚書」に注目していたことを述べてはおきたい。例の裁判の、西尾口頭弁論及び『正論』9月号西尾論文の「焚書の指摘」が当ブログの関心事だから。

 要は、南京大虐殺よろしく、南京で図書の大掠奪が行われた、ということの真偽が争われていたようだ。
 金丸裕一「南京図書大略奪のまぼろし」『諸君!』2005.8月号,162-175.である。本号目次を見ると「特集・あっと驚く「歴史歪曲」を見よ!」と題された特集の巻頭論文扱いで、編集部が付けたと思しき副題は「図書八十八万冊を日本が略奪だって!?新たな「南京神話」捏造トリックを見破ったり!」とある。
 確かに当ブログでも、「80万冊」が中国から奪われた、と松本剛『略奪した文化』より引用している(8.6.付記事)。

 先に採り上げた占領下の「焚書」についての当ブログ連載記事は、船橋市西図書館蔵書廃棄事件判決に関して、口頭弁論の論拠で引き合いに出された「GHQ指定没収図書総目録」の図書館史的な位置づけを確認するために、比較的堅実な研究と見られる松本剛『略奪した文化』から抜き書きしてみたり、既存の図書館OPACで自分で実際に検証してみたものだった。
 既に以前の記事で述べたように、戦争中の文化破壊は、松本がまとめているように「略奪によるもの、爆撃・戦闘によるもの、焚書によるもの」という類型に分けられる(8.9.付記事)。松本も一冊の本の中で、この類型を意識して章立てしていた。話としてきちんと分けており、自分が注目した部分も「焚書」に関する章であったのだから、本筋では「焚書」と「略奪」の違いに神経質になることもないのだろうが、戦時下の図書の略奪について「事実を意図的に改変しているのではないか」という指摘には問題意識を共有するところでもあるから、意を払っておこうと思う。
 以前の記事の区切りがついたところで、「読書日記」のobaさんと「書物蔵」の書物奉行さんにコメントをいただいた(8.24.付記事)。お二人はブログ上で植民地図書館研究文献の紹介(及び発掘)もされている。一次資料が損失していて研究の進捗が困難なこと、近年の「政治論争」に扱われかねないという貴重な指摘であった。

 ここから書く、金丸氏の「戦時下略奪の欺瞞批判」の読解は、「書物蔵」の方で先行されてしまっていて、既に決着が付いている話である。書物奉行さんの簡潔な記事にリンクしておく。
2005/7/2 あれま、山崎元氏がたたかれてる
2005/8/27 ビッグボックス(高田馬場)へ行ったら
梶ピエールのカリフォルニア日記:今月の『諸君』
 リンク先の記事をお読みになれば書物奉行さんの危惧と確認後の位置づけがわかって、「なあんだ「図書館員の愛弟子」では追っかけ記事を書いているだけじゃないか」と言われそうだ。ごめんなさい。
 書物蔵は図書館関連古書探索の貴重なブログで、戦前・戦後直後辺りの自分は全然知らないことばかりが出てくるので、大変勉強になります(ペコ)。

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2005.09.25

「南京図書大略奪」の件(2)

 この記事では、以下の同著者の論文2本を入手して主張の主旨を確認した(書物蔵では後者を参照している)。

金丸裕一「曲論の系譜を読む―南京事件期における図書掠奪問題の検証」『立命館言語文化研究』14(2),2002.9, p.123-138.
・同「戦時江南図書「掠奪説」誕生の歴史的背景」『歴史学研究』第790号,2004.7,p.25-32.

 これら論文2本によると、以下のことが読み取れる。

・「現代にあっても「日本からの文化的略奪」がそのまま放置されている」旨の言説が中国で流布・定着しつつある。それらへの実証的な反論を行う。
・主張の中心は、南京陥落・占領時に一挙に80万冊もの移送はできない。時期的な混同が見られる。
・戦時下中国における図書の流れは実証的に明らかにしていく必要がある。その流れの推定仮説あり。
・かといって、戦時中の掠奪や焚書を無視することは誤りである。著者も、研究上の出発点は「日本に残る中国蔵書印の残る図書が孕む事実を確かめたい」というところから、と繰り返している。
・戦時中における破壊、焚書についての記述には力点を置いておらず、ほとんどない。文化破壊については略奪に関するもののみ。

 論文そのものからではないが、次の自分の感想も付け加えておく。

・『諸君!』の論文は、上掲学術雑誌論文の焼き直しにしか読めなかった。すんません→金丸先生。
・書物奉行さんの指摘によれば、『諸君!』掲載論文は、編集部によると見られる標題の付け方に意図的な文脈のすりかえ(読者の誤読への誘導)があると思われる(←ここ大事!)。著者は『諸君!』掲載論文でも「80万冊を南京事件のときに一挙に略奪することは不可能」としか言っていない。上述、他の機会との混同がある、中国の学者の政治的な流言蜚語を許すべきではない、と言っているに過ぎないのであって、中国大陸全体で行われた図書略奪の事実そのものまで否定していない。事実を誇張することへの憤りには同意できる。
・詳しい事情を理解していない自分としてはむしろ、「戦時下に図書館員や学者が図書"略奪"に関わっていた」という事実が、実名入りで確認できた。「ああやっぱり…」という気分。書物奉行さんやobaさんのおっしゃるとおり、彼らの関わり方が"略奪"なのか、どう評価すべきかまだまだ検証が必要なのだろうけれども…。

 なんか、「焚書」と関係ない記事になってしまいました。オチが付かなくて、アップするのに躊躇していました。
 それだけ、「南京図書大略奪」ということばがひとり歩きしているというか、そこにばかり焦点が当たっている気がして、論文そのものや、自分の採り上げ方があまりよくはないのかもしれません。ほんと、書物奉行さん始め文献学、歴史研究の素養のある方には図書館史の沃野をどんどん埋めていってほしいなと思います。

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