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August 2005

2005.08.01

わが家にxpマシンがやってきた

 何が驚いたって、ADSLの速度である。ベストエフォート12Mbpsのところ、これまで自分のOldMacでも更新前のWin95OSR1でも、3Mbpsしか出ていなかった。
 それが何度計測しても、4Mbps出ているのである。先月危うく光ファイバーを導入しかねない勢いだったのだが、直前でとどまってよかったようだ。
 光を導入しても、旧式ハードウェアのせいで充分にパフォーマンスを発揮できないことが証明されたようなものである。

 今回のPCは家族のものなのだが、購入に関してはほとんど自分が手配した。
 当人はWin95+Netscape7.1の反応の鈍さに耐えられなくなっており、「とにかく速いほうがいい!」との要望。とは言っても、いまの店頭販売の新品PCのスペックは数世代前からもう「普通の使い方をする分には充分」という手応えがあるので、PentiumMかCeleronMかで迷ったけれども、結局Celeronでも全然関係なかった。
 価格も安くなっている。「最低限度のスペックでもう充分」と、セール品を狙ったのだが、本体+メモリ512MB+ウィルス対策ソフトで95,000円で済んでしまった。10万円なんてかからないんだな…。

 検討から漏れたものを自分でほしくなってしまったよ…。

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2005.08.02

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(1)―『図書館ハンドブック 第6版』

 『図書館ハンドブック 第6版』日本図書館協会,2005.

 「図書館ハンドブック」と言えば、いくつかある図書館事典の中でも「読む事典」としての性格もあり、図書館受験の必携本である。普及度も高く、JLAの刊行物の中でも信頼性があると見ていいと思う。
 「I.総論 B.図書館と社会 2.知的自由と図書館」が興味深い。文責が(川崎良孝・山口源治郎)となっていて、米日の知的自由問題の論客としてはもっとも適切だろう。「b.知的自由と図書館:日本の場合 (2)戦後社会と図書館の自由」にこうある。

 戦後,日本国憲法が,…(中略)…,知的自由の保障を規定したことは,図書館における知的自由擁護の議論と実践に法的正当性を与えるものであった。しかし占領期には,連合国軍総司令部(GHQ)の「宣伝用刊行物」の没収指令によって,図書館からも出版物が没収されたにもかかわらず,図書館側からの批判はほとんどなく,むしろ自己検閲を行う例が多かった。
 知的自由擁護の問題が,図書館界で本格的に議論されるのは1950年代に入ってからである。…

 ただし、前後の文脈を見忘れてはならない。直前の項、「(1)戦前期における知的自由と図書館」では、次のようにもある。

 戦前期の場合、そもそも「知的自由」や「図書館の自由」を議論する余地はほとんどなかった。国家は人間の精神や内面に干渉しないとする近代国家の原則自体が,未確立だったからである。…
 …戦前期とくに戦時下の図書館の場合,警察当局による発禁図書,左翼関係図書等の没収が日常化し,それに対する図書館員の抵抗は,きわめて微弱であった。

 ちなみに、6/4に紹介すると言っていた文献は、(2)に挙げる資料である。

【追記2005.8.7】
 当ハンドブック今回の改訂は、15年ぶり。かなり大幅な改訂となっており、最新の動向が反映されていると考えてよいと思う。執筆者一覧にもそれは表れている。特に、年表編の担当者が、実力ある若手に引き継がれている点に注目。
 ちなみに「GHQ没収指定図書総目録」の記述は第5版にはない。

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2005.08.03

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(2)―『略奪した文化』を読む : 1

※8/7に書いています。

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 8/7付記事に書いたように手こずっているので、6月段階で気づいていた「第六章 占領下の焚書」の記述を中心に先行して紹介するようにしたい。
 わが尊敬する読書日記さんのような気の利いた文献紹介はできないのでお許しを(もちろん、西尾先生のようなまとめ方もできませんでごめんなさい)。当然のことながら、ここに書く自分の理解が誤っていることは大いにありうるので、原本にぜひ当たっていただくことを強くお勧めする。

 本書を紹介する目的は、最高裁での上告人西尾幹二氏の口頭弁論において、自らの利益主張をする際に『GHQ指定没収図書総目録』を提示したことがいかにズレた歴史感覚から来ているか、を明らかにするためである。読み込んでいくと、二重にミスがあることがわかる(が、判決は気づかなかったようだ。わかってて無視したか。判決そのものに対する印象批評はまた別途。まあ要するに、あんな杜撰な法的構成に一致した裁判官連中に怒ってます)。
 一つは、「図書館」における焚書問題として採り上げる素材として不適切であったこと。自分は個人的にはこれを特に重視している。一つは、「表現の自由」という規範問題として採り上げる素材としても、当時の一般的背景からして不適切であるということ(占領下であるということの評価)。
 後者を更に拡張して言うならば、一般的に戦勝国Aが何をするか。つまり戦勝国A=それがたまたま日本だったときの占領下での所業(焚書行為)について、現在の歴史を生きる西尾氏の念頭にあるのか、という点に疑問をもっている。占領軍がたまたまGHQだったことだけを強調して言うのであれば、それはダブルスタンダード(二枚舌)だ。学者の主張として一貫性、一般性がない。単なる二流の政治思想家の弁である。
 自分の「表現の自由」が踏みにじられてくやしい、と言いたいのだったら、偉そうにラス・カサスやGHQを出す必要があったのかどうか。「国民の記憶」の問題は非常に勉強になったが、そんなことは今回関係あるんですかね、というのが自分の感想だ。

 さて、以下本書の目次を掲げるが、日本の学界・図書館界が占領地や満州で何をしてきたかについては、ほかの文献でも記述が見つけられるように聞いている。本書に興味をひかれたのは、目次の中でも第六章、日本における「占領下の焚書」の記述にほかならない。
 が、自分が勉強が足りないようであればぜひご指摘願いたい。国内のことである。本書にも古い図書館雑誌からの注記が多く見られ、当時のことを実際に体験しておられたりそうした方々から話を聞いておられる図書館員、図書館文化史の研究者の方々には常識であることが想定されるからだ。特に、戦前以来の図書館本の収集にお詳しい書物蔵の書物奉行さん、ツッコミよろしく(笑)。

 第一章 略奪中国図書の探索命令
 第二章 図書略奪の「根拠」と正当化 ―戦争法規と「文化的戦争」論―
 第三章 中国・アジア図書の略奪
 第四章 大学・図書館の破壊と奥地への移動
 第五章 日本の図書被害
 第六章 占領下の焚書
 第七章 略奪図書返還に向けて

 カバー見返しから

 戦争に略奪はつきものである。かつて中国、アジアを侵略した日本も、人命を奪い、土地を奪い、資源を奪った。日本が奪ったもうひとつのもの、それは本だ。知識人たちは動員され、あるいは欣喜して膨大な図書を奪い、日本に持ち帰った。中国の人々は、図書館を奥地へと移動させ、命を懸けてこれを守ろうとした。未だ決着のつかない文化の略奪史を多くの資料から明らかにする。

 「あとがき」から

 本書は、中国への侵略戦争を行っていた間に日本が大量の図書を国立図書館、大学並びに研究所に持ち帰っていたこと、戦後、アメリカ軍が日本から公文書や図書をアメリカに持ち去っていたこと、占領下の中国と日本で図書が大量にいわゆる焚書の厄にあっていたことの三点を、事実に即して述べたものです。日本は勝ち戦のときには図書の略奪者であり、敗戦国になると、こんどは被略奪者の立場におかれました。
 本書では述べていませんが、戦勝国が図書や文書を略奪したことはヨーロッパでも同じでした。ドイツは勝っているときには周辺の国から図書や美術品を奪いましたが、敗戦後はアメリカやソ連に略奪されました。
 いずれにしても、戦勝国は敗戦国の図書や公文書、美術品を奪ったのです。
 戦勝国はつねに「正義の戦争」を標榜して自国民を戦争に動員しましたが、その「正義」の一つの実態が他国文化の破壊と略奪だったのです。…(後略)

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2005.08.04

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(3)―『略奪した文化』を読む : 2

※8/7に書いています。

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 「第一章 三 略奪以外の本も占領軍が収集」 p.9-13.

 第一章では、著者が所属する大学から中国の図書館に本を寄贈するというプロローグ(一)から、二で同じ大学の図書館の人に話をしていたところ、文部省発の古い通知文書が出てきた―それがGHQの「中国からの略奪図書の調査命令」であったというところから、著者の関心が中国(の大学、各種機関)から本を略奪した事情に広がっていた旨が書かれている。略奪者たちは兵士だったのか、大学の教師だったのか、図書館員たちだったのか。
 そこから翻って、三では、敗戦後の日本における占領軍の動向を描く。以下、上掲部分の引用。この引用部で、「GHQ没収指定図書総目録」の図書館での取り扱いがどのような背景であったのか略述されていると言えると思う。詳しくは第六章。

 アメリカ軍は日本を占領すると、ただちに日本の支配階級の状況や地理、経済等について調査した。…(中略)…進駐二〇日後に[帝国]図書館に来たことになる。
 ところで、マッカーサー司令部は略奪図書の回収をやっただけではなく、いわゆる宣伝用刊行物といって、戦時中に国民の戦意を高揚するのに役立ったと見られる本も提出させた。…(中略)…宣伝図書の回収についての覚書は、一九四六年三月一七日に最初に出され、その後繰り返し出された。…(中略)…この没収命令は当初は図書館には適用されないことになっていたが、命令の変化や混乱もあり、図書館でも大きな被害を受けた。
 …
 占領軍は略奪図書や宣伝図書のほか、戦時経済について資料的に価値のある文献も提出させた。…
 …[京都帝国大学図書館、大阪商科大学、外務省、文部省への提出命令についての記述]…
 ここで重要なのは、これらの図書の提出命令が略奪図書の探索命令や宣伝図書の没収命令よりも早く出されているということである。すなわち、アメリカ軍は占領後まず真っ先に、アメリカの必要とする本の収集に着手しているのである。
 …
 これは、本のことではないが、「占領直後の、米軍の物資調達ぶりは相当に荒らかった」といわれる。…(中略)…金魚やあひるを調達してこい、という命令もあった。
 アメリカ軍の命令は絶対であった。
 このような社会的な雰囲気のなかで、アメリカ軍による図書の提出命令が出されたのである。それは、当時の日本人の受け止め方としては日本軍が中国で出した図書の接収命令と同一の強制力を持つものであったと思われる。
 アメリカ軍による日本図書の押収については、あとで詳しく書くつもりである。ただ、アメリカ軍が日本で図書の接収をしていたことと関係づけて考えてみると、連合国軍総司令部が中国図書の返還を日本にせまったのは、決して中国の学問や科学を尊重し、その地の民族的な文化遺産を守ろうとしたからだということだけでは、説明がつかないように思われる。戦争においては戦勝国が敗戦国の文化を奪うというのが基本であり、中国図書の回収は、いったんは略奪された図書を今度は取り返そうということであり、戦争を契機とする文化財の移動の一つの形態にすぎないのである。もちろん中国図書の返還要求は中国政府の強い要求によるものであったことは、当然である。

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2005.08.05

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(4)―『略奪した文化』を読む : 3

※8/7に書いています。

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 ところで、「第一章 三」の上の文に続く「四 中国図書の所在調査 (1)図書問題に関する占領政策」(p.13-15)は、非常にわかりやすくGHQの図書・図書館問題についての措置をまとめている。ここはそのまま引用しよう。

 アメリカ軍を主とする連合国軍総司令部は、日本を占領すると早速、図書や図書館問題について、矢継ぎ早の措置をとったが、重要なのは次の四つである。
 一、占領軍は占領政策を具体化し、実行するのに必要な文献を収集した。これには日本の戦争責任を解明するのに必要な軍部、政界、財界に関する文献も含まれる。これらの文献の多くはのちにアメリカに持ち去られた。これは連合国軍総司令部の民間諜報局(CIS)が担当したが、諜報局はその後たびたび組織が変更された。
 二、出版物の検閲を行った。これも民間諜報局が担当したが、のちに参謀第二部が担当した。検閲のために膨大な出版物が提出させられ、これものちにアメリカに持ち去られ大規模な文庫となっていくことは、第五章で述べる通りである。
 三、日本政府が行っていた図書の閲覧制限を解除し、また、図書館の整備を勧告した。これは民間情報教育局(CIE)が担当した。この場面のみを見ると、アメリカ民主主義が日本の社会教育を前進させる面でいかに大きな貢献したかが強調されることになる。しかし、この場面も支配を基調とする全体としての占領政策の一構成要素である。
 四、日本が中国やアジア諸国で略奪し、日本に持ち帰っていた図書を調査、収集し、各国に返還させた。これは民間財産管理局(CPC)が担当した。
 本書にとって関心のあるのは、このうちで一、二、四である。
 さて、この四つの占領軍の政策を並べてみると、重要なことに気がつく。
 第一に占領軍は中国などへは略奪図書を返還させながら、他方では日本の文献を大量にアメリカに持ち帰っている。
 第二に、戦時中の日本の図書の閲覧禁止を解除して、読書の自由を推進しながら、他方では、出版物の検閲をやって、言論の自由、読書の自由を妨害している。
 このように図書や出版物について相反する政策がとられているところに、アメリカ占領軍のファシズムからの解放軍としての性質と戦勝国たる支配者としての性質の二面性、または民主的性質と反共的性質という二面性が現れている。この二面性のもつ内的連関等の問題は占領政策全般の性質を取り扱うことになり、本書のテーマからずれるので、ここではただ指摘するだけにして、話をもとへ戻すことにしよう。

 一、二、三、四で挙げられているうち、図書館業界として有名なのは、二がプランゲ文庫のマイクロ化事業、三がGHQ/SCAP文書による図書館法成立史関連の研究で、だいたい三が図書館史の触りに出てくるところだろうか。四については、いわゆる"満鉄図書館"なんかが関連する話題なのかな?昨今また新刊が出てますね。よく知らないもんで…。
 自分が手許にあって積ん読状態だったこの本、読む機会を与えてもらって正直感謝している。誰に感謝すればいいのかわからないけれども。第一にはこの本をくださった方だろうなあ。
 何を感謝しているって、上記のように四つの側面をまとめてもらうと、やはり大きな占領政策、文化政策の一環だったのか、ということが俯瞰できてありがたかった。ご存知の方はご存知なんでしょうが、ワタシってバカね。
 要するにですね、「読む自由」だの「図書館の自由」だの言っても、「ときの政府」(government)次第なんですよ。やっぱりそうか、と得心がいきました。自由に二種類あるという話はまた別の機会があれば、いたしますが。著作権のところでも書きましたが、図書館だって人工的な自由以外の何者でもないんです。
 憲法だって図書館だってそうですが、当時の立法者意思の歴史研究をきちっとやった(知らしめた)上で、改めて再定位、解釈するという姿勢が大事ですね。

 脱線しますが、国会図書館は「図書館の誕生」っていうパスファインダー作るべきじゃないかなあ。図書館史を紐解こうとしても学界で知ってる人は知ってるけれども、図書館史をやる上での「常識」は門外漢にはわけわかりません、だもの。
 国会図書館はHPに憲法学者の高見勝利先生を招いて「日本国憲法の誕生」なんて一大展示を作ったけれど、史料に忠実であることは自分も評価しつつ、「歴史」を書くってことは「物語を作る」「解釈をする」ってことなんだからさ。あれは高見先生の著作、作品ですよ。図書館の仕事じゃない。税金を使ったことを考えてデジタルデバイドを考慮、全国民に知らしめるためには、出版社に売り込むか、製本orDVD化して全国の公立図書館に備え付けるべきじゃないですかね。
 そうじゃなくって、あなたが調べようとしている主題はそもそもこんな性格で、最低限当たるべき資料はこれ、調べるならこういう資料、当たるべきところはこんなところを、というような、いってみれば標準的なfinding the path to ...がないから、近代図書館を知る上でわけがわからないことになっていて、困っちゃってるんじゃないだろうか。

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2005.08.06

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(5)―『略奪した文化』を読む : 4

 ※8/7に書いています。

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 第3章や第4章に寄り道しているわけにもいかないのだが、やはり驚きはしたので備忘しておく。
 「日本軍またはその指揮下の組織による図書の略奪は、大規模で、中国の文化・教育・研究を根底から破壊するものであった」(p.87)。本書は逐一各地の資料にあたって、特に日本側の調査結果からも明らかにしている。

 南京だけでも、p.80に当時の首都「南京での日本の接収文献」という表があり、その注に「この数字は接収当時のもので、後に80万冊以上であることがわかった」とある。

 この表に示したもののほか、南京城内一三ヵ所から数万冊の本も集めた。日本軍の侵入前に南京には公共の蔵書が約一四二万冊あった。日本は「正にその六割を戦禍散亡の裡から救出し得たわけである」。
 当時の帝国図書館の蔵書は約八五万冊であった。ちょうどこれと同じ冊数の本を集めたことになる。一般の公立図書館で最も多く蔵書をもっていたのは大阪府立図書館で、約二五万冊であった。この図書館三つ分を集めたといえば、どれだけのものか想像もつくであろう。こうして日本は一挙にして「中支那における中央国立図書館の実質を有する」蔵書を作り上げたのである。

 接収後返還がなされたものはいいが、本書にはもちろん、大規模な図書の焼失・図書館の破壊の記述が第4章にある。程度の問題ではないし、相殺されるものではないが、GHQ指定図書総目録で焚書に遭った4,000冊だけを採り上げて主張するのはあまりに均衡を欠く。本書によれば、日本軍が中国で焼いた図書の数は自分が読んだだけでも数十万冊は下らない(例えばp.124-125,135-136)。
 日本占領下における「焚書」を、どのように評価するのか。国(の発展)というレベルでしか見ることができないのであれば、それは保守思想やら自由主義史観どころか、第二次大戦以前の古い発想だろう。第二次大戦以降は、現行の日本国憲法や国連憲章で謳われているとおり、人類史的な視点が欠かせない。文明や文化の相対性はあろうが、「焚書」を声高に言うとき、始皇帝等々の世界史的事績を挙げているではないか。そのような世界史的普遍的な視点に立ったとき、ある戦勝国A=日本が占領下でなしたことに目をつぶるような議論、知らなかったですますような議論は自分は許すことができない。まあ自分が許そうが許すまいがどうでもよかろうが、誰でも疑問には思うのではないか。
 ある「焚書」を殊更に罪だと言う者、特に歴史学者は、同じ人類史的な罪がどこでなされていたかを知る義務がある、とは思うのである。

 その意味で、西尾幹二氏の口頭弁論はトンチンカンだというのである。自らの「表現の自由」が侵されたから救済してくれと言えばすむものを。そして、(結論は別として)その論理を認めたのであろう最高裁の知性をも疑う。
 自分はしがないサラリーマンで、仕事と家族の優先順位にも迷う。本を燃やすぞと徴発しようとしているところで抵抗できるだろうか。しかし、図書館員ではある。本は、形を変えながらも、"人類の歴史を越えて残されてきた"。「そのこと」くらいは、知っている。そんな、「つもり」ではいる。
 自分に焼け、と言われれば焼きたくはないだろう。では自分の書いた本が焼かれたとしたら。それに対して、人類史的な罪とまで言う勇気は、いまのところ自分にはない。

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2005.08.07

今日も今日とてまとめ書き

 日曜日、午前中は子どもとミニプールに入るなぞして家族とお付き合い。
 昨土曜も朝から晩まで子どもの面倒を見ていたので、もう耐えられないと、"家族を捨てて"ファミレスに逃げてきた。同じ読書をするにしてもエアコン代をケチるという名目もある。午後になれば子どもは昼寝もするが、その寝かしつけだのなんだので落ち着かない。一緒に寝てしまうことも頻。子どもに生活を合わせるということは、うっかりすると生活が乱れまくるということなんだよねー。それが独身気分が抜けきれなかったりするとなおさら。
 バッテリは3本もってきたし、PCを起動せずに文献をただただ読みふける時間もあるので、まあ午後いっぱい自分の思考に耽溺できるだろう。ごめん、ひどい親だ。子ども任せちゃってすまん。

 さて、記事を書き出す前にこんな随想を綴っているのは、何を書こうか書けるかなと考えあぐねているから。午後いっぱいといっても意外に限られた時間だ。子育て中は時間を有効に使わなくては。書いた記事はまた日付をさかのぼってアップするつもりだけれど、どうなることやら。
 HDDに入っている資料もあるが、バッテリのほかにブログに書くつもりの文献やらコピーを鞄にまとめて詰め込んで出てきた。羅列しておくと…。

1)松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993. この本のほか、GHQ没収指定図書総目録関係のコピーの山。
2)福島鋳郎「プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと―福島鋳郎氏に聞く―」(上)(下)『教育情報パック』No.763(2005.5.15) p.7, No.764(2005.6.1) p.7.
3)西尾幹二「知られざるGHQの「焚書」指令と現代の「焚書」」『正論』2005年9月号 p.48-58.
4)安井一徳「公共図書館における図書選択の理論的検討」[webサイト]

 1)は、8/2の記事に続く、本筋で紹介すべき文献。
 船橋裁判の口頭弁論に異論を唱えたときに参照したのはこの第6章「占領下の図書」だが、やっぱり初めから読んでみないと意図するところが読み切れないことがわかってきたので、てこずっている。
 要するに学者も図書館も、その本質は醜悪なものだ。「学問や図書館がおとなしい、よいものだ」などというのはそれこそ平和ボケのなせる業である。国家の名の下に力を得ると、何をするかわからない。ここに描出されている例を見れば、温厚篤実な面ばかりではないのだ、ということを教えてくれる。個人的には想像はしていたものの、これらの事実を知らなかったことの不明を恥じているところ。

 2)は、「西尾幹二のインターネット日録」管理人の「年上の長谷川」さまから、6/4付の記事にいただいたコメントへのレス及び7/19付の記事に「書くつもり」としたネタ。
 西尾氏はGHQによって失われた図書の収集に着手されておられるようだが、それに先んじ長い年月をかけて「プランゲ文庫」に光があたるように努めてこられた方々の事績を、この文献ではインタビュー記事にしている。その方の管見に耳を傾けていただきたい。

 3)は、年上の長谷川さまからご紹介いただいた文献。内容のほとんどは「西尾幹二のインターネット日録」で読むことができるが、ここでひとこと書いておきたい。
 著作権法の音楽関連の改正(廉価CD還流防止措置を目的とする"改悪")でようやく消費者、エンドユーザの零細な声が届き始めたが、西尾氏のように論説雑誌に自らの思想を明らかにする場が与えられる言論人といえる人々に「表現の自由」をあまり大仰に語ってほしくはない気分だ。今でこそインターネットで無名のひとりひとりが、ものを書き、読むことができる時代になったが(愚痴やつぶやきも多いけれども)、マスコミ叩きもできる彼らは既に権力者である。
 まして、本が出版できる人の表現の自由は、一般人の表現の自由とは明らかに異なっている。思想傾向が右であろうと左であろうと。このような観点からも、今回の判決はいったい、誰のための「利益」が認められたのかをよく考えるべきではないか。

 4)は、7/19付「書くことリスト」から漏れ落ちた、日本図書館学会発表の元論文(このあとの発表の方を記事にしようと思ってるんだけど…)。これは船橋事件を書き出しに使っているが、純粋に図書館学の正道の中での刺激的な論考である。
 「図書館の選書・蔵書構成というフィルターが、図書館員の専門性及び市民との関係においてどのように理解され、その図式のどこに陥穽があるか」。発表自体については、既に読書日記で紹介済み。図書館学の世界での「図書館と利用者共同体との関係は、従来考えられてきた安寧なところで収まっていてはいけないのではないか」との指摘は、別の視点からもあり、この文献はそのひとつとして挙げられるだろう。
 少なくともあの杜撰な判決の理由部分での公立図書館の規範モデルからは、そのような深い思考の射程が透けているようには思えない。

 さーて、もうけっこう時間が経ってしまった(実は一本バッテリが急に落ちて数行パアになってしまった)。どの文献から手を着けるかな…。

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2005.08.08

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(6)―『略奪した文化』を読む : 5

※8/10に書いています。

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 寄り道しているわけにもいかない、第6章が中心だといいつつ、もうダメだなこりゃ。このままずるずる続けさせていただきます。
 第5章の目次と、そのうち、戦時中の図書館の実態と戦後の図書館の焚書に至る経過に関する部分。「図書館員が」どう動いたかなんて、記述がない。それくらいひどい時代だった、という評価をくだしてよいのかな。
 下線は引用者。

 一 戦時下の図書館
 本章のテーマは戦時中及び戦後の日本でアメリカ軍がどのように日本の図書を破壊し、接収したかということである。…
 まず、戦時下の日本の図書状況を見るため、図書の閲覧禁止問題から述べていこう。

 (1) 閲覧禁止と図書没収
 戦時下の図書館における読書制限は、思想統制との関連で多くが語られている。この場面で見落としてはならないことは、読書を制限する措置が日常頻繁に行われていたことである。警察から閲覧禁止の通知が来ると、図書館では該当する文献を書架からはずした。また、雑誌のなかの論文が閲覧禁止になると、その論文を切り取った。…

 (2) 図書館員の戦死
 (3) 軍事施設への転用
 (4) 爆撃による被害

 二 戦後図書館の図書不足
 これまで述べてきたことをまとめる意味で、戦後の図書不足の原因について述べよう。それには、六つのものがある。
 第一は、戦争による図書館以外の図書の焼失である。…
 第二は、戦争による図書館の被害である。…
 第三は、出版点数の不足である。…
 第四は、図書館の本の貸し出し制限または図書の文部省や警察による没収等を含む処分である。
 戦後の図書の没収は、…教科書や参考図書の没収に始まり、そのあと戦争宣伝に役立った本の没収を命じた…内務省警保局長の通牒へと続いていく。…
 この図書没収は、警察が行ったが、ここにも図書の問題は警察だとする思想統制を行う側の発想が見られる。このことが、図書館に余分な自主規制の措置をとらせることになった
 第五は、アメリカ軍による図書の接収である。…
 図書不足の第六の原因は、図書館による「自主的」焚書である
 「[警察による図書]没収事件は、地方においては、敗戦のショック、占領軍進駐にとものう恐怖感、戦時中の思想統制に馴らされた心理状態など幾多の因子が加わって、没収する警察署側にも、没収される図書館、学校側にも、結果的には、しばしば、行きすぎと見られる行動となり、焚書の挙に出たところさえあった。…」
 占領下の焚書については第六章で述べる。

 三 アメリカ軍による図書資料の略奪
 (1)原爆被害調査資料
 (2)フーバー接収図書

 (3)宣伝用刊行物
 次章で詳しく紹介するように、占領軍は戦前または戦時中に刊行された軍国主義的な本を宣伝用刊行物と称して、その回収を命じた。対象となった点数は約七七〇〇点であった。これらの本は回収すると、パルプに再生されることになっていたが、アメリカに持ち去られたものもあった。
 今日、それはメリーランド大学に所蔵されている。

 (4) 検閲図書の収集―プランゲ・コレクション
 (5) 政府機関及び軍関係図書
 (6) 内務省保管発禁図書
 (7) 公文書
 (8) ソ連による図書の接収

 四 日本とアメリカによる図書略奪の相違

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2005.08.09

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(7)―『略奪した文化』を読む : 6

※8/10に書いています。

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 さてようやく、第6章である。冒頭から、わかりやすい類型が述べられている。

 戦時下での直接的な図書焼失には、…、略奪によるもの爆撃・戦闘によるもの焚書によるものがある。これまでわれわれは第一と第二の図書消滅について考察した。本章では、第三の形態を日本と中国について取り扱うことにする。

 第6章目次は以下。

 一 戦時下日本での焚書
 (1) 出版社の焚書
 (2) 学生及び教授の焚書
 (3) ナチスの焚書に対する抗議運動

 二 中国での焚書
 (1) 日本軍による焚書
 (2) 中国人による焚書
 (3) 占領下中国での焚書の特質

 三 占領下日本での焚書
 (1) 公文書の焼却
 (2) 軍国的図書の焼却
 (3) 図書没収命令に伴う焚書
  (イ)修身等教科書の回収命令
  (ロ)軍国主義的図書の没収命令
  (ハ)宣伝用刊行物の没収命令
   a 没収命令の経過
   b 複本のみ回収か一冊のみの場合も回収かの問題
   c 没収命令に対する図書館の過剰反応
   d 大学・専門学校での図書処分の例
  (二)「民主化」措置としての宣伝用刊行物没収

 四 日本での焚書拡大の背景

 本シリーズで直接関係するのは、三-(3)の(ハ)と(二)、四である。
 しかし、本章で述べられている、その背景となったそれまでの経過を見るだけでも堪えないものがある。ナチスで公けに二万冊が焚書されたということが日本での「焚書」の発端となっているが、戦時中・日米占領下での焚書はそれ以上にひどい。文字が書かれているものならばなんでも危険、という風潮を引き起こしてしまい、結果個人蔵の焚書にまでつながっているのだ。その結果が宣伝用刊行物の没収命令での「自主的」焚書である。
 本書で述べられているのは日本軍の非道な措置がその元々の背景となっている、という点からは「自虐史観」なのかもしれぬ。ぜひ、資料という名の反証を挙げて反論を聞きたいものである。その上で、宣伝用刊行物の意義でも論じ直していただきたい。
 自分は、本書にGHQが命じた以上の「焚書」行為、それもナチス以上の焚書行為を見た。ラス・カサスどころではない、文明に対する野蛮である。

 ところで、第七章は「略奪図書返還に向けて」とあり、焼失の憂き目を経なかった図書のその後を描いている。本シリーズでは採り上げない。

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2005.08.10

判決の著作者って?―船橋裁判口頭弁論と判決の保存年限

 えーと、表題前半部の内容が書きたいのではありません。後半部です。

 口頭弁論で、確か井沢元彦氏が、次のようなことを仰ってました。この発言は内容から言って弁護士さんということはないと思いますが、西尾幹二さんと勘違いしていたらごめんなさい。多少、バカにした記事を書くからです。

 「裁判官の方だって、自分が書いた判決が勝手に捨てられたら悔しい思いをするでしょう?」

 もちろん、保存年限を無視して捨てられたら問題でしょうね。その意味では、今回の船橋市西図書館での問題行為と似たように思われるかもしれません。
 でも、この発言、おかしいんです。表現の自由の正当性を訴えるための内容になってない。

 著作権法上の話で行けば。
 通常、職務上の著作ってのは、著作権はその組織に属するようになってるはずだし。
 判決ってのは著作権ないし(詳しい条文は著作権法の関係サイトに行ってください)。

 それとですね。自分がここで特に採り上げたいのはですね、裁判所ってのは別に裁判官の表現を保障する機関ではない。それどころか自分たちの記録を社会的財産として管理する態勢も整っていない、っていうエピソードなんですね。
 今回の発言がひっかかっていて、結果的に入手するところまでいった本があります。

 林屋礼二ほか編『図説 判決原本の遺産』信山社,1998.

 前置き。
 裁判所や知人の弁護士に聞いたところ、現在「判決原本」は保存年限は50年。各裁判所で保存されます

(※2006.12.16.追記。
 現在の判決原本の保存年限の正確なところは、裁判所規則等を調べてください。
 ここに書かれたことを鵜呑みにしないことをお勧めします。
 文脈は間違ってはいないのでそのままにしておきますが…。)

 しかし、判決そのものだけを見ても何にもわからないので、詳しいことを調べたい場合は第一審へ。なぜかというと、数百頁にわたる「訴訟記録」は結審した段階で、第一審に戻されるからです。ところが、判決原本に比較して、保存年限は相当短いものです。

 この、判決原本の50年という保存年限は、平成2年に最高裁が出してきた方針です(たぶん、きちんとした法令で定まってるんだと思いますが)。それまでは永久保存。平成6年から実施すると言ってきたんだそうです。
 上に掲げた本は、その方針を最高裁が出してきたときに、「明治初年から昭和一八年までの判決原本がすべて焼却されてしまうことになる」と各国立大学法学部の先生方が奔走した記録です。
 「これらの判決は、明治・大正・昭和という日本の近代化の過程の法・裁判制度、そして、日本社会の変遷の状況を物語る貴重な資料である」。

 井沢氏は、自らの著作が国立国会図書館に永久保存されることをご存知なんでしょうか?それと、公文書館が何を保存しているか、ご存知なんでしょうか?
 その上で、立法・行政の記録保管制度と比較して、日本の司法制度がいかに記録を大切にしていないか、ご存知の上で、あんな発言をしたんでしょうか?

 つくづく、表現とか、表現の自由とか、それらが保障されるってことがどういうことかよくわかっていない方の発言だなあと思ってしまいます。少し調べればわかることですよ。自分でも少しの間に調べたんだから。隣に座っている弁護士さんにでも聞いたらよかったのに。物書きって言っても、レベルが知れますね。

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2005.08.12

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(8)―『略奪した文化』を読む : 7

 松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店,1993.

 第6章に描かれたGHQ没収指定図書総目録の周辺を見てみよう。
 いかに複雑に要因が絡み合って「焚書」が図書館に至ったことがわかるだろう。

 ナチスによる焚書をきっかけとして起こった日本での焚書、中国での過去秦代以来の各王朝下と異なる日本占領下での焚書を描いたあと、GHQ占領下日本での焚書の項に入る。

 図書没収命令にともなう焚書の前に、既に混乱は始まっていた。
 「軍部や政府機関、県庁、市町村役場が敗戦と決まったその日から文書を焼きはじめたことが、国民に占領軍の恐ろしさを印象づけることになり、これがその後の図書の焼却を不必要に拡大する一因となった」(p.208)。
 修身等教科書の回収命令では、「教科書」のほか「参考書」という用語が拡大解釈された。「図書回収の任にあたる者がかつての特高警察あがりの者であったような県では、とくに被害は大きかった」(p.209)。
 「この教科書回収命令は二つの問題をひき起こした。第一は、この後に出される宣伝用刊行物の回収命令と同じく、学校現場から回収対象となっていない図書まで回収または破棄させたことである。第二は、この命令は次に述べる軍国主義的図書の没収命令と時期的に重なるところが大きく、このため、両者が一体となって一部で始まった焚書をいっそう拡大したことである」(p.211)。

 宣伝用刊行物の没収命令が「焚書」であったことは本書でも肯定している。
 ところがその没収命令の覚書第四項の経過、「占領軍の命令は当初から同じものであったにもかかわらず、日本側の命令は…改訳も含めて、四転した」(p.217)。さらに「日本政府がこの没収命令を…図書館にも適用した…。しかも、命令を受けた図書館側には、占領軍に対する「恐怖感」があった。図書館では没収命令の対象になっていない本まで処分した。このことは占領軍の予想外のことであった」(p.217)。
 「このような図書破棄=焚書の実態は、図書館関係者には広く知られていた。「これ[占領軍の図書処分の通達]によって学校や図書館では可成り大きく周章して殆ど大部分の蔵書を焼却その他廃棄したところが多かった」」(p.218)。
 「アメリカ軍はこのような状況をみて、「最高司令官指示により特に禁止されたものを除き如何なる書籍も何分の指示あるまで、日本の学校図書館より没収してはならない」という指令を軍政部に出した。また文部次官は、この指令を全国の官公私立大学長、高等専門学校長、県知事に伝えた。しかし、「焚書」は文部次官の一片の通知でやむようなものではなかった」(p.218)。

 最後に、第6章「四 日本での焚書拡大の背景」をそのままファイル化しておく。「hunsho.PDF」 きわめてよくまとめられている。

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2005.08.13

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(9)―プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと : 1

 福島鋳郎「プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと―福島鋳郎氏に聞く―」(上)(下)『教育情報パック』No.763(2005.5.15) p.7, No.764(2005.6.1) p.7.

 プランゲ文庫については、サーチエンジンでひけばいろいろ出てくる。ここではとりあえず、国会図書館の資料案内を。lこのコレクションは他の図書館でも入手しているようだし、国会図書館より詳しい資料紹介はあちこちで見られる。
 今回のインタビュー記事が出たのは、次のような機会を捉えて。

 5月5日のこどもの日にあわせて、国立国会図書館はアメリカのメリーランド大学が所有するプランゲ文庫の日本語図書(7万1000冊)の整備を今秋から始めると発表した。当面は3年計画で児童書の約8000冊に着手して、…(中略)…来春からは順次公開されるのである。

 福島 …新聞と雑誌のマイクロ化は何とか終わって国会図書館に収まっているのですが、7万冊を超える図書類には日本側の資金の手当てが付かなかったのです。プランゲ文庫の蔵書の6割以上が、国会図書館にはないものです。したがって、待ちに待たれていた事業です。…

 記事自体は、編集部と福島鋳郎氏とのやりとりで構成されている。
 福島氏は、「戦後の雑誌の収集と研究」をしてこられた方で、「1970年代からプランゲ文庫の重要性と存亡の危機を訴えて」きたという。研究の過程でコレクションの重要性を"発見"、世に訴えていく形になったということだそうだ。
 記事中、福島氏は自身をこう語っている。「戦後雑誌の発掘・蒐集に十年来必死になっていて、昭和20-25年あたりの空白を埋めることは不可能だと思っていました。そのとき、メリーランド大学にそれらの資料があることを知ったのですから驚きました。…(中略)…知れば知るほどこれは戦後の日本出版文化のために、いや、それ以上に日本の戦後史のために必要不可欠の一級資料だと必死になりました」。かくして、「一介のサラリーマン」は最後は「退職をして行くことになったのです」。
 「しかしこうしたことは私だけではなく、初期のプランゲ文庫に関わりを持った人たちにはかなり犠牲を背負わされた人が多かったのです」。と、ほかにも努力を重ねた人々を紹介している。

 さて、この記事を採り上げたのは次回引用する福島氏の発言からである。
 検閲という制度について、近代憲法、民主主義の発想からすれば意外なものであった。憲法学を学んだ自分も意外な観点を提示された気がした。

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2005.08.14

GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(10)―プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと : 2

 福島鋳郎「プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと―福島鋳郎氏に聞く―」(上)(下)『教育情報パック』No.763(2005.5.15) p.7, No.764(2005.6.1) p.7.

◇本誌前号に提供頂いた資料を読みますとアメリカ占領軍(GHQ)が行った検閲の姿がとてもよく理解できます。

福島 プランゲ文庫の本をただせば検閲(censorship)の残滓そのものですから、あの資料のように実施された実態がそっくり保存されてきたのです。
 ここでいくつかの問題点を指摘しておきたいのですが、先ずは、検閲を占領軍の"悪"の根だという説をとなえる人がいます。しかし戦争では、世界中どの国を見ても敵対して戦った一方が勝者となり、占領が始まれば、軍政がしかれ、言論・出版にチェックが入るのは当たり前のことです。アメリカの占領政策・検閲は、一方では政策をおしすすめる上で障害になる事項は検閲し、他方では国内のあらゆる旧制度を切り崩していくという二面制[ママ]を持っていました。その結果、日本は曲がりなりにも民主主義を理念とする近代国家に短期間で移行できたのです。まさに革命に匹敵する大変革でした。ここで実施された検閲でアメリカ軍の暴力は皆無であったことも特筆されるものでしょう。
 ところで、「発禁」とか「削除」処分は厳しくて辛かったと発言をした著者や編集者は沢山いましたが、占領が終了した後で元の原稿に戻した人は全くいないのも不可思議なことなのです。

 『略奪した文化』という本もまた、戦争による文化破壊を描くと同時に、資料に実際に触れている歴史学者の検閲に対する評価を示している。即ち、占領下戦勝国によって言論・出版にコントロールが入ることが歴史の常態であることを認識しているのである。
 それに比べると、これまでこだわってきた船橋裁判、上告人のGHQ没収指定図書総目録に対する歴史的評価は、一面的であると言える。平時の「表現の自由」と同列に論じるさまは、非歴史学的、とすら言える。何もGHQだけが特別なことをやっていたわけではないのである。

 自分はどちらかというと憲法学の観点から語りたい側である。しかし、「知る権利」をはじめとする"新しい人権"や、一般的自由の政府による積極的保障を「悪弊」と見るような、「リバタリアニズム」の観点にはきちんと応えねばならないと考えている。それは図書館制度についても同様であり、実のところそんなに簡単なことではない。
 そんな思考に、文化を破壊する戦争、個人の表現の自由を押し潰す国家、という歴史は非常に勉強になった。憲法を前提とする図書館を語る前の段階で、民主主義、という政治制度をひとつ離れた視点から見たとき、「表現の自由」はいかに"ある"ものなのか。「あるべきか」と言う前に、「いかにあるのか」。近代国家を前提しない段階での「文化的装置」がいかにあるのか
 戦時・占領下という大局的な議論と、今回の船橋事件とを同列に論じる発想にはどうにもついていけないところがある。もちろん、通底するところがあることは痛いほどわかっているけれども。自分の基底がどこにあるかを感じながらこそ、である。

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2005.08.15

「GHQ指定没収図書総目録」にこだわらざるをえない理由

 ところで、『GHQ指定没収図書総目録』になぜこだわるのか、まとめに入る前に自分の傍聴メモをきちんとあらためておく。

 「西尾幹二のインターネット日録」に口頭弁論の記録が掲載されているので、順に参照していってみる。
 下記西尾論文の前半部に、ほぼ同内容を収録しているからそちらで確認もできる。

 西尾幹二「知られざるGHQの「焚書」指令と現代の「焚書」」『正論』2005年9月号 p.48-58.

 口頭弁論は三点に分けて語っている。「日録」:最高裁口頭弁論(一)を参照。
 一点め。これは、わかりやすい。肯けるものがある。

 日本国民の一人として、日本国の公立の図書館から、理由説明もなく一括して廃棄された本のうちに、自著が含まれたことに、私は屈辱と怒りを覚えました。私の過去の全著作活動が公的機関から、理由もなく「差別」されたという感覚、私の人権が一方的に侵されたという強い認識をもったことをまず第一に告知しておかなくてはなりません。

 二点め。「集団の罪」Kollektivschuldの概念を紹介している。これは自分は、一種「差別-逆差別」の論理の中に同様のものを見ていたので、この恐怖感なり判断基準の問題点は理解できる。ここまでは判決の論理として採用したと考えても常識的であろう。

 …本件のような被害者の立場からいえば、「集団の罪」を被せられるのは恐ろしいことで、私の本は私がなにかに属しているかいないかで判断されるべきではありません。

 しかし記事中、この第二点に続く次の記述が、図書館員たる自分にとっては問題であった。太字は引用者による。

 当件にナチスまで持ち出しては大袈裟に思われるかもしれませんが、決してそうではありません。体制の犯罪、自由の扼殺(やくさつ)は小さな芽から始まるのです。
 図書館員の特定の思想をもったグループが団結して、しめし合わせて、歴史を消し去るということもあながちあり得ないことではないと思わせたのが本件であります。
 さて、そこで焚書とは何か、歴史の抹殺とは何か、という三点目のテーマに移ります。

 口頭弁論における自分のノートは、西尾氏が主張した三つの論点を連続してメモしてある。しかし、太字の部分はメモがない。その時点では違和感を感じながらも、どんな展開になるのか聴いていたのだと思う。彼の次の「焚書」の話とどうつながるかわかるわけがない。
 以下は自分のノートだが、第二点の終わりは次のようなメモになっていて、三点めにつながっている。

 …「集団の罪」は被害者-加害者の立場を転ずると視点が逆転するので単純ではない(詭弁になりうる)。しかし、被害者の立場を忘れてほしくはない。
 3.焚書とは何か。=歴史の抹殺である。ミラン・クンデラ「国民の記憶を失わせ、新しい文化を作ってしまえばいい」。
 […ラス・カサスのパンフレット、スペインの自虐史観による近代化の失敗…]
 S.21 GHQ…総目録 図書館における焚書の目録。よく知られていない。
 [数行の空白。「ほおお」なんてアホ面して聞いていたんだろう。]
 司書に、明確な犯意。
 「図書館員は危険だ。」

 ここで自分の西尾弁論のメモは終わっている(ノートは井沢弁論のメモに続く)。
 実は、この最後の部分のメモを取りながら、一緒に傍聴に行った知人と、「うわ、すごいことを言っている…」と顔を見合わせたのだ。双方から。おそらく正確には、上のカギでくくったような表現ではなかったのに違いない。しかし、かなりショックだったことは間違いない。その後も西尾氏の弁論は続いていたが、メモするよりも傾聴することを選んだことを記憶している。
 その結果、この第三点めの論理への違和感は増大することになった(そして、実際に『GHQ没収指定図書総目録』にあたるなどの調査行動に出たわけである)。
 西尾幹二氏の第三点めの論理は、次のようなものと捉えている。

○焚書=歴史の抹殺。
→日本でもGHQの指示で図書館が行った。かつて存在した図書の消滅。
→ところで現代でも、図書館の蔵書に対して、図書館員が「歴史の抹殺」を行うことは可能である。
→船橋西図書館の件では図書館(員)に一罰百戒を与えていただきたい。

 「西尾幹二のインターネット日録」管理人の「年長の長谷川」さまから、次のようなコメントをいただいているが、

>>神奈川県立図書館の戦時文庫のように、守る側に回った例もある。
>>船橋西の例をひき、「GHQの焚書」の歴史を引いたからといって、
>>「図書館員は危険だ!」という話にはならない。
>
>西尾先生は上記のような主張をなさってはいません。

 しかし、西尾氏は上掲論文の中で次のように書いている(p.52-53.)。

 連合国軍総司令部(GHQ)の焚書は、船橋西図書館の一件と質的にも、原理的にも関係がないと思う向きがあるかもしれないが、決してそうではない。土橋事件は全国の図書館で一斉に特定の書物が市民の目に触れぬように隠され、消されるという意図的な可能性につながる問題だと私は見ている。ある政治集団が陰で糸を引いて、例えば北朝鮮の秘密に関わる書物をいっさい除籍してしまう。あるいはこれとは逆の立場から、アカハタ関係の出版物を廃棄してもよいという思想をも引き起こしかねない。
 日本の軍事の歴史の本が現に国会図書館などからこっそり除去されている、もしくは数ページ切り取られているというケースを、私自身が実見している。私は「はぐらかし」を題に掲げたあの評論で、あえて次のように書いた。
 「被告の土橋氏の給与をかりに約五十万円とすると、十分の一の六カ月減俸の処分は、金額にして約三十万円である。彼女は確信犯である。公立図書館司書にはこの手の思想確信犯が少なくないと私は見ている。金額にしてこの程度の犠牲なら、簡単なので、一斉に図書館職員が全国規模で『歴史の抹殺』をやる可能性は十分にあるのである。
 一罰百戒、ここで今後の暴走を食い止めることが絶対に必要なのではないか。上訴審の良心と知性に訴える」

 図書館員を危険視していることは明白だろう。むしろ、図書館員を集団として見て、「集団の罪」を着せようとしているようにも見えるが。
 自分が「おかしい」と思って上記文中のカギ括弧内、「船橋西図書館焚書事件一審判決と『はぐらかし』の病理」を読んだのは口頭弁論のあとだったが、口頭弁論でもおそらく同等の内容を、明確に表明したかどうかは別として、第三点めの論理の内に意図はしていたはずである。かの文献を最高裁に証拠として提出したそうなのだから(上掲論文p.49.)。

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2005.08.16

「GHQ指定没収図書総目録」と図書館、まとめ

 さて、船橋裁判の上告人による口頭弁論に対する疑問、違和感の背景を示す文献を紹介してきた。
 ここでまとめておく。既に8/3付記事に意図と論点二つを掲げてある。

 本書を紹介する目的は、最高裁での上告人西尾幹二氏の口頭弁論において、自らの利益主張をする際に『GHQ指定没収図書総目録』を提示したことがいかにズレた歴史感覚から来ているか、を明らかにするためである。読み込んでいくと、二重にミスがあることがわかる。
 一つは、「図書館」における焚書問題として採り上げる素材として不適切であったこと。自分は個人的にはこれを特に重視している。一つは、「表現の自由」という規範問題として採り上げる素材としても、当時の一般的背景からして不適切であるということ(占領下であるということの評価)。

 なお、本記事の前提として、関連する記事を列挙しておく。必要があれば参照されたい。
 記事だけでなく、コメント欄で興味深い指摘をいただいたことは筆者にとってありがたいものであった。感謝の意を表したい。

西尾幹二のインターネット日録:最高裁口頭弁論(二)
図書館員の愛弟子:船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問(2)

1. まず、GHQの没収指令には図書館が含まれていない。にもかかわらず図書館で焚書がなぜ行われたか。命令系統の混乱が直接の原因。しかしそもそも戦前から図書館においては公権力による検閲・没収・切り取りは日常茶飯であり、それらに対する恐怖感は戦後だけが特別ではなかった。戦中より既に個人の蔵書の焚書が行われる風潮が蔓延していた。また、GHQ占領直前から公的機関は先んじて文書を焼却している。GHQによる焚書は図書館だけが特別ではないのであり、図書館だけに論及される謂われはない。

2. 図書館員は占領下の大陸において、文化の略奪者としても一翼を担った。一方、図書館の自由といった近代的な観念はなく、戦後直後は権力に抗する考え方は一般的ではなかった。図書館においても表現の自由が当たり前になった現代と同じ視点で議論することはできない。図書館における権力的な契機は当時と同じわけがない。

3. 歴史研究者からすると、占領下で戦勝国による言論・出版の統制が行われるのが通常である。そのことの善し悪しを単純に決めることはできない。日本による「中国の文化破壊」とGHQによる「日本の文化統制」を同列に論ずることですら非実証的であるし(あえて異なる表現を用いる)、GHQによる文化統制だけを採り上げ、かつ現代の視点でのみ評価するのは非歴史学的である。

 以上が、『GHQ指定没収図書総目録』にこだわった成果である。
 結果的に他で焚書されたと同様に図書館でも焚書されたというだけで、焚書は図書館にのみ連なっているわけではない。また、民主主義、表現の自由という日本国憲法下の規範の問題とするには、GHQ占領下という時代は特殊で情勢は明らかに異なっている。
 ちなみに、ドイツにおいても近年、ナチス政権下「白バラ」という青年運動によって処刑された人々の名誉回復が唱えられたことがあったが、法は遡及効をもたないのが常識である。ドイツ語の教師に対して、法学部の一年生でもわかることであった。

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2005.08.17

「GHQ没収指定図書総目録」復刻運動の末路(1)

 この記事、皮肉まじりの気分で書かないではいられない。もちろん自分の勘違いもあるかもしれない、その折はご指摘いただき、謝罪もしたいという謙虚な気持ちもあるが…。

 西尾幹二「知られざるGHQの「焚書」指令と現代の「焚書」」『正論』2005年9月号 p.48-58.

 先日の記事にも紹介した西尾論文。後半は、西尾氏がかの『GHQ没収指定図書総目録』収録図書を収集し、電子的に復刻したい、という話題だった。
 「西尾幹二のインターネット日録」管理人の「年上の長谷川」氏からいただいたコメントの中でもこの活動を紹介され、意見を求められている。

>  さて、それはともかくとして、GHQによる「焚書」事件に対して、
> 現在それらの失われた文献を収集することから西尾先生は始めよう
> となさっています。
>  図書館に対しては除外されたその「命令」にもかかわらず、4000
> 冊の書物が一般家庭からも図書館からも、ほとんど失われているの
> が現状です。
>  これらの本をどうやったら、もう一度一般の我々が目にすること
> ができるでしょうか?
>  ・・・・現在古本屋でそれらを高値で購入することしか手段はあ
> りません。
>  お考えをお聞かせ願えませんか?

 コメントを読んだときは、自分も図書館員、失われた図書の収集とはすばらしい。西尾氏に批判的なサイトに対してこんな前向きな話をふってくるとは懐が深い、という印象を受けた。
 だからこそ、同様に喪われた文化を追い続けた文献学・歴史学者福島鋳郎氏のコメントを、異論として、紹介したのでもある。
 また古書収集には、自分は素人ながらシャーロック・ホームズ関係の縁で、一種独特の世界があることも知ってはいる。だから、図書館のことしか考えていない「図書といえば新刊書と図書館にある資料のことしか考えられない図書館員」に比べれば、図書館の外に広がる広大なる文献世界、その中から一定の視点をもって収集を根気よく続けていくことの労力や業のようなものを、知らないわけではない。私事ながら、古書収集癖のある方に対しては、その主題が何であれ、自分はその情熱に敬意を表さないではいられない。

 そしてその上で西尾氏には、批判も覚えないではいられなかった。
 「GHQ没収指定図書だけに情熱を燃やすというのは、大陸で喪った図書も参照してこそ歴史がわかるというもの。(理念的ではあっても)普遍的な文献世界に正対する図書館員としては、西尾氏の姿勢は歴史に対して"偏向している"と言わざるをえまい」。これが、「年上の長谷川」さまへの自分の回答である。
 それともう一つ。古書収集そのものは、どこまでいっても個人的なもの、"趣味"である。「西尾先生のそれは学問といえるのかもしれない」が、学問も趣味も究極的には勝手にやってること。偉くもなんともない。
 ほかの古書収集家と比べてみればわかることだが、図書館に保存されていない資料や手許にどうしても置いておきたい資料を、自分の必要で集めてくるのは当たり前である。『GHQ没収指定図書総目録』収録の図書だけを偉そうに語るほどのこともない。情熱に敬意は覚えるが、優劣はない。

 少々脱線するが、図書館、特に国会図書館のような調査研究図書館をよく誤解していると思うのは、「図書館(群)はあらゆる図書を収蔵している、収蔵すべきである、把握可能である」という勘違いである。図書館の蔵書構成方針が自分の研究対象から外れている場合、刊行されているにもかかわらず図書館に収蔵されていないことはよくある話であり、そうなれば自分で集めてくるのは当然のことだ。
 「図書館本」ですら、そう。書物蔵さんのブログをよく読んでね。
 本口頭弁論及び判決においても、個人蔵と図書館の本との役割の違いを勘違いしているのではないかという節もある。

 しかし、前向きに話をもってきてくださるのだな、という印象は今でも変わっていない。変わっていないのだが…。

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2005.08.18

「GHQ没収指定図書総目録」復刻運動の末路(2)

※8/17に書いています。

 結論から言おう。
 「GHQ没収指定図書総目録」収録図書は、国会図書館やほかの大学図書館で所蔵しているものと思われる。
 かの目録に接する機会が最近またあって、念のため、そのリストの内ごく限られた三点ほどをNDL-OPACとWebcatで検索してみた。短時間だったので旧仮名遣いなどうまく入力できなかったものがあったようだが、ほとんどがヒットした。自宅にて改めて、『正論』9月号掲載の書名15件をも照合しながら検索してみる。すべてがヒット。
 かの目録収録の図書群は、この世からまったく喪われてはいないのである。

 苦笑いしないではいられなかったのは、Webcat-Plusで所蔵館が61件とか、38件とか表示されたことである。
 よかったではありませんか(冷笑)。
 一般の公共図書館に昭和前期の資料が大量に収蔵されていることは書庫狭隘のため通例ありえませんが、このような歴史的な資料が調査研究図書館といえるところできちんと所蔵しているということは、他の資料とまったく同様の状態です。
 この話、口頭弁論の経緯から知り合いの図書館員に説明しましたら、誰もが呆れていましたよ。

 ダメ押しではっきり言おう。西尾幹二氏の口頭弁論の第三点は、虚偽である。論理が破綻している。
 学問をかじった者として、レベルの低い自分よりも西尾氏を劣位に見ないわけにいかない。
 学問の方法論一般から言っても文献探索を行うのはイロハのイだし、歴史学を学ぶ者であればなおのこと、史料が論理構築の肝ではないか。図書館を使うことさえ充分にやっていない。学問のリテラシーを大学に入り直して大学一年生からもう一度やり直した方がよろしい。
 それらの手続をないがしろにして、論拠をきちんとあらためずに論文を書いたりする、それどころか口頭弁論でまで虚偽を訴えているのは、本当に二流の評論家風情である。歴史学者どころではない、学者といえるのか?それとも、周辺のスタッフの質が低いのだろうか?
 最低限、『正論』には訂正文を掲載するべきだろう。誤解を受けかねない情報を流した読者への過失責任はある。

 敵に塩を送るようなマネをするようだが、やはりフェアプレイの精神はこちらももちたい。ひとつご注意しておく。ご存知であればお節介、ご容赦を。
 電子図書館化を考える際は、著作権処理が大変になる。図書館界では常識で、明治期ですら文化庁には苦しめられてきた。殊に昭和前期の図書の電子化については、著作権処理は相当に困難なはずである。それを考慮に入れての電子化構想なのか、それともそれこそただの二流評論家の夢想を適当に文章にしただけなのか。

 図書館のしくみや表現の自由、歴史の問題が、今回の問題には絡んでいる。どれだけそれらへの理解をおもちの上での発言、行動なのか。
 今後の対応を楽しみに待ちたい。

 以上、上告人の口頭弁論及び「GHQ没収指定図書総目録」関係記事はこれで終わりとします。
 ああ長かった。はよ判決へのイライラを爆発させたい〜。

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2005.08.19

当ブログ内船橋市西図書館裁判関連記事 20050819現在

※8/17に書いています。

 各記事単位だと文脈がわかりにくくなってしまい、誤解も生じると思いますので、当ブログ内関連記事のリンク集を作ってみました。
 なお、下記日付はブログ上の日付で、実際にエントリした日付が違う記事が多々あります。その場合はその旨本文中に書いてあります。
 たいてい、記事を順に見ていくと前後関係がつながって読めるようになっていますので、左サイドバーのバックナンバーもご利用ください。

【当ブログ内船橋市西図書館裁判関連記事 20050819現在】

○口頭弁論傍聴まで。
2005.05.23 船橋蔵書廃棄事件裁判。傍聴に行こうかな、どうしよっかなと
2005.05.28 最高裁の判断は、日本の図書館史に残るのではないか?
2005.06.02 船橋焚書事件、傍聴報告。
2005.06.03 船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (1)
2005.06.04 船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (2)

○判決傍聴まで。
2005.07.15 船橋市西図書館蔵書廃棄事件・最高裁判決傍聴記
2005.07.20 船橋西図書館判決:最高裁にHP掲載判決を聞いてみた

○判決を語る前の枠組みとリンク集。
2005.07.22 船橋判決関連リンク(0)
2005.07.25 船橋判決の話としては、まず…(1)
2005.07.26 船橋判決の話としては、まず…(2)
2005.07.27 船橋判決関連リンク(1)
2005.07.28 船橋判決関連リンク(2)
2005.07.29 船橋判決関連リンク(3)
2005.07.30 船橋判決についての語りかた、見取図。
2005.07.31 船橋判決の違和感の所在、第一印象として

○口頭弁論、西尾氏の検討。
2005.08.02 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(1)―『図書館ハンドブック 第6版』
2005.08.03 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(2)―『略奪した文化』を読む : 1
2005.08.04 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(3)―『略奪した文化』を読む : 2
2005.08.05 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(4)―『略奪した文化』を読む : 3
2005.08.06 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(5)―『略奪した文化』を読む : 4
2005.08.08 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(6)―『略奪した文化』を読む : 5
2005.08.09 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(7)―『略奪した文化』を読む : 6

○口頭弁論、井沢氏の検討。被上告人側への対応。
2005.08.10 判決の著作者って?―船橋裁判口頭弁論と判決の保存年限
2005.08.11 私も"電突"してみました。

○口頭弁論、西尾氏の検討。続。
2005.08.12 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(8)―『略奪した文化』を読む : 7
2005.08.13 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(9)―プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと : 1
2005.08.14 GHQ没収指定図書総目録関連文献紹介(10)―プランゲ文庫とそれを護り継いできた人びと : 2

○口頭弁論、西尾氏の検討。まとめ。
2005.08.15 「GHQ指定没収図書総目録」にこだわらざるをえない理由
2005.08.16 「GHQ指定没収図書総目録」と図書館、まとめ
2005.08.17 「GHQ没収指定図書総目録」復刻運動の末路(1)
2005.08.18 「GHQ没収指定図書総目録」復刻運動の末路(2)

 なお、この船橋裁判に関連する記事は続く予定でおります。
 だって、まだ被上告人にはちらと触れたものの、上告人の口頭弁論分しか終わってないんですから…。判決自体についての議論、書きたいと思っています。

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2005.08.21

夏も盛りを過ぎて…過ぎたのかな?

 このひと月が大変だったことは言うまでもない。家族が事故で怪我を負ってしまったからだ。
 なんだか疲れましたよ。
 この記事、8/24に書いているが、8/21の晩の時制で書きます。

 共働きの子育て、元々土日出勤があるために休日が合わず、何かと大変なんである。単に一緒に家事ができないなんてもんじゃない。
 不規則な休日に、へたに無理をするとかえって体調を崩して、翌週からの出勤に影響が出る。
 場合によっては土曜保育や育児ボランティアさんに預けるなどして、子どもに負担をかけることになったり…。
 そもそもが週末も生活は保育園のサイクルに準ずるようにしているから、自由ではない。

 7/21付記事で触れている実家への帰省は、年に数えるほどしかない「一家揃っての帰省」だった。事前の日程調整にずいぶん苦労した。
 昨年からの家族の要望で、クラゲが出る前に3回は海に行きたい。結局2回行った。
 花火も見に行ったな。

 ほかにも家族サービスはしていると思うが、そうこうしているうちに7月後半に怪我をしてしまった。
 この一ヶ月、何かと大変だった。自分の性格では、気疲れした方が大きかったかもしれない(苦笑)。
 それでも、日常的に生ずる実質的な不自由のフォローを何やかやとやり、手配もした。
 通勤がうまくいくか不安だったので一緒に経路をゆっくりと確認しに出かけ、ついでにランチと「スター・ウォーズ エピソードIII シスの復讐」を観てきた。これくらい許してよね。
 そうして、一ヶ月。ようやく家庭生活が元に戻り、仕事にも普通に復帰しつつある。

 この週末、親戚が小学生の甥を連れて陣中見舞いにやってきた。
 土曜に鎌倉大仏と長谷観音に行ってきた。わが子の昼寝前の運動(散歩)がてら、と言いつつ甥っ子とみんなで出かけることになった。朝早く出た割には、子どもの移動に時間がかかり、時々刻々、暑くなること。自分はかなり消耗した。帰ってからみんなで昼寝、うつらうつら。
 夜、親戚がいるときを見計らって眠った子どもを預け、子ども抜きで軽く飲みに出かける。わが町にはもったいなくも珍しく、日本酒の古酒を売りにしている店があり、飲みに行くときは常だ。実に旨く、楽しかった。
 ところが、今朝。久しぶりで飲み疲れたらしい。トシか…。親戚に子どもの世話を頼んで横になっていた。
 そういえば、飲んだ後帰宅してから昨夜半、日中中途半端に観た『ネバーランド』DVDの後半を観たんだった。このDVDは買ってきたばかり。親戚はジョニー・デップのファンになってしまっていたから、観直しは楽しんでくれた。自分でも発見が多かった。眠かったけれど。

 台風が近づいて前線が活動するようになり、雨も降ってきている。
 振り返れば単に暑いだけではない、大変な夏だった。でも、自分はまだ切り替えができていない感じ。
 そうは言っても休んだ分、仕事がたまっている…。

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2005.08.22

「GHQ没収指定図書総目録」の後日譚(1)

 船橋裁判については自分は、まだ口頭弁論分、上告人にひっかかったところと問題司書への対応についてしか書いていない。つまり、判決に関する感想や立場を充分に表明していないので、軽々しく口を挟むべきではないのかもしれない。
 しかし、既に西尾氏は『正論』2005年9月号で論文を公けに問うている。一方自分もこれに対応する記事を縷々書いてきてもいて、最終的に「「GHQ没収指定図書総目録」復刻運動の末路」にオチた。
 けっこうがんばって書いてきた上に先方は既に行動がある。反応を問うてみたかった。
 結果として幸せな反応が聞けた。その真摯な思考との出会いに感謝したい。紹介する。

 サーチエンジンで「正論 西尾 GHQ」で検索、『正論』西尾論文に触れた記事を探した。
 一つはブログ、一つは掲示板がヒットした。いずれも、西尾論文に好感触を得ているものである。
 当ブログの「…末路(2)」と「…関連記事 20050819」をTB、もしくはリンクを残してきた。
 幸いにも真摯な反応をいただけたのは、以下の掲示板の方である。

 新・正気煥発掲示板´: 『正論』を読んで、思うこと。焚書。(スレ主・「アル中流・乱暴」さん)

 自分の総目録関連記事の分量が多かったために詳細にはお読みいただけなかったことは当然としても、8/15付以降の4記事を読んでいただいただけで、それも短時間にあれだけのレスを返していただいたとは、とても驚いた。

 この交流から、当方が得られたことは二つ。

 一点めは、レスのうち大きい二つめの段落。「…考えられる唯一の可能性は、(ことによるとその意図を誤解したのかもしれないが)故意の指令違反である」の一文から始まるところからの思索には、なるほどと思った。
 奈辺、当ブログでは『略奪した文化』に準じた発想しかしていないが(本書では繰り返し、参照文献の提示もあるのだけれども)、この方の言うようなこともありうる話ではある。極論すれば、焚書したのは平和主義者/反軍国主義者、資料を護ったのは忠勇たる皇民、という図式的理解。その上でGHQ以降の近代日本の図書館の発展にまで思索を馳せているのは驚かされた。ぜひ、私のブログの過去の関連記事も読んでいただき、ご意見ご批判を賜りたいと思った。

 第二点め。
 かの掲示板での情報交換が「例の裁判、判決に直接関わるほどのものではない」ことを前提していても、次の段落に以下の記述が表れたことは正直嬉しかった。

いずれにせよ、これは、図書館問題に「発展する」手前で、教育委員会がどのように振る舞ったかを、実証的に明らかにする必要のある問題であろう。それを経ずして図書館が内包する危険に論及するのは、適切な論法とは言い難い。

 細かいツッコミを入れるのは野暮だが、各都道府県設置の「教育委員会」という名の"教育の地方分権"はGHQ以降の戦後政策だったかと思う。
 しかしスレ主さまの論旨は了解できる。図書館の上位の機関の動静を見ずして「焚書」と図書館をそのままつなげる論理には賛成できない、とおっしゃっていると理解している。
 実際、判決への影響について端的に述べることは困難にしても、西尾口頭弁論にこだわり、自分でも言いたかったことは、"この背景を無視した論理的飛躍"である。

 要するに、GHQの焚書は図書館の焚書とどう関係付けられるのか、と。そもそもGHQ占領下の焚書は図書館固有の問題と即断できないでしょ、という。
 自分の論法はつい、「図書館の"焚書"」側からGHQ側に話をもっていって飛躍を明らかにしようとしたために、逆にややこしくなってしまったきらいがあるが(自分の当初の直感はこちら)、「アル中流・乱暴」さまの論理の方が言いたいことがすっきり伝わる。

 この論理的飛躍について、判決との関連付けをどう見るかは別にして、誤りであることは間違いがない。口頭弁論の第三点としては。とりわけ、『正論』2005年9月号西尾論文での論旨は完全に崩壊する
 西尾氏は故意か過失か犯した大きな誤りを、世の中に流布させたままにしているのである。『正論』という雑誌もレベルが知れるね。

 最後に、「アル中流・乱暴」さまへ。
 自分のブログにおける西尾氏に対する感想なり表現の枝葉末節にこだわらずに、本筋でまっとうな反応をいただいたことは本当に感謝いたします。
 「アル中流・乱暴」さまの元発言は実は、西尾論文についてのコメントよりもそのあとの方がおもしろうございました。「キリスト教による焚書」の指摘、「占領下の焚書」に対する達観、政府=図書館の役割についての発想。その上で、私に対するレスの最後、「図書館は重要であるが、その能力に限界があり、個人蔵書と古書市場が情報文化にとって重要な役割を演じていることも忘れることはできない」とのコメント。
 私はこう思っています。
 図書館という制度は、規範的な世界で議論される以前に(「かくあるべし」とか「役割」とか)、歴史的に物理的に残された蔵書であるという、事実としての前提を無視できないこと。そして、「文献世界の構造」は図書館だけではなく、その外に個人蔵書や古書市場といったさまざまな形で広がりをもっている。
 そこまで含めて、おそらくは「アル中流・乱暴」さまと共感できているということが、とても嬉しく思われました。勘違いありましたらお詫びいたします。
 ともあれ、掲示板に書き込んでよかったと思いました。重ねて、感謝いたします。

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2005.08.23

「GHQ没収指定図書総目録」の後日譚(2)―『正論』2005年9月号西尾幹二論文のウソ

 えー、副題をあえて付けたのは意味はありますが、深い意味はありません。
 標題を、検索エンジン等でひっかかりやすく、目立ちやすくしたかったからです。
 副題に対応する内容自体は、既に8/16付記事及び8/18付記事に書いてありますので、初見の方はご参照ください(できればその前後も)。

 しかし、本記事がダミーかというとそうではありません。「後日譚」、8/16及び8/18の補足記事です。いわばダメ押し。
 西尾幹二のインターネット日録:最高裁口頭弁論(四)に、「GHQ没収指定図書総目録」から例示的に15点、書誌事項が挙げられています。これを、すべて検索してみました。例によって、NDL-OPACとWebcatPlusにて。
 一件NDLでヒットせず、数件がWebcatでヒットしませんでしたが、いずれかで必ず、すべての所蔵が確認できました
 再度確認されたこの事実から、やはり口頭弁論及び『正論』掲載論文で述べられた、「「GHQ没収指定図書総目録」によって図書館で焚書が行われた」という言明、もしくは「「GHQ没収指定図書総目録」の例から図書館での焚書を危険視する」という論理にはウソがある、と言うことができます。
 GHQ総目録によって占領下の日本のあちこちで焚書が行われたことはもちろん事実であり、図書館において"も"焚書は行われたにしても(おそらく中心は学校図書館、それから公立図書館)、図書館によりけり。しかし、「当時ほとんどすべての図書館で無批判に焚書が行われた」「そしてそれゆえに現在も一定の勢力によって焚書が行われうる」というような、「図書館に誤解を生む論調」には強い反発、批判を繰り返し唱えたいと思います。
 図書館を知る者としては、部分的には同意もできるのですが、論証や論理の組み立てがまるでなってない。よく図書館という制度、その社会的な位置を知った上での主張なら納得もするけれど、表現者の側からだけの主張では、バランスが悪くなって当然です。ほとんど図書館員陰謀説じゃないですか。

 検索の手順を書いておきます。
 まずは、書名で検索するのですが、ヒットしないことがあります。理由は二つほどあります。一覧に挙げられた書名が細かいところで不一致な場合がけっこうありました。それから、書誌階層において書名として採用されておらず、詳細表示で見て初めて各巻書名で見つけることができる場合があります。
 しかたがないので、次に、著者名で検索。これで刊行年順に並べると、だいたいアタリが付けられます。
 必要があれば、所蔵館を確認、記録しておくべきでしょう。利用態勢が異なっているはずだからです。

 2chで船橋市の問題司書の著作を全国主要図書館のOPACで検索調査している動きがありますが、同様、西尾幹二先生の電子化プロジェクトに協力してさしあげてもよろしいのではないでしょうか。かの「総目録」収録の資料は7,700件もあると言われているのですから、はっきり言って大変です。ネット上の多くのボランティアによれば、間違いなく大きな力になるでしょう。
 まあ、以上はへたな皮肉です。8/11付記事で書いているように、自分は問題司書を支持する者ではないことも、ご承知おきを。しかしこの記事は、建設的な提案だと思いますけどね、西尾幹二先生の仲間の中でこうした具体的なプランを提示できる方はいらっしゃらないのですか???
 そもそも、「「GHQ没収指定図書総目録」記載図書が図書館から消えている!」という主張自体、どこから来ているのかわからない、論拠を示さない非学術的なやり方ですし、目録自体が入手できていて、全国書誌や総合目録がWebで簡単に検索できる時代になっているのに、確認もしない。非常に不思議です。
 西尾氏や賛同するサイトでずいぶん口汚い表現を見てきました。それと同様に西尾幹二「先生」に対して、2ch的に、いろいろとまあ、愚弄することばが頭に浮かんできます。自分は、これまでの記事で何度か口にしましたが「レベル低いですね」くらいにしておきましょうか(笑)。口汚く罵りあっても生産的ではありませんし、自分がこのような記事を書いているのはまさに共同的な、前向きな解に向かうための素材を提供したいからです。

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2005.08.24

「GHQ没収指定図書総目録」の後日譚(3)

 今回は本当に只の補足記事です。2件。アクセス解析でリンク元となっていた検索結果から、見つけたネット上の文書を紹介します。

1.根本彰「占領期図書館政策研究の意義と方法」

 松本剛『略奪した文化』がヒットするような検索結果一覧の中で発見。
 元サイトから辿ると、「図書館情報学根本研究室」-「占領期図書館史プロジェクト」-「占領期図書館研究の課題( 占領期図書館研究第1集(1999年3月刊行)の報告書全文)」-第I部 根本彰「占領期図書館政策研究の意義と方法」。
 本論文中、「4.今後の研究課題-4.1.占領期図書館政策研究の課題」の(1)(2)に、『略奪した文化』の位置づけが述べられている。以下のような、「すぐれた先行研究」との評価。
 関心のある向きは、更なる研究対象としてみてはいかがか。だって、せっかくCIE文書の目録化を根本研究室がやってくれたんだし。自分としては、そんな研究、ぜひ見てみたい。占領軍の一次資料にまであたるとなれば相当レベルが高い…と評価されないだろうか。

この方面では、松本剛『略奪した文化』がすぐれた先行研究となっている。より進んだ研究は占領軍関係の一次資料がないとできないが、CIE文書(第II部参照)にはその関係の資料がいくつか見られる。

 なお、次のような一文があり、これを見ても西尾幹二氏の口頭弁論第三点めの主張(『正論』西尾論文)の論理が"あやしい"ことが窺われる。この論理的飛躍については、後日譚(1)の「アル中毒・乱暴」さまもほぼ同様の指摘をしているからだ。
 判決にこの口頭弁論第三点を考慮の域に入れたとすれば、「歴史的に立証されていない事実(GHQ->図書館での焚書)を元に判断した」ということになると言える。

指令そのものについてはすでに明らかにされている。今後は図書館担当官がこの指令とどのような関係にあったのかを解明する必要がある。さらに、日本の行政機関でどのように扱われたのか、また図書館ではどうだったのかといった日本側の資料収集による事例の収集が必要であろう。

2.中井正一「「焚書時代」の出現」

 「焚書 図書館」で青空文庫よりヒット。「初出:「社会新聞」1948(昭和23)年11月10日」。
 国会図書館初代副館長として有名な、中井の声。ここで採り上げたのは、それだけの理由。

 この文章にこのタイトル、なんとも言えないですなあ…先に自分もこんな記事書いていて、状況が変わっているとも思えない反面、中井が前段で書いていること―図書館によって少しは国を変えていきたい、という気勢のようなものは、まあわかってあげたいかな。だけどね、なんかギャップも感じてしまいますねー。

 国立国会図書館は、かかる幾つかの夢としてここに現われ出でた。これは、日本の民主化の一つの表徴であり、現議員の果たした栄誉のバッジですらある。往古、アレクサンダーがその遠征の記念としてアレクサンドリア図書館ができたように、今、ここに戦いが文化建設の機縁となったということもできよう。
 ともあれ、この日本民族の危機にあたり、この図書館がその型態を正しく整えることの急務は、正に切実をきわめている。

 この解説として、以下の文献。
 後藤嘉宏「中井正一の出版論―図書館論との対比において」
 「4.中井の二重性,あるいはメディウムとミッテル」の後半に本文献の文脈が出てくる。戦後の古書価格の低落から良書が紙として溶かされていく情勢を「現代の焚書」と呼んだらしい。図書館じゃ「焚書」ってことばも使いようだなあという気がする。
 この文書、おそらく後藤嘉宏『中井正一のメディア論』学文社,2005.にも収録されているんでしょう。自分も買ったけど、高かった…。あ、もちろん積ん読中。ネットのどこで読んだんだったか、評価はあんまりよろしくなかった。「天下の奇書」になるか?とかなんとか…後藤先生、ごめんなさい。

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2005.08.25

安井一徳『公共図書館における図書選択の理論的検討』を読む(1)

※8/15より書きかけ、8/26アップ。

 船橋判決を、選書(図書選択)の問題として、図書館学的に考えるために興味深い論考を紹介したい。

安井一徳『公共図書館における図書選択の理論的検討』東京大学教育学部総合教育科学科(教育行政学コース)2004年度卒業論文

 目次と要旨はこちら。同ページより「全文のダウンロード(PDFファイル)」も可能。ちなみに、東京大学の「図書館情報学根本研究室」内。
 全文のうち、まず第1章冒頭「1.1 この論題を選んだ理由、目的」がすぐれた視点を含むと思うので全節を引用、紹介させていただく。

 図書選択という問題に関心を持ったきっかけは、3年次のゼミ発表である。そのときの発表テーマは「船橋西図書館蔵書廃棄事件」で、「図書館の自由」、「良書主義」、「蔵書の中立性」といった論点が問題となる事例であった。それらについて考えるうちに、「図書選択」という観点からこういった問題を捉えることができるのではないかと思うようになった。ある図書を蔵書に含め、別の図書を含めないという点では、収集も廃棄も同じ行為であり、両者は「図書選択」として一元的に捉えることが可能である。船橋の事例が問題となったのは、選択が蔵書の大量廃棄という目立った形で現れ、しかもその基準が明らかに偏向しており、その権力的側面が如実に表れたからであると思われる。しかし、ほぼ全ての公共図書館で日常的に行われている図書選択やそれに伴う基準も、原理的には船橋の事例と変わらない。一方が問題となり他方が問題とならないのは、端的に言ってその行為についての正当性の有無であろう。船橋の場合は、個人的な(必ずしも社会全体に共有されているとは言えない)基準を用いたため事件になった。他の多くの図書館では、「市民の要求」や「(一般的とされている)社会的価値」などに基づいた選択をしているため騒がれない。しかし、複数の異なる基準間で、どちらがより妥当なのかを科学的客観的に判断することは、現実的には難しいはずである。なぜなら我々の通念においては、基本的に主観的価値判断/客観的事実判断という二分された思考図式が成立しており、図書を選択する基準は、基本的に価値的側面の評価を伴わざるをえないからである。それにもかかわらず、船橋の事例と、他の図書館での図書選択とに対する評価が全く異なるのは、その基準が「正当」であるかどうかの解釈に関わっている。すなわち選択基準の妥当性は、科学的な実証性ではなく、認識的な正当性により強く規定される。では図書選択における「認識的な正当性」とは一体どのようなものなのか。本稿の目的は、この疑問に対する答えに一歩でも近づくことである。

 本論文第2章の合衆国、日本それぞれの図書選択論の整理も丹念でわかりやすい。図書選択論に詳しい向きは、日本ではこの領域の史的概観はともすると混乱しがちだから、そこから読むとこの論文に入り込みやすいかもしれない。
 その分析を踏まえて、春季学会にて発表された第3章「「選書ツアー」をめぐる新展開」、第4章「「潜在的要求」及び「選択」の再検討」に連なる。

 当ブログでは船橋事件の口頭弁論を、歴史的観点から長く扱ってきた。判決が孕んでいると見られる法学的な問題に切り込んでいないが、一方、別の観点についても述べておきたい。
 即ち、「図書館員として、船橋事件をどのように捉えてよいのか」という図書館員なら誰もが考える平明な疑問もまた、生ずると思うのである。
 単純に言えば、こういうことだ。

  • 船橋事件は「特殊な事例」として封じ込めておしまい、にしてよいのか?
  • 仮に特殊な事例であったとしても、西尾口頭弁論で指摘されるような、一般市民からの図書館員の選書への疑問に対して、図書館員は自信をもって強力な回答をすることが可能か?

 自分は本論文には、これらの疑問への解答の一端が含まれていると思う。
 図書選択論を再整理し、「選書ツアー」に端を発した図書館員の反応を分析、「潜在的要求」の観点から検討したこの論文は、現在の日本の図書選択の実務が陥っている構造と、打開への途を冷静に提示していると感じる。

 特に、第4章のまとめの描写に、穏やかにしかし強く表れている視線、「図書館は社会的価値を押し付けている制度である」という視線は、筆者は強い共感を感じている。本論文の著者や筆者にとっては、冷厳な「認識」である。本論文の著者が示すように、その上で「妥当な選択とは何か」を探ろうとする姿勢こそ、前向きな態度と言えるだろう。
 そしてまた、第5章・結論において、正当性を説明するために提示すべきとしている、従来の要求論が切り捨ててきた「(資料提供の)目的の設定」もまた、筆者にとっては頷けるものである。

 論文紹介の記事としては、以上にておしまい。続く部分は、個人的備忘として。

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2005.08.26

安井一徳『公共図書館における図書選択の理論的検討』を読む(2)

 論文を知人の図書館員に読んでもらったところ、論文全体も非常に興味をもって評価してくれ、「第3章がおもしろかった」と強く言っていた。
 自分は、第2章はよく整理された前振り、事例としての第3章が来て、"第4章が"おもしろかったんだけどなあ。

 さて第3章は、安井一徳「「選書ツアー」はなぜ批判されたのか〜論争の分析を通して〜」『2005年度日本図書館情報学会春季研究集会発表要綱』p.27-30.の元となっており、読書日記でも紹介されているこちらでも)。事例研究なので具体性があり、普通は確かに本論文で一番おもしろい箇所かもしれない。ちなみに春季研究集会の発表要綱も短いのでお勧めである(このリンク先は要旨)。
 筆者感ずるところの第3章の要点をキーワード的に並べておく。当ブログは筆者の備忘が目的なので、念のため。関心を喚起された向きは、論文自体に当たられたい。

  • 「カウンターに立つことの特権化」「リクエストの特権化」
  • 「要求論」による選書における、図書館員の「判断を隠蔽する構造」
  • 「図書館員の専門性」の矮小化・自己目的化

 第4章も引用して賞賛しておきたい。
 キーワードはブルデューの「象徴的権力」である。自分はブルデューなんて知らないが、"symbolic power"を図書選択の領域に導入して示そうとしている問題意識は、非常によく理解できる。
 引用するのは「4.3 本章のまとめ」全節である。下線、太字は引用者。

 1節で確認したのは、潜在的要求を把握する際の、いわば「恣意性」であった。潜在的要求は、原理上部分的にしか知ることができず、また所与のものでもないので、図書館側がそれを形成する余地が生まれるのである。そうだとすれば、恣意性をコントロールし、一貫性を保つための基準が必要となる。すなわち潜在的要求を、社会的妥当性を含んだ「ニーズ」概念と切り離して考えることはできないのだ。しかし、それは市民に対する「ニーズ」の押し付けではないかという批判もありうる。一体何の権利があって、図書館が市民に必要とされるものを判断できるのか、そんなことをするのは戦前のような価値観の押し付けに他ならないのではないかと。こういった批判は部分的には当たっている。図書館の判断が誤りうることも十分考えられるし、実際に戦前の図書館の基準は教化にあったからである。では図書館は何も押し付けてはいけないのだろうか
 仮に図書館が何も市民に押し付けまいとしても、結果的には何かを押し付けてしまうことを明らかにしたと思われるのが、2節の「象徴的権力」という概念であった。そもそも「図書館」という機関の存在自体が、読書や情報活動を「善いもの」とする社会的価値の産物でなのであり、そのような価値観を市民に対して表明しているのだ。ここでまた、読書や情報活動が善いものなのは当たり前ではないかという批判があるだろう。その批判も正当なものであろう。問題は「押し付けをしないこと」ではなく、「社会的に妥当とされない押し付けをしないこと」なのだ。では社会的に妥当な押し付けとは何か。この問に答えることは筆者の能力を超えている。ただ、一つ条件を挙げるとすれば、「その押し付けの内容が公開されており、それに対する批判に開かれていること」になるだろう。一定の社会的合意を得ていることは当然であるが、何を以って社会的合意になるのかもはっきりとは決められない問題である。
 要求論的立場が暗黙の前提としている価値は、一種の「ヒューマニズム」と呼べるものであった。だが要求論的立場ではそれが意識化されず、「普通」や「常識」として批判することを許さない概念となっている。それが意識化され、批判に開かれたものになるなら(例えば「ヒューマニズム」の立場は何通りもありうる)、要求論的立場も一つの基準として成立するだろう。

 最後に、第5章で印象に残った部分を。「目的」と関わって自己相対化の困難について述べるくだりに付いた注6、最後の注において、バーリンが出てきたのには驚いた。安井さん、あなたコレ学部の卒論でしょ。バーリンにまで手が出るわけ?再引用になるがこれも引いておくか。

 20世紀の自由論の基盤を築いた一人であるバーリンは次のように述べている。「現代のある尊敬すべき著者は書いている、「自己の確信の正当性の相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である。」これ以上のものを要求することは、おそらく人間の不治なる深い形而上学的要求というものであろう。しかしながら、この形而上学的要求に実践の指導をゆだねることは、同様に深い、そしてはるかに危険な、道徳的・政治的未成熟の一兆候なのである。」

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2005.08.27

STAR WARS Episode III―映画の感想と小説版(1)

※8/25書き出し、8/29アップ。

 帰宅途上、小説文庫版を手に取った。映画の描写が大雑把だったので予想どおり引き込まれた。
 以下関連記事、映画未見の方にはネタバレ注意!としておく。小説も読んでもらいたいのでハッキリした表現はあまりしないつもりだけど。
 ひとことだけ書いてしまっておくと、エピソード3は映画と小説両方見て初めて楽しめる。小説未見の方はぜひ、お読みいただきたい。

 本記事では以下、知人とのメールに書いた感想を転載する。

==============================================================

>(特に前半から中盤において、あと後半も一部)まだまだ
>脚本の甘さが残る部分はたくさんありましたが、まあ総じてう
>まくまとめたというか、4につなげたというか。

 一緒に行った家族が「クラシックシリーズ特別版はよかったけど、エピソードI,II,IIIはねえ…」と辛口。
 脚本と音楽がダメだそうな。曰く「男の子の映画なんだね」。
 ナタリー・ポートマン美人になったよねと言って見に行ったのに、パドメちゃんお人形さんじゃない!あの闘う女はどこに行っちゃったんだ、と怒ってました。確かに、成熟した女性を描く力がルーカスにはまったくないんだなという感じ。
 「普通、母になるって女はもっと強い側面もあっていいよ」というのは同感。シミ・スカイウォーカーでは別れに耐えて送り出す、というところでは強さを見せたけど、基本的に母となった女性は守る「対象」であって監督が感情移入する「主体」として描けないんだね。あんた死んでどうするねん、という。
 いや、そりゃダンナがダークサイドに完全に堕ちる手術を受けているという共感を得ながら絶望に苦しみつつ出産したんだろうよ、だから生きる気力が失せたんだろうとフォロー入れたんだが、自分でも得心しない。それじゃ脱線してしまう、と思いつつ家族の弁では、へろへろなダンナがいたら「あんた何やってんの!赤ちゃんできるんだからしっかりこっち向きなさい!」とか、「ダンナはダメだけど赤ちゃんだけは大事に育てないと…」という勢いがあるもんだよ、と。
 ほんと、アナキンとの描写ではパドメはうろたえるばっかりで、アナキンが「支えがなくなってしまう…評議会とオビワンと」と言ってる脇で何もしてやってないし。IIのパドメはどうした!支えになってやるところだろ!と言いたくなっちゃう。
 実際、死んじまったらエピソードVIでレイアがルークに話す「そういえば、母さんはいつも悲しい顔をしていた…」という台詞とつながらない。養母との話になってしまう。ここで隠棲して、若死にしても幼いレイアに思い出を残すという選択肢も、プロットを壊さない程度にはあったんだろうに。

>これまでに登場のキャラもいくつかでてきて、
>それを発見する楽しみもあったし。
>せりふのいくつかに、今後のストーリを示唆するものも
>あったし。
>こういうところはシリーズを通しでみているものの
>楽しみ部分ですね。

 そうなんだけどさー。
 メカとかの描写だけだなあ。

 プロットは大昔の構想とたぶん変わってないんだと思うんだよ。
 Iの「9歳じゃ遅すぎて母への思慕が断ち切れない」とヨーダが難色を示す場面とか、IIの母が殺される幻視を見て虐殺までやってしまって後悔するシーンとか。それらがあって今回IIIの妻への切迫した思いにつながっているとは思うんだけど。
 だけど、それをせっかく「映画」で描き切れてないんだな。すごく大味で、消化しきっていない。演出が悪すぎ。

 最後のオビワンとの闘いでチャンバラが続くじゃない?あれ、シディアスも「アナキンは自分を凌駕している」と言うだけの力、ジェダイテンプルを一人で全滅させられる力があるから圧してたんだろうけれど、オビワンにも躊躇いがなくはなかったと思うんだよね。
 で、最後に誘って、ズバッとやっちゃう。そこで哀しい名台詞に続くんだけど、一連の描写全部がただのチャンバラと演出と組み合わさっていないから、ただの台詞だけ、ドラマの構成として結実しない。
 比してオッと思った演出が、グリーバス将軍。タダのドロイドじゃなくて「人間のサイボーグ」ということは見ていてわかってきたんだけれど、最初にアレと思ったのはオビワンとの闘いで「執念深そうなアップ」が出てきたから。ただのメカを大映しにしてどうするんじゃい、と思っていたら次にオビワンのアップも来た。で最後に心臓を銃の連射で倒すと。これは闘いの執念を表すいい演出だと思ったねえ。
 最後の闘いでも光刃を交えながら印象的な台詞をやりとりするとか、もっとあってもよかったんじゃないか。

 そしてわけがわからないのが、とどめを刺そうとしないでただ立ち去ってしまうオビワン。行動原理が全然わからない。日本の武士道ならとどめを刺すのが情けってもんだし、欧米でも生きながら焼き殺すのは地獄の描写の元にもなってるわけで。
 弟同然に思っていたからか、ジェダイだからとどめを刺さなかったのか。でもジェダイ・オーダー自体が崩壊してる(=アナキンがパルパティーンにためらったときと違い裁きの場がない)し相手はシスと化してしまってる。あそこで解釈が分かれてしまうような描写はまずすぎる。
 映画的にはあそこ、溶岩や落石で近寄ろうとしてもどうしようもなくて、必死に今生別れ際の台詞を言う、くらいの演出でないと。

 ベイル・オーガナ議員も、ここまで最後の後始末に出張ってくるんなら、IIでもっと彼の主張やジェダイとのつながりを示しておかないと。レイアの養父になることはわかってるにしたって、伏せすぎというか、最後つじつま合わせに出てきただけじゃん、って感じ。
 自分も、エピソードI,IIは、映画としては全然不要だと思っている。ストーリーとしてはなくてはならないポイントを押さえてはいるものの、IIIの悲劇、主人公の苦悩に結実するだけの描写が不足しすぎている。

 一緒に見に行った家族は、節目節目でもっと回想シーン使えばよかったのにねえ、と言っていた。
 いまやってる『ガンダムSEED』は回想シーンや総集編ばっかりでつまらん、駄作だというのがオールド世代の評価なんだけど、思い入れがある連中にとっては、意味のある回想シーンやうまい視点からの総集編みたいなんだよね。自分は本編ほとんど観てなくて、ブログで詳細な筋とよい分析があるとこ三つに頼ってんだけどさ、そこ読むと本編見るより深く楽しめる。
 それに比べると、今回の脚本・演出は、日本のバカニメーション以下だ。
 見所がメカ描写とアクションだけなんだもん。そこを筋に絡めるのが映画ってもんでしょうが。パルパティーンとメイス・ウィンドゥのところなんて彼の最期に至るまでは秀逸。グリーバスとオビワンの闘いもよくできてる。
 惜しくて惜しくて…。なのに、細かいところに走りすぎてる。スペックに取り憑かれてるビル・ゲイツみたい。クローントルーパーのデザインが段々ストームトルーパーに近づいてきたり、のちのデストロイヤー級戦艦とか、ジェダイ・ファイターがTIEファイターの前身らしかったり、X-ウィングの前の型とかさ。デザインなんかに凝るのは楽しいけれど、それは映画の「小道具」でしょ。

 しかし、アナキンとパドメの関係を看破する皇帝なら子どもの行方がわかってもいいんじゃない?とは家族の弁。アナキンの心の動揺を読んだだけだよ、と言っておいたけど、それもそう。ヨーダなんか、銀河中に散ったジェダイのフォースが失われていくのを感じてたしね。
 ルークなんかスカイウォーカー姓で親類の家に預けられてる…。ベイダーはどこで自分の子どもだと分かったんだ!!最初からわかってて放置してたのかなあ。であれか、ルークが反乱軍に入ったらしい辺りで親類を皆殺しにしたってか?
 レイアはIVで養父のいる星をデス・スターに一撃で破壊されるさまを見せつけられるのに、側で脅迫している実父が実娘と気がつかない。レイアはエピソードV,VIでヨーダにずっと「もう一人の希望がいる…」とか言われてるんだけど、よくわかんないよ。

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2005.08.28

STAR WARS Episode III―映画の感想と小説版(2)

※8/25書き出し、8/29アップ。

 本記事では前回の映画の感想のまとめと、小説版の推薦を。

 映画単体について、まとめ。

  • 総評としては中の上、5段階評価だとオマケして☆4かな。シリーズ最終作ということと、曲がりなりにも感情移入可能な悲劇を描いたことを甘く評価して。しかしかなり想像しないとダメだったから、泣けなかったんだな。セリフやシチュエーション自体は泣けるもんばっかりだったのに…。
  • よくも悪くも、「映画」としての「スター・ウォーズ」。ライト・セイバーによるチャンバラ、めまぐるしい宇宙戦闘。背景としての星々と多様な異種族たち。つまりは、画面を見ていて飽きない。
  • 問題はその映像に説得力を与える、脚本と演出だった(本当は逆なんだがSFX全開の作品は、映像が先、でもしかたがないもんねえ)。どうして効果的な場面で、印象に残る台詞や演技を配置しない?そうすれば映画としても見られるものになったのに…。
  • ヒロインのパドメがお人形さん。I,IIの闘う王女はどこへ行った〜!
  • クライマックス、オビワンがトドメをささずに立ち去ってしまう。映画の描写だけでは行動原理が理解できなかった。

 本題、小説について。

  • パドメが何をしていたか。実は、何もしていないわけではなかった。映像に出してこなかっただけ。やはり行動する政治家だったのね(嬉)。
  • オビワンの最後の行動は一応説明されている。まあ、納得しておくか。

episodeIIIジョージ・ルーカス原作 マシュー・ストーヴァー著 富永和子訳『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』(ソニー・マガジンズ文庫)
 Amazonの書評を読むと、SWって小説版を読んでから観に行く人も多いみたいで。特に新三部作は小説版がないと補完できないと言っている人もいる。
 自分は、心情描写と映像で表現できなかったところを読もうと手に取ったんだけれど、結果的に、小説があれば映画に行かなくってもいいかもしれない、ってくらいの高評価だ。映画は小説の映像化、映像部分だけ、という感じ。エッセンスは小説の方にある。小説やマンガのアニメ化、みたいな感じだな。そりゃ、SFXやアクションは大画面で見たいけどさ。スター・ウォーズって毎年テレビでやるじゃないですか。
 もちろん、そのままIIIの小説を読むには難があるかもしれない。そのためには、I,IIはあらすじと人間関係をどこかで押さえて。あとは固有名詞だな。固有名詞とその背景ばかりは、実は映画でも説明が充分でない。そのための副読本とか読むしかないですね。ネット上で見つけたのはこちら「スター・ウォーズの鉄人!」。
 だけど、カタカナ語に多少ひっかかる以外は、アクション部分も表現が豊かで、非常にこなれた文章、訳も適切だったんじゃないかと思う(映画の字幕は「誤訳だ」とまで叩かれてるからなー)。「SF小説として」、おすすめです

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2005.08.29

「図書館員の愛弟子」開設一周年。

 2004/08/28に設置、昨日一周年を迎えました。パチパチパチ。
 現在、記事数215です。もっと力抜いてやらないとダメだなあ。
 備忘と、自分の文章の練習に始めたこのブログですが、自分の書き方からするとブログという形式には通常は合わないのかもしれないです。やっぱ、日記風というか、身近に起こったニュースや感想を日々綴る方が普通ですよね。
 でもまあ、HTMLに苦労もしないで書けばいい!っていうのはほんとに便利。日付が付いているので、「空きをシステム上のゴマカシでもいいから埋めたいなあ、だって何も書いてないわけじゃないんだしさ…」ってな感じでがんばって書きますし。

 振り返ると、いろいろありました。邦人殺害事件、新潟県中越地震、けっこう図書館ネタも書きましたねぇ。なんだかんだ言って、アクセス解析とカウンターを気にしすぎの感があります。
 常連さんにコメントをお願いしたりもしました。このブログを縁に、よいお付き合い、させていただいていると思っています。
 そうそう、コメントのレス、遅れていますがぜひ気軽に書き込んでくださいませ。
 今後ともよろしくお願いいたします。

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2005.08.30

サイドバーリンク集 2004年度分

 サイドバーのリンク集を整理しようと思ってます。
 ついては、過去分、コメントももったいないのでそっくり記事の方に収録することにしました。作成日はリンクをサイドバーに作成した日です。

図書館系blog

Copy & Copyright Diary
「複写と著作権メーリングリスト」主宰者のブログ。図書館と著作権に関する話題はここをチェック!
作成日: 2004年8月29日

日々記―へっぽこライブラリアンの日常―
つくば関係の図書館員のブログ。穏やかな書きかたが、気に入っています。
作成日: 2004年8月29日

Liblog JAPAN | Blog on Library and Information Science
慶應義塾大学大学院図書館情報学専攻の院生によって運営されている図書館・情報学に関するブログ。学界の情報はここをチェック!
作成日: 2004年8月29日

読書日記
知り合いの図書館員の「読書日記」。よくこんなに読めるなあ。まじめな書評もいいんですが、マンガやSFの評もあり。
作成日: 2004年8月29日

info-commons.org
ALAの図書館をコモンズに位置づけようという委員会のブログ。ちゃんと読もうと思ってんですけど、どなたか紹介してくれません?
作成日: 2004年8月29日

Daily Searchivist
作成日: 2004年10月19日

きょうもつんどく中ココログ版
新潟県中越地方の高校図書館司書の地震日記。2004.10.25開始、2005.1.12更新停止。本ブログ内紹介記事はこちらこちら
作成日: 2004年11月21日

愚智提衡而立治之至也
本ブログ内紹介記事はこちら
作成日: 2004年11月21日

新潟中越地震:sl-shockの学校図書館ボランティア
学校図書館メーリングリスト(sl-shock)による新潟県中越地方での活動記録。図書館関係の災害対応の記録は珍しい。本ブログ内紹介記事はこちら
作成日: 2005年1月12日

Library & Copyright
筆者の方には申し訳ないが非常に個性的。国会・行政の動きの詳細はここでしか得られない。チェック!
作成日: 2005年4月 8日

@nifty:生涯学習フォーラム
Nifty、2005.3.にパソコン通信のフォーラムを廃止。本ブログ内紹介記事はこちら
作成日: 2005年4月15日

酒・地域

尾瀬あきら公式ホームページ
「私はコレで日本酒にはまりました」。『夏子の酒』の作者。学生時代、アパートで友達と飲んでいると、つい読み始めてしまい、皆とまらなくなる。さる友人「…ええ話やわ」。和醸良酒、いい言葉です。
作成日: 2004年9月 5日

信州四季の風景
美しい写真が見られます。
作成日: 2004年10月22日

ぽざまん-BLOG
本ブログ内紹介記事はこちら。このブログの元のホームページはMac系。ブログの内容もおふざけモードが本来の姿だが、時事ネタもおもしろい。
作成日: 2004年11月10日

NG!-ナガオカグレイト-
長岡ローカルネタと言えばこのサイト。縁のない人には縁がないだろうなあ。
作成日: 2004年11月14日

Macリンク

最強の630を創り隊
2004.9.2.に閉鎖を確認。残念。本blogの投稿記事を参照。
作成日: 2004年8月29日

Alchemy Station
Performa54xx,64xx等Alchemy,Gazelle系統のマザーボードを搭載した機種の専門サイト。
作成日: 2004年8月29日

Apple .Mac Welcome
「.Mac の全機能を年間たったの 13,440 円でお楽しみください」!? 無料のYahoo!メール等と比べても実にひどいサービスです。さらしておきます。
作成日: 2004年10月22日

ごーやー荘ホームページ リンク集
下の方へスクロールしてみてください。
作成日: 2004年10月22日

セレクション越後屋
新潟県長岡市でMacの周辺機器を扱っています。ホームページは以前伺ったところでは自作されているようですが、センスいいんだよなあ。Mac以外でも越後の特産品扱ってたり。
作成日: 2004年11月14日

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2005.08.31

「西尾幹二のインターネット日録」管理人「年上の長谷川」さま。

※下記は標記宛てメールとして送信する予定だったものです。が、私の不徳の致すところか、メールアドレスないしメールフォームを見つけることができませんでした。見つけたのは、講演依頼用のフォームのみでした。よって、このブログの記事のみとなります。

 「図書館員の愛弟子」のroeです。
 元々は私の船橋市西図書館蔵書廃棄事件に関する記事における発言からですが、6.4.付記事に対してコメントいただきまして、その回答の責を最優先課題として、ここ数週間の記事を重ねてまいりました。
 大変遅くなって恐縮、またもうご覧になっておられない可能性も多々あると思いますが、「年上の長谷川」さま宛ての回答を含む記事を整理・参照して回答とさせていただきます。また、『正論』9月号のご紹介については、改めて御礼申し上げます。
 なお、本メールはそのまま当ブログの記事とさせていただきます。私の著作物ですので。

 「年上の長谷川」さまのコメントへの返答への前提にまず、8月上旬には私が問題としている「GHQ没収指定図書総目録」に関する文献、松本剛『略奪した文化』の紹介をさせていただきました。これは、ブログに書いたお約束でしたので。その上で、
 2005.8.15.付記事では、コメントの前半部に直接反論させていただきました。
 2005.8.16.付記事では、まとめに入る前の記事とコメントに謝意を表していますが、あれはひとつには「年上の長谷川」さまに対するものです。
 2005.8.17.付記事が、「年上の長谷川」さまのコメントへの回答です。その上で、さらに敷衍したものが次の、
 2005.8.18.付記事となります。内容を読んでいただければわかる話だと思います。自分はむしろ、今度はこの「矛盾」に対して、西尾先生もしくは「年上の長谷川」さまに回答がいただきたい。また、電子図書館化に関する建設的な留意点を示しています
 2005.8.23.付記事は、記事冒頭に書いたとおり、8.16.及び8.18.記事のダメ押し、延長にありますが、二つ意味があります。日録:最高裁口頭弁論(四)の記事に掲げられた「喪われた」とされる図書について個々に所蔵の有無を確認し、直接の反証とすること。図書館のリテラシーをおもちでないと思われる「日録」の方々に最低限度の「図書館検索システムの検索及び図書館利用の手順」をご案内申し上げること。以上の二点です。

 それと、「年上の長谷川」さま宛ての回答のほかにもうひとつ。ざっと8.7.付記事でも書いていますが。
 2005.8.13.8.14.付記事は、「年上の長谷川」さまが「西尾幹二氏が喪われた図書の収集と電子化に着手している」旨、先のコメント後半で述べておられたので、7.19.に予告したものです。
 喪われたとされたプランゲ文庫に携わった方々の努力と、成果としての図書館での事業、その上での歴史家としての識見を紹介しました。「西尾氏の電子化プロジェクト」にも大いに参考になるものだと思います。

 以上、共感・批判がないまぜとなりつつ、協力すべきところはしているということ、ご理解いただけるでしょうか。もちろん、頼まれたものではありませんが、私は物事にはよい点と悪い点があり、よい点を建設的に前進させたい、そういう考えでおります。
 最後に、今後含め私の論理の組み立てについて確認しておきます。

 私が西尾幹二氏の口頭弁論第三点にこだわった個人的理由は、8.15.付記事に述べているとおりです。幸い、個人的には8.16.付記事で決着を見ました。
 ですがしかし、今回の裁判全体に対する気分は、8.11.付記事冒頭そのまま。したがって構成自体は2005.7.30.付記事に示したとおりで、まだ第三点めについて先行して述べたに過ぎません。第三点めがこれまで書いてきた、「年上の長谷川」さまに対する回答に相当します。法理を離れた図書館現象についての部分ですね。
 分量にすると第一点め、第二点めはかなり少なくなるかもしれませんが、今後は判決についてごちゃごちゃ書いていくつもりです。

 なお、西尾先生を揶揄するような発言は申しわけありませんが、私のブログですので正直に気持ちを書きました。ほかの「西尾シンパ」の方々のブログを読めば、対抗勢力とされている方々に対してかなりひどい(というか非論理的な)表現をされていますし、西尾先生ご自身の文章にもずいぶんな表現が目につきます。それに比べれば、いや比べるものではなくて、そんなものでありましょう。「自分の発言の場」では。どうか、ご海容願えればと思います。
 議論を交わすときは紳士的に、しかし自分の主張の論拠をきちんと明示しながら、ともに建設的に前に進みたいものです。

 ではまた、オンラインにて。
 ご返信いただけるようなら、できればブログで。メールの場合は、どこまで公開してよいものか明示してください。

 追伸。ココログのTBのシステムが具合悪いせいでしょうか、8.23.付記事から日録:最高裁口頭弁論(四)に対してTBをいくら試しても成功しません。現在、@niftyに調査を依頼中ですが、「年上の長谷川」さま、私があんまりうるさいので出入り禁止にしてしまわれたのでしょうか?少々心配しております。かのTBは絶対に必要な、直接的な事実を含む内容です。反論を封じ込めているのだとすると…などという疑惑が頭をめぐっています。

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