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June 2005

2005.06.02

船橋焚書事件、傍聴報告。

 「新しい教科書を作る会」側の方々の表現としては、「船橋焚書事件」というようで。検索エンジンではこのタームでひっかかるようです。参考になるサイトもヒットします。
 確かに、「船橋市西図書館蔵書廃棄事件」なんて、図書館業界以外では言わんだろうなあ。

 さて口頭弁論、傍聴に行ってきました。
 Library & Copyrightのgomameさんもレポートくださるとブログ上で仰ってましたので、簡単ですが私の目からも報告させていただきます。内容はgomameさんフォロー期待しています。

 傍聴人は26名。傍聴人席の左右にある記者席に6名。
 上告人:「作る会」側 左に9名。
 被上告人:船橋市側 右に5名。
 正面に書記官が2名。
 その上の壇上に裁判官が5名。横尾和子裁判長。

 12:15に着いたときには前に4名ほど。
 12:30にバッジをもらって入構。筆記具以外はロッカーに。携帯電話は電源を切って預けよとのこと。「パソコンでメモ取りたいんですが…」とチャレンジ。断られました。
 空港よろしくゲートを通って持ち物チェック。やけにピーピー鳴っていて、ベルトのバックルや印鑑の金属製ケースまで反応していました。
 12:45には小法廷前の待合スペースで時間を潰す。裁判所の広報・啓蒙ビデオが流れていました。
 パラパラと傍聴人や関係者が出入り。図書館関係者なんていないかな、年輩の方々が挨拶をよくしているところを見ると「作る会」関係者ばっかりなのかなあと見ていましたが、あとで帰るときに耳にした感じでは、学生さんもいたようです。卒論やレポートのテーマにいいでしょうね。

 13:20に入廷。最初と最後に起立・礼をするようにと指示あり。
 13:30に裁判官が入廷、廷吏から××事件・口頭弁論開始との声。

 裁判長から、上告人・被上告人にそれぞれ、既に提出した書面の内容に相違ないかと確認。もちろん傍聴人には答弁書等の内容はわからない。
 さらに、裁判長から、ほかに言いたいことはないかと発言があり、上告人側から意見陳述をしたいとのこと。被上告人は答弁書ですべてということで、なかった。

 西尾幹二氏から3点。
 井沢元彦氏から1点。
 上告人代理人、被上告人の答弁書に反論。

 最後に裁判長から、重大な日程の発表。
 判決の言渡日。
 平成17年7月14日。午前10:30〜。

 閉廷後、外に出て時計を見たら、14:00ちょうどでした。
 内容等のコメントはまた別途、余裕ありましたら書きます。
 とりあえず、報告まで。

【当ブログ内船橋市西図書館裁判関連記事 20050610現在】
2005.05.23 船橋蔵書廃棄事件裁判。傍聴に行こうかな、どうしよっかなと
2005.05.28 最高裁の判断は、日本の図書館史に残るのではないか?
2005.06.02 船橋焚書事件、傍聴報告。
2005.06.03 船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (1)
2005.06.04 船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (2)

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2005.06.03

船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (1)

 この記事の元々は、口頭弁論のあった6/2から書き始めたものである。公表は、自分なりに疑問に決着をつけた6/7になってしまった。
 なるべく簡潔に書くよう努める。調査の経過を書き始めたらきりがないから。

 上告人の意見陳述は、厳粛かつ熱意に溢れるものであった。まず、敬意を表したい。
 そして、その傍聴メモを起こそうかと考えている間に、西尾幹二氏のインターネット日録にて、裁判所に提出したという原稿をそのままアップしてくださった。6/4,5,6,7の「最高裁口頭弁論」(一)(二)(三)(四)である。そのフェアな精神にも心うたれるものがある。謝意を表する。

 さて、私の疑問の出発点は、次のくだりである。引用させていただく。

西尾幹二のインターネット日録:最高裁口頭弁論(二)

 じつは日本にも似た出来事があるのです。この赤い一冊の大きな本をみて下さい(私は裁判官の方に本をかゝげた)。アメリカ占領軍による『没収指定図書総目録』です。

 マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を図書館から除籍し、廃棄することを日本政府に指示しました。書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大かがりとなります。昭和23年に文部省の所管に移って、各部道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし秘密裏に行われました。没収対象の図書は数千冊に及びます。そのとき処理し易いように作成されたチェックリストがここにあるこの分厚い一冊の本なのです。

(中略)

 戦後のWar Guilt Information Program の一環であった、私信にまで及ぶ「検閲」の実態はかなり知られていますが、数千冊の書物の公立図書館からの「焚書」の事実はほとんどまったく知られておりません。

(中略)

 「焚書」とは歴史の抹殺です。日本人の一時代の心の現実がご覧のように消されるか、歪められるかしてしまったのです。とても悲しいことです。船橋西図書館のやったことは原理的にこれと同じような行為につながります。決して誇張して申し上げているのではありません。

 自分の疑問の直感的なそれは、「GHQの焚書」説から、最後の「船橋西図書館のやったことは原理的にこれと同じような行為につながります」という部分の論理的飛躍である。
 図書館業務に実際に携わり、「図書館の自由に関する宣言」という現実と乖離した理想を日々意識している普通の図書館員としては、後者の日常業務と「GHQの焚書」とがつながっていかない。
 端的に、GHQの焚書は政府の命に図書館員が関わっていたかもしれない(そうではない例もあっただろう)が、それと今回の船橋の例を裁く問題とは違うという直感である。
 本件で争われているのは、船橋市が図書館の日常業務に関する裁量を許すかどうかではないのか。そして、かの問題司書の逸脱は焚書の例を引くまでもなく専門職の倫理からの逸脱は明らかであって、疑義もない。ただ、そこに著作者が口を挟む権原が存在するのか、ということが争点である。どこかずれている。
 しかし、自分が問題とするのは、次回採り上げる疑問の方であって、そちらの方が実質的である。

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2005.06.03 船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (1)
2005.06.04 船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (2)

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2005.06.04

船橋市西図書館蔵書廃棄事件の口頭弁論における疑問 (2)

 前回の疑問から、次の疑問に連なった。
 戦間期の図書館人の行動は、批判もされてきている。
 では、占領期はどうだったのだろうか?図書館員という人種は、そんなに、政府に唯々諾々と従うものか?
 そこで、西尾氏が紹介した資料に当たってみるところから始めてみたのである。

 文部省社会教育局編『連合国総司令部指令没収指定図書総目録:連合国軍総司令部覚書』今日の話題社,1982.4.
 以下必要な部分のみ抜粋したものが「bosshu.PDF」

 この「覚書」一(昭和21年3月21日付)には次のように書かれている(p.2)。

4.一般民家或は図書館に於ける個々の出版物は本指令の措置から除外する。

 また、p.8の昭和23年6月22日の文部次官通達でも、次のようにある。

4.(1) 没収は、書店(中略)等の販売及び輸送経路上にあるものについて行うのであって、個人、図書館(室)のものは除外されていることは今まで通りである。

 上記をそのまま読む限りは、「図書館での焚書」は政府レベルでは指示されていない。←ここ重要!

 その後も文献調査を続けると、確かに拡大解釈が行われて図書館でもこの指令に基づいて「没収」が行われたり、一方で隠してなんとか免れた例も見つかった。
 そして、かなりまとまった研究もある。この文献については、(忘れてなければ)最高裁の判決が出た後に紹介しよう。こうした図書館に関する資料の方が、適切でもあろう。
 少なくとも、西尾幹二氏の陳述に、ご自身で紹介された資料は「適切ではなかった」と思われる。実際、「占領期に図書館で焚書が行われたのはかの目録による」という誤解を、ほかのサイトではしておられる。
 そうではなくて、正しい事実はこうだ。
 図書館は焚書が行われた数多くの現場のひとつで、それも直接図書館を指定はしなかった指令であり、運用はまちまち、図書館員の対応も一定ではなかった。
 神奈川県立図書館の戦時文庫のように、守る側に回った例もある。船橋西の例をひき、「GHQの焚書」の歴史を引いたからといって、「図書館員は危険だ!」という話にはならない。

 現在までの結論をはっきり言えば、西尾幹二氏の裁判所での発言には些細とは言えない誤謬が含まれている、ということである。誤謬と言って悪ければ「間違ってはいないが誤解を生む不親切さ」だ。意図的だったのか。
 正直、残念なのだ。西尾氏の政治的立場には必ずしも全面的に寄り添うものでなくとも、西尾氏自身の論理がそれなりの知的明解さをもっていただけに、弁論での内容や真摯な態度には非常に説得力を感じていただけに、この「あいまいさ」に、…素直に書いてしまえば「くやしい」。
 これで最高裁が正確な事実を知らずにそのまま、判決に影響があるとすれば、偽証には問われないのだろうか?過失ならば、早急に最高裁には訂正を申し入れるべきだろう。

 今回読んだ参考文献の一部。
・「あなたは公立図書館の焚書事件を知っていますか」西尾幹二『日本がアメリカから見捨てられる日』徳間書店,2004.8.
・井沢元彦「告発 朝日新聞読者だけが知らされない船橋市西図書館「焚書事件」の犯人像」『Sapio』小学館,14(10)[2002.5.22]
・『みんなの図書館』111号[1986.8]「特集・戦争と図書館員II」

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2005.06.06

機動戦士Ζガンダム・第1部「星を継ぐ者」

 映画「機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者」観てきました。"A New Translation"と銘打った映画化三部作の第一部。

 公式サイトだのにゴロゴロ転がっている話ですが、A New Translation(新訳)というのは、同じストーリーでも視点を変えてみれば違う切り口で語ることができる、という主旨で今回の映画化に際して付けられたものです。
 ちなみに聖書の「新約」とは原語が違っています。「Ζ」のストーリーは主人公にイエスのように人類の原罪を背負わせるがごとき筋であり、当初制作者の意図もあったようですけれど。この映画では「新たな翻訳」「新解釈」という意味ですね。

 全50話中1-14話分を95分にまとめたというし、新作カット1/3と旧フィルム(20年前!)とのギャップ。どんな仕上がり具合かと期待しないで行きました。切り貼り感はまあ、否めませんが、よい点、快い点があり、自分としては映画館に足を運んで満足。
 観てきた者として最初にお断りしておきますが、この映画はテレビシリーズあっての映画であるように思います。切り貼りは、新作として一個の作品として観たらたぶん違和感ありまくりのはず。今回製作者も、「Ζ」という同じ作品名を使う意味として、20年前の同じフィルムを使っているそうです。
 テレビシリーズを既に見ている人はもちろんすっと入っていけるし、あとでテレビシリーズを見るつもりなら多少わけがわからなくてもはしょっている部分はあとで理解できるでしょう。雑誌などの各話解説では、うーん、ついていけるかどうか。

 さて。全体に「軽やかな」印象が残りました。
 あの穏やかな「ターンエーガンダム」の映画化と雰囲気が似ていました。どちらも一年分のテレビシリーズをまとめてしまうのですからストーリー展開に勢いが出てくるのは当然なのですが、切り貼りをするにしても、富野監督の脚本や絵コンテがいいんでしょう。そしてそれを受けた実際に映像加工するスタッフの力や熱意を感じさせられました。
 全体に、空間・奥行きを感じさせられるカットや、テレビでは全体状況がわからないまま話が進んでしまっていたところがうまく整理されているなど、わかりやすくなっている感触です。感触と言えば、新旧のフィルムが混在しながらも(違いを意識し始めると多少目が回ります)、凝縮されたストーリーに乗ってしまうと、再構成された台詞や映像、感情の流れが、なんだか身体感覚的に気持ちいいと感じられます。今作は、DVDなどよりも映画向きのような気がしますね。

 エンドロールにテレビ版の各話タイトルとスタッフが流れて、「これだけの話をよくもまとめてくれた」「逆に、テレビのイントロダクションは冗長だったのかもねえ」という気にすらさせられました。
 そして最後に登場した第二部タイトルは、「機動戦士ΖガンダムII 恋人たち」。ロゴにフォウとベルトーチカが組み込まれていたのには驚きました。
 IもIIも副題は有名なSFから採っていますね。Iの方、J.P.ホーガンの「星を継ぐ者」は未読ですが、関係ないように思われるのですけれど。「トップをねらえ!」「エヴァンゲリオン」などで有名SFから借りるのを真似てるんでしょうか。
 確かに「Ζ」第2部には魅力的な女性たちが登場し、活躍します。テレビシリーズ当時も、70年代末のファーストガンダムでは前線に出ることは稀だった女性たちが、80年代の女性の社会進出がドラマにも表れていると言われていましたが、20年を経たいま描き方がどう変わるのか。これまた楽しみではあります。
 第2部は10月公開予定。

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2005.06.08

2005年春追想〜仕事のこと。ひとまとまり書く。

※6月中旬以降公開。6/10以前から書きかけていた。

  • とにかく平日は、仕事が充実、忙しかった。5月後半の集中と残業。
  • G.W.で営業日が削られている上、明けてまとまった滞貨が…。その上、ほとんどの個々の業務は初体験。どんどん切り込んでいるつもりでも、始めてはわからないことにぶつかり、考えては聞いて、と手間がかかる。
  • 可能な対応として、物理的に不可能な部分は手放すと宣言させていただき(上司も適切な判断と評価)、あとまわしにできることは翌月に。
  • それでもどうしても月内にせねばならない仕事の〆切が迫る。〆切直前にけっこう残業をした。それでなんとかしのいだというのが実情。いや、ブログどころじゃなかった。
  • ただ、仕事は楽しくやってはいる。生活上の悩みもあるのだけれど、いま自分が考えてもしかたがない。反面、仕事でも意欲的に課題としたいことはあるものの、まずは眼前の「課題」をこなしていかないと。
  • だからまずは、仕事と自分の家庭生活を最低限でも最優先に考えていく、これが現実的な思考。仕事に限って言えば、早く人並み、新人を脱して一人前に自分に割り当てられた仕事を淡々とこなせるようになりたい。
  • まずは6月と7月の課題。歩みは遅いかもしれないが、早く軌道に乗せたいとは思っている。一歩一歩前進するしかない。とりあえず6月は、5月にあとまわしにした滞貨に切り込んで、今後次々同種の資料が流れてきても淡々とこなせるようになること。

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2005.06.09

2005年春追想〜生活のこと。家族サービス?

※6月中旬以降公開。6/10以前から書きかけていた。

  • G.W.に父子で帰省。二泊三日で悠久山に、市営牧場。実家の家族を喜ばせた。いい季節だった。どこに行くにも、何をするにも。仕事も(勉強も)5,6月は、効率が上がる季節だろう。9,10月もそうか。
  • 休日には、平日の反動がある。平日は仕事のせいで家族と接していないし。疲れて"寝て曜日"もあり、充分家庭参加していない穴埋めをしないと。
  • 手帳を見返すと、なかなかに忙しい(仕事以外によくやるよ…)。一家揃って箱根。子どもと鶴岡八幡宮。最近では地域にある大学の大学祭。地元からも出展、環境・国際交流に力を入れている大学らしさ。子どもとは毎年行っていて今年も楽しむ。
  • 子どもを歯医者に連れて行くことに。自分の分担にした。しばらくは約10日毎に通院、フッ素を塗る。治療する前段階として、口を開けることに慣れる。ごく最初は泣いたが、すぐに慣れてきた。最後にチュイーンと治療の予定。大泣きするだろうなあ。ごめん。

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2005.06.10

2005年春追想〜本のこと。

※6月中旬以降公開。6/10以前から書きかけていた。

  • 松谷みよ子「モモちゃんとアカネちゃんの本」講談社青い鳥文庫

 全6巻を子どもが寝る前に読み聞かせ。小さな挿絵しか入っていない青い鳥文庫版の朗読でも、わからないなりにわかるところやリズム感を楽しんでいる様子。3歳児に読んでやっていると言うと驚かれるが、そんなもんなのか?喜んで聞いているぞ。
 母親の不安感を描いたエピソードが第3巻『モモちゃんとアカネちゃん』後半から多くなり、読んでいて親の側が戸惑う。実際の対象年齢である小学生でも難しいかもしれない。子どもの頃の自分は、わかったような気がしていただけだったと思う。

 全4冊。注文していた本が来た。村上勉の絵は魅力だが、佐藤さとるの文が期待はずれ。まあ、コロボックルシリーズのイラスト集という位置づけで納得しよう。造本はしっかりしているし。
 内容は、「トネリコノヒコ」の「トコちゃん」の四季、という感じ。トコちゃんは本編でも活躍してなかったかな。
 子どもには、「モモちゃんとアカネちゃんの本」が終わったら、このシリーズ本編を読んでやろうかと思っているが…モモちゃんシリーズと違って長編だから、うまくいくかどうか。

 注文していた新版が来た。各ブログでも話題になっていた。学生時代に論じたことがあったので、語りたいことは多いが、機会があれば項を改める。6/12現在『チビクロさんぽ』と関連書籍を読んでいる。
 自分のことでいえば、親しんだ旧版は実家でとっておいてくれてあって、帰省時に確保してきた。差別的と言われようがごめんなさい、僕はこの本、好きです。岩波版は第2話が付いていて、今回それも併せて復刻されなかったのは残念。

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2005.06.11

2005春追想〜読書のこと、斎藤孝『読書力』

※6月中旬以降公開。6/10以前から書きかけていた。

 通勤電車の中で読めるようになった。
 一年近く前は心理的に余裕がなかった。痛勤電車に座れても脳がイライラして寝ることもかなわず。
 最近は寝過ごすことが多いくらい、脳をリラックスさせられる。
 それが混雑した中でも読書までできるようになってきた。だんだん集中、コントロールもできるようになってきていることのしるし。

 5月にまず読んだのが、斎藤孝『読書力』岩波新書,2002
 読書が人間にとってどのような意味をもっているか、どんな技術か、改めて確かめることのできる本であった。文章が読みやすく分けてまとめられており、各項が短い。この本全体はその説得の積み重ねである。
 よい本だと思う。この本自体が、読みやすく、本を読むことの大切さをきちんと伝える本になっている。久しぶりに一冊、本を読んだなあという気にさせてくれてありがたかった。

 日本の国のため「読書は義務である」といった記述が見られるが、この本の文脈ではそんなに突飛な考えではない。その部分だけ採り上げられたら、著者も反発するのではないか。
 キリスト教圏である欧米がthe Bookの読解によって社会道徳が成り立っているのに比べ、日本という国は伝統的にbooks、多様な文物を民衆が読むことによって社会を成り立たせてきたのでは、と説く。欧米は聖書一冊の内容理解で済むから民衆に読む力は必ずしも必要なかった。教会で説教を聴いてもいいのである。日本では近世から戦後に至るまで、読む力が倫理や国力を底で支えてきたのだろう、読む力が崩壊しつつある現在、様々な形で危機が表れている、と言う。
 国会や文科省に「読書は義務である」と言われ乱暴な法律でも作られると反発したくもなる(gomameさんところのこの辺の記事とか。ただ、後続記事もよく読んでください)。しかしこの本は、なぜ読書が人間にとって必要か、そのためにはどんな具体的な訓練をしたらよいか、具体的な提言があるからよい本であると賞賛したくなる。

 穴のある「読み」かもしれないが、ひさしぶりの「まともな読書」復活の記念に、記す。

 斎藤孝氏は言うまでもなく、『声に出して読みたい日本語』で有名な著者。
 育児中の親には、NHK『にほんごであそぼ』の監修者としても有名。番組中で出てくるかるた、いつか商品化するとは思ってましたが、NHKのショップで見かけて買っちまいましたよ。

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2005.06.16

ある図書館の使い方(1)―『シスの復讐』とその予約

 読書ふっかーつ!なんて言ってみたので、自分の日常的な図書館利用のことを書いてみたい。前から書こうとは思っていたんだ。
 出版界の人に読まれたら、いいのかねえ、なんて思うところもある反面、そうせざるを得ないわ気にしてたらたまらん!という気分もあるので、紹介してみる。

 帰宅途上に本屋に寄り、『STAR WARS エピソード3 シスの復讐』のノヴェライズ(ソニー・マガジンズ,2005.4.)が目にとまった。
 時系列にクラシックシリーズをあとに控え、主人公がフォースのダークサイドに堕ち、ダース・ヴェイダーとなる謎をシリーズの終幕にもってくるわけだし、ルーカス監督も思わせぶりなこと(涙なくしては観れない映画だとかなんとか)を言っていた。手に取ってみると、なかなかに複雑な心情が描写されていて、読んでみたいと思わせられた。
 スターウォーズのエピソード3は、エピソード2との間に多くの挿話が正伝として入っているので、その意味でも劇場で見るだけでは十分理解できないところがあると思っている。しかしこの本、パラパラとめくってみただけでも、エピソード3に描かれるドラマだけでもけっこう考えさせられるものがある、という手応え。また、ストーリーを4月に刊行しても、劇場で「魅せる」自信がある、そんな作品なんだろう。楽しみになる。
 しかし購入しなかった理由は、後半で書く。

 帰宅して、図書館に電話で予約を入れた。職員の方の負担を減らすために、OPACで所蔵を確認、資料番号を控え、利用カードを手元に置いて、サラサラと。電話で3分ほど。
 実のところ、このご近所の図書館は電話で予約を入れて、本を借りるためだけにしか使っていない。その使い方のためには、一番効率的なやり方である。

 こんな使い方しかしないのも、単館の図書館として魅力がないからだ。来館して意味のある開架の棚作りどころか、蔵書構成は自治体の中央館・分館を含めたものとなっているらしい。そうなると、本との出会いの場としては図書館はまったく機能しない。自分の居住区に関係のない中央館・分館を含め、単なる閉架書庫と変わらないのである。
 目録の機械化・ネットワーク化もいいが、肝心の、物理的な場としての不合理を感じさせてしまうのでは、こんな使い方しかできないのである。メリットは職場からでも家からでもOPACがひけることくらいなのだから。取りおいてもらった資料をカウンターに取りに行くだけ
 その上、人口比との関係からすると、わが自治体は図書館の数があまりにも少ない。単館としての図書館、場としての図書館は、来館してみても確かに貸本屋・マンガ喫茶状態である。密集状態で並べられたパイプ椅子は満席(簡単な机くらいほしいもんだ…)、回転が早すぎる書棚。棚での本との幸せな出会いどころではない。

 翻って、読者、書店利用者の側の論理も書いておこう。
 スターウォーズの小説シリーズは長大なものばかり、正伝に近いものもハードカバーがほとんどだから、手が出ない。
 ハードカバーに「普通に手が出ない」というのには、二つ理由がある。
 ひとつは、友人がそうなのだが、本は好きでもモノを置く場所に困る(おそらくご夫人から言われてお小遣いも厳しいのだろう)ので、「文庫しか買えない」層がいる。これは意外に多いのではないか。
 もうひとつ、特に趣味や関心領域があって、もうそちらの購入をカバーするのでいっぱいいっぱい。ちょっとした読書のためにお金をまわせない。自分の場合は図書館学関連・法学関連の専門書、ヴィクトリア文化の資料、これにヲタク関係となると、もー厳しい。

 今回書店の棚を見て、『シスの復讐』だけでなく「またツライなー」と思ってしまった。「エマ」の影響か英国の社会・文化の専門書籍、「指輪物語」関係も新たな展開を見せていて、手堅い出版が続いているようだった。全部買っていたらきりがない。どうしよう…。
 新刊書店ではやむにやまれず、携帯電話のデジカメで奥付や背表紙を撮っている。図書館だけでなく、新刊書店の使い方も、現物と書誌事項を見せていただく場になっている。その後の入手経路は別途検討するからだ。図書館、オンライン書店とか。

 もちろんこの新刊書店さんでも、雑誌講読を頼んでいたり、そのまま買うことも多い。
 ごく最近では、福井晴敏『月に繭 地には果実』上・中・下,幻冬舎文庫,2001.の購入がある。「ターンエーガンダム」ノヴェライズの文庫版なのだが、あっという間に店頭からなくなってしまって久しく、ずっと探していた。今年は福井晴敏関連映画が3本も封切られるので、その余波で出してきたのだろう、目にしたときには即レジへ。なくなる前に確保、購入した(いまbk1で確認したら合本単行本が出ているじゃないか!ひどい!)。

 今回『シスの復讐』の予約は既に23件入っていた。楽しみにしている劇場シリーズとはいえ、自分の主領域でないとなると遅くても全然かまわない。ちなみに、ちょっと前に『荊の城』を予約したときは50件を軽く越えていたような…。
 こんな実情を無視した形で、出版界や著作者に「図書館貸本屋」説を安易に唱えられたりするのはたまらない。
 読者も苦労しているのである。読む自由、選択肢くらい残しておいてほしい。
 『シスの復讐』だって、読みたいと思わせるだけの、魅力のある出版であるだけマシである。「それ以外」をよく考えていただきたい。多くの人にほしいと思わせる本が少ない反面、手許に置いておきたい、購入したいと思う『月に繭 地には果実』だって、手に入らない業界なんだから。オンライン書店だって手に取れない以上万能じゃない。
 そういう様々な不自由があることも、よーく、考えてほしい。権利主張ばっかりしている連中は、「読む」ということをどう考えてんだろう。

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2005.06.17

ある図書館の使い方(2)―まずは、告白から

 昨日は、自分の図書館の使い方を話題にした。「近くの図書館は主にOPACと電話リクエストでしか使っていない」というもの。
 今日はまた、「エーお前図書館員なのにそんなことしていていいのかよー」と言われそうな使い方を「告白」する。
 結局「貸出」って社会的にはどういうことなのさ、ということを考えてみようとするためだ。ついでに言えば、「予約」と「開架」、「複写」ということも。

 返却期限の来た同じ資料を、何度も貸出してもらっている。
 「告白」というのはこれだけである。
 自分の属する自治体の図書館のルールでは、「再貸出」は一回しかできない。この再貸出は、予約が付いていようがいまいが、既に今借りている図書を再度貸し出す手続である。返却期限が来ていなければ、依頼すれば手続をしてくれるが、先述のとおり一回だけである。
 しかし、次のような運用をしている。

 <返却カウンターにて>
 「この本、もう一度借りたいんですけど…」
 「わかりました。予約が入っていなければ、(返却処理をして)再度お貸しします。」
 (返却処理をする)
 「予約は入っていませんね。貸出カウンターで貸出の申込をしてください。」

 ポイントは、予約の制度。
 既に借りられている本を借りたい人は、予約をすればいいのである。
 ほかの利用者にも機会は与えられているのだ。実際、予約が入っていてまた借りることができなかったことはある。
 別にこのような運用は自分だけにしてもらっているわけではなくて、返却カウンターではよく見られる光景となっている。

 このようにして、返却期限内に返却し、予約が入っていなければ、(少々刺激的な言い方をすれば)半永久的に同じ本を借り続けることができる。
 返却期限は、2週間。同時に借りられる本は5冊。

 それで自分の場合だが、実際にたいてい、同じ本を2〜3冊は、繰り返し借りている。
 時期やモノによっては、半年以上借り続けていることもよくある。
 「エーお前図書館員なのに…」と難ぜられるとすればここだろう。

 しかし。しかしだ。次回に続く。

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2005.06.18

ある図書館の使い方(3)―論難に対する言い分・一と二

 前回、勝手に設定した批難に答えていくことにする。次のように設題。

 「予約制度があって、返却期限内に返しているとはいえ、繰り返し同じ本を借り続け、ほとんど占有しているいるかのような状態は好ましくないのではないか」。

 以下、借り続けている状態を正当化するための言い分を述べてみる。

 第一点。

 前回も触れたが、予約の制度でほかの利用者にも機会は与えられている。
 殊に、(1)の記事でも書いたように、「開架で品揃えを見せる」ことが有効に機能していない図書館では、開架に大きな意義がない。
 自分が使っている図書館の本ですら所蔵の有無はOPACで確かめるほかない。同じ自治体のほかの図書館であるかどうかもやはりOPACだ。もちろん貸出中かどうかも、予約の数でさえも「インターネット上のOPAC」で簡単に確認できる。こうなると、どこまでも「閉架式の図書館」に変わらなくなってくる。
 かつ、予約によって機会の平等は与えられているのだ、借りたい人は躊躇なく予約の手続をすればよろしい。
 開架であればすぐに借りられたかもしれないのに、という反論は、無意味である。他館本であれば取り寄せに「一週間は見てください」ということになるし、自館本を借りられていたとしても、前の借用者がどのくらいの期間(何度も)借りていたかは関係がない。
 差があるのは、数日間書架にさらすことによって、「開架による書棚での現物との出会い」が起きるかもしれない、というところだろうか。それがどれほど重視すべきものか、ということはこれまでも語ってきたし、次に挙げる第二点はいくぶん覆す論拠になろう。

 第二点。

 長期間占有していることを難ずるのであれば、不思議なのは、5冊を2週間で読み切ることができるという発想の方である。学生や児童書ばかりじゃあるまいし、必ずしも全部期間中に読み終えることができるとは限らない。
 もちろん、貸出最大上限冊数は、その冊数を読めと言っているのではないことはわかっている。そういう話ではなくて。

 図書館から「借りる」という行為は、どういうことだろうか?なぜ「借りる」のか。

 第三点にも関わるが先取りして言えば、「借りる」決断を振り返ってみると、全部読み通すかどうかわからないけれど、手許において自分に読む機会を確保しようとしている。
 「借りる」という行為は、「読む」という行為とイコールではなく、「手許にいつでも読めるよう確保する」という行為である。「借りる」と「読む」は混同してはいけない。
 「借りる」はむしろ「買う」行為に近い。但し、どこが類似している点であるかを見誤るべきではない。「手許に置いて読める機会を確保する」というところである。類似点を見誤ると、今度は「借りる」と「買う」が同じだ、というわけのわからない議論に巻き込まれていく。

 自分も、図書館からの貸出と自分で所有物として購入することとの線引きをどこにするか考えた。結局現状では、入手できる本は入手できる限り購入することにしている(これも幸い、仕事があるお陰だ)。
 図書館の本では、いざというとき使えないことがあって、不具合があるからだ。期限を越えると再度の貸出もできないなど、ペナルティにも気を遣う。その点、自分の本であればいつでも好きなように使える。
 自分の周囲にはよい古書店がないのだが、現在ではAmazonで古本も扱っていて、専門書でも「まさか手に入れられるとは…!」という経験が何度かあり、助かっている。

 したがっていま借り直し続けているのは、自分なりにもう手を尽くして、購入できない本ばかりになっている。図書館ならでは、「図書館に頼るしかない」本だと言える。
 そうなると、なおさら、この同じ"占有"の意味が、違う様相を呈してくる。購入しようと思ってももう入手できず、しかたなく図書館の本をお借りして、手許に置いているのだ。どうしても手に入らない、その「図書館の本」に意義や必要性を見いだしていることを強調しておきたい。
 入手できる本を入手することにこだわっても、図書館の意義はやはり存在するのである。
 当たり前のことのようでいて、…当たり前かもしれませんな。まあ、実感として。同じことを感じている方もおられるのではないですかな?

 しかし、なぜ手許に置き続けるのか?
 その第三点めを次回に。

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2005.06.19

ある図書館の使い方(4)―論難に対する言い分・三、特に複写につき

 第三点めとして、例示として大学図書館の利用に顕著に見られる特徴を指摘しておきたい。図書館一般の利用形態としての「複写」と「著作権」の問題に関わる。

 大学図書館の貸出制度について利用の点から見てみよう。
 返却期限は公立図書館よりも少々長いことが多いが、利用する資料の性質、学術性・専門性を考慮すると、上記の二点め、読み切り、利用しきるのに返却するまでには充分な長さとは言えまい。まして、貸出冊数の上限は公立図書館の倍以上であることもある。

 翻って、大学図書館の資料はどのような性格のものであるか。
 利用目的は「学術研究」が主であり、そのため、購入して入手することは既に不可能な資料が多い。
 長期的に貸出を繰り返している資料があるとすれば、前回述べた自分のように「必要性を感じられている資料である」可能性が高い。

 このような性格の資料であるとすれば、大学図書館の貸出というサービスは、何のためにあるか。どのような形態になるのか。
 資料の性格に比して返却期限の相対的な短かさから考えられるのは。
 「繰り返し貸出をする」か、「複写のための貸出」である。

 返却期限の問題は、大学に限らず、図書館関係者の共通の了解となっているだろうか?
 個人的に入手できず期限内に利用しきれない資料は、繰り返し借りるか、複写するしかない。
 当たり前のことである。
 しかし、返却期限の長さについては一律に決められ、それは比較的短い。最近は特に短いと感じられる。
 社会人になっての読書を考えればすぐにわかるが、短いのである。週に一度行くしかできないのに、2週間では。

 いつ読むか。
 「痛勤電車」では文庫や新書ならまだしも、単行本を読むことは、困難である。じっくり読み込むどころか、立って片手でつり革にぶら下がりながら片手で単行本を保持して、あの混雑の中で読むことは相当な「力」が要る。いや、そのような根性をもたれているのであろう、実践者を見かけてはいるが。
 単行本などはとりわけそうだろうと思われるが、通勤途上でなければ自宅にいる間、出勤前か退勤後しかない。
 それで利用しきれるだろうか?前回、「もちろん、貸出最大上限冊数は、その冊数を読めと言っているのではないことはわかっている。そういう話ではなくて」と書いたが、実際的な、"こういう"話だ。
 利用しきれない場合、どうするか。複写の場合を考えてみよう。

 図書館における複写の基本から。
 図書館における複写は、著作権法の例外として条項が特に与えられ、「著作物」の「部分」しか複写ができない。
 全冊複写は例外から離れて、著作権者の許諾が要る。市場で入手できないことは必ずしも理由にはならない。

 しかし、実質上、貸出が可能な普通の図書館の場合、利用者は抜け道をもっている。
 著作権法の例外規定となっている「個人の私的複製」の条項だ。図書館の構内を離れて利用者がコンビニ等で複写する分には「私的複製」の範疇に入ってしまう。私的複製であれば、著作権者の許諾は不要である(事実上というか社会常識上は一般規定だろう)。
 横浜市立図書館がコピー機を構内に設置して「私的複製」と位置づけると「強弁した」ことが出版界に叩かれたことがあったが、くだらない議論だ。名目としての法律上はもちろん問題なのだが、実質上、利用者は貸出をしたあとに全冊複写を図書館の構外で野放図にできるのだから。空文化も甚だしい。横浜の例では貸出できない資料の複写がどうなるかを問題にすべきだが、貸出できる資料については、構内での複写は利便性の向上以外の何でもない。

 利用しきれなくても、返却期限は淡々とある。となれば、入手できない図書館資料は複写される運命にあるとしか言いようがない。殊に今回述べた大学図書館は複写資料センターのようなものだ。
 自分が同じ本を繰り返し借りる理由はこの辺にある。少々自分勝手な言い分なのだが。
 まず、「利用」と「読む」ことは別である。そして、「借りる」ことと「買う」ことは似たところがあると言った。では、「コピーする」ことは「買う」ことの代理となるか。自分は、必ずしもならないと思う。本が、装丁された現物として「そこにある」ということは、「読む機会の確保」だとも言った。本の「複写物を読む」ことは、「本を読む」代わりだ。代わりなのだが、その本のどこが自分にとって大事なところとして判断する(読む)かは、全冊複写をしておかない限り、確保されない。
 では、全冊複写をするか。
 全冊複写をすることを許容するかどうかが、「繰り返しの貸出」という選択肢を選ぶかどうかの判断の差となるだろう。少なくとも自分は、そこで判断をしているようだ。

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2005.06.20

ある図書館の使い方(5)―かいつまんで言うと

 前回が特にわかりにくいので、補いつつ再論。6/21公開。

  • 自分の近隣の公立図書館には、開架の意義を見いだせない。蔵書構成が自治体の図書館ネットワーク全体でやっているらしいため。
  • 上記"閉架式"図書館の活用はもっぱら、ネットワーク化されたOPACと電話による予約である。

 本文中では述べなかったが、上記のような利用は書誌事項からのアクセスしか考えられていない。
 情報と出会うためにこそ有効な、「場としての図書館」が機能していない。即ち、次の観点が欠落している。「モノとしての本」の、人間にとっての多面的「情報源」としての意味。そのモノの集合体としての蔵書という、やはり複合的な「情報」としての意味。
 「蔵書構成」と「開架」は非常に重要な機能である。OPACは既知の書誌事項、点としての資料を求めるには便利だが、主題から調べるためには「目録」の機能、書誌事項だけでは充分とは言えない。物理的に手に取れる資料が、文脈をもって複数物理的に眼前にあることが、重要なのである。
 「場としての図書館」ということばには、本来の、より情報学的な意味を付与する必要がある。群としての蔵書の効用は、図書館であればこそ強力な機能を発揮する。それに対して、点としての資料要求は購入のような代替措置も考えられる。

  • 本を「借りる」という利用形態の意義は、「手許に置く」ことによる「読む機会・可能性の確保」にある。「読む」と同義ではない。
  • 「手許に置く」ことによる「読む機会・可能性の確保」という点でのみ、「借りる」と「買う」は類縁性がある。「買う」ことも「読む」と同義ではない。
  • 「借りる」ことは制約が伴うので、自己の所有物としてしまい読む自由を完全に確保する点で「買う」方が利便性は高い。どちらを選択するかの判断基準は人によって異なる。自分は入手できる本は購入する方が多い。
  • しかし、市場で入手できない資料は多い。自由市場がどこにでも誰にでも転がっているという議論は現実的ではない。図書館は、共有物ではあるが(であるからこそ)、組織化された資料の集約物として、資料の確保=利用機会・可能性の確保を社会的に保障している。端的に言うと、探す手間(コスト)が軽減される。本当に入手が困難な、一般の市場で入手できない資料について、この図書館の機会確保の保障効果は発揮される。
  • さらにしかしながら、共有物である以上、返却期限等の制約は免れ得ない。

  • ある利用者にとって、図書館でしか利用できない資料の「貸出」はどのようなサービスか。期限内に読了・利用が完了できない場合、読む機会の確保という観点からすれば、社会的制約のもと「繰り返し借りる」か、「複写する」しかない。
  • 複写は「借りる」「買う」の代替となるか、というと、「読み」という観点からすると必ずしも代替とならない。「開架」の項と同様、どの部分が必要であるかという判断は、意味、文献全体の文脈の解釈を伴う。
  • したがって、「複写」によって「買う」に近い読解の機会の確保を求めるとすれば、「全冊複写」という判断になる。
  • しかし、図書館資料の全冊複写は著作権法上の抜け道以外の何でもない。自分は重要視していないが、著作権を論ずる者が無視したり罪悪感をまったく感じなかったり、具体的な解決策・妥協案を考案しないのは理解に苦しむ。
  • そんなことよりも自分がより重要視するのは、共有物であるはずの資料が、複写をすることによって物理的な損壊を確実に招くという点である。認知型の「情報」モデルからすれば、各人の内心に生ずる意味解釈の前提となる記号を記した物理的資料が消失することは、非常に問題があると言わねばならない。

  • 自分が同じ本を繰り返し借りるのは、全冊複写に対する抵抗感からである。なるべく購入もするけれども。

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2005.06.21

TVアニメ『英國戀物語エマ』最終回を迎える

 あかん。絶賛だ。
 つーか、切ない。

 土曜出勤の代休で、月曜は休み。日曜は家族で海際に行く。その間、昼晩と、DVD/HDDレコーダに録画した全12話をDVD-Rに焼かせていた。
 DVDプレーヤが付いているテレビデオで、ちゃんと焼けているか検証。検証と言いつつ、後半を中心に見入ってしまって…。

 アニメ化は原作の雰囲気をとても大切にしていた。
 演出はもちろん、美術もかなりよくやっていた。
 もちろんキャラデザインや声優さんはほとんど違和感なし。
 あと、音楽だ。アニメの音楽というのは、雰囲気を決定づける。サウンドトラックが先週発売になっているはずだが、単品で聴いてもいいらしい。

 子どもの頃、『宇宙戦艦ヤマト』音楽集のレコードを、ドラマ編と間違って買ってからというもの、サントラを買うようになったものだが、実写映画と違って作品に対する影響は大きいと思う。
 ファーストガンダムは大成功だったし、逆にΖは失敗だった。続いて同じ作曲家を使った「ガンダム 逆襲のシャア」は同傾向の曲想を使っていながら迫力が違っている。
 「エマ」アニメ版の音楽は、よくドラマに溶け込んで引き立たせていた。

 原作は8月末に6巻が出る予定。アニメはその2巻までを描いている。
 1クール12話分しか予定していなかったが、下手な改変をしないでじっくりと、雰囲気を壊さずに2巻までをていねいに描いたことは間違っていなかったと思う。

 前半からうまいなあと思わせる改変、というか編集が入っていたのだけれど、本筋は変わっていなかった。後半、特に10話に少々原作とは違う展開が入る。
 その影響なのだけれども、最終回は原作と違う盛り上がり方をして…。

 これで、最終回だけで10回くらいは観ているなあ。目頭が熱くなってくる。
 へたなまとめかたをされるよりも、苦さがまた、じわっとした感動を誘う。原作の方は、○○○○○○○になんとかもっていこうとしているようだが、これまた楽しみだ。いかなフィクションとはいえ、歴史ものは考証が前提だもんね。

 ちなみに、DVD特別版のボックスの背を見て気がついたこと。英訳は"Victorian Romance Emma"となってますね。以前書いた記事も、そう間違ってなかったかな。

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2005.06.22

Musical Batonがまわってくるなんて

 いやー、人並みに常連さんがいることの証明じゃないですか〜。ちょっと嬉しい。G.C.W.さんふってくださってありがとうございます。
 Musical Batonについてはまずははてなと、絵文禄ことのはに詳しかったです。
 ココフラッシュの標準カテゴリ「音楽」を見ていたら半日であっという間に増えていました。ネズミ講やらチェーンメールとはよく言ったもんです。まあ、読書日記さんところみたいに自分のところで止めてもいいことになっているし、楽しめれば…。と言っても自分の音楽生活って恥ずかしいなあ。
 中・高生の頃はクラシックのエアチェックをやっていたもんです。VTR->DVDだけじゃなく、録りためたテープをHDDにそのうちメディア変換しようと思ってるんですが。

Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

 614.5MB、133曲。「iTunes 1.1 for MacOS8」とまあ、パッチを当てたアプリで、ロートル機でもmp3を楽しんでます。ちょっとした外付けのスピーカーで全然音が違いますね。

Song playing right now (今聞いている曲)

 さっきまでなら『英國戀物語エマ』のオープニングテーマ「Silhouette of a Breeze」と答えるところだったんですが。繰り返し観ていたら子どもも気に入って、鼻歌で憶えてしまっています。
 いまはバックグラウンドで『機動戦士Ζガンダム』の名作「シンデレラ・フォウ」「灼熱の脱出」が流れています(笑)。HDD->DVDに一括ダビング中はほかの媒体の操作ができなくて残念。まだデッキの操作に慣れないのでほんと試行錯誤。「Ζ」の演出にイライラするかと思ったら意外にいい。BGMの使い方にせよ、アムロの声とか。ドラマも泣ける。あっ「銀色ドレス」が流れてきた…。

The last CD I bought (最後に買ったCD)

 正直に答えます。先日観に行った『機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者』テーマソング、Gackt"Metamorphose"。未開封のまま。
 耳に残るほどにまで聴いていないのですけれど、映画全体の新しい雰囲気に貢献していた、悪い曲ではないです。

Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

1) 熊谷幸子「風と雲と私」 以前の記事にも書きましたが、TV『夏子の酒』のテーマ。サントラ全体で好きです。
2) 菅野よう子「AFTER ALL」 『ターンエーガンダム』劇場版のテーマソング。菅野よう子のサントラも大好き。
3) ROLLY「DEEP BREATH」 平成ライダー第二作『仮面ライダーアギト』エンディングテーマ。ものすごい気合いが入ります。これだけは途中から見始めてハマッたんだよなあ。今でも2chで古株・新規さん問わず好評価のスレッドが続いています。
4) ダ・カーポ「空からこぼれたStory」 TVアニメ『名探偵ホームズ』主題歌。作曲は羽田健太郎。
5) インターネットラジオ「MOSTLY CLASSICAL」 iTunesにデフォルトで入っていたチャンネル。"relax...it's good for you!"とあるとおり、気分のいいクラシックが流れてきます。

Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)
 一応、まだまわってきてないかなーとサイト内検索かけてみたりしたんですが、ダブってたらすんません。もちろんお忙しかったり楽しめないようでしたらパスで。

 きょうもつんどく中さま
 Amehare MEMOさま
 「ささりんどう流星火」内 篠青いろはさま
 Library & Copyrightさま
 つらつらぐささま

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2005.06.23

Silhouette of a BreezeとMetamorphoze

 Amazonからやっと、待っていた品が届いた。

 梁邦彦『英國戀物語エマ オリジナルサウンドトラック Silhouette of a Breeze』

 繰り返し聴く。
 熊谷幸子「夏子の酒 オリジナルサウンドトラック」同様、癒される系統の曲想でまとまっていて、BGMとして常用するアルバムとなりそうだ。元のTVのサントラとしてもいいが、独立したアルバムとしていいってこと。ウチの記事にいただいたTB先でコメントを書いたサントラ「ガンダム 逆襲のシャア」もちょっと近い。
silhouette_of_a_breeze 基本的に、オープニングテーマ"Silhouette of a Breeze"、"Emma"、エンディングテーマ"Menuet for EMMA"のバリエーションが多い。多いんだけれども、Piano ver., Recorder ver.と違いをかみしめつつ聴きながら、「ライナーノーツがほとんどない…」とか「でもジャケットとインナーのイラストは森薫センセ力入れて描いてんなあ」。
 …ハッ!?しかして、原作者森薫自身、エマのテーマとしてかなり気に入ってしまっていたりして…クラシック通みたいだし、などと妄想。森薫嬢は「エマ放送協会総合ラジオ」にたまに飛び入りで登場していて、第16回の様子ではかなり慣れた感じ。今回のアニメ化には親近感がだいぶあるような印象を受けています。
 あーしかし、ほんとエンドレスで聴いていて癒されるなあ。

 Musical Batonの記事で紹介した、映画『機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者』テーマソングも開封して聴いてみた。劇場で第2作めのまた特典付前売券とともに、購入したものだ。

 Gackt『Metamorphoze -メタモルフォーゼ-』

 かつてのテレビシリーズの「Ζ・刻を越えて」「星空のBelieve」「水の星に愛をこめて」「銀色ドレス」とはまた違って、いい。
 Gacktの低い声を活かしたオーケストレーションが、前向きな広がりを感じさせてくれる。正直、これまでのガンダムらしくなくていい(SEEDの楽曲はまたミーハーっぽさも感じられて食わず嫌いだ)。
 Gacktは今回の劇場用に用意した歌ではないのだそうだが、関係誌に掲載されたインタビューで語っているとおり、映画終盤クライマックスでの使い方に、当人が「鳥肌が立った」そうである。実際に鑑賞してみて「わかる」話だ。
 自分としては、BGMとして聴ける"音楽"なので、これまたiTunes入りである。

 しかし、Amazonの今回の配送遅れにはどういうワケ?と驚いている。
 発売前に予約を入れてあり、6/15発売。発売後の状態を確認すると「6/16-17配送予定」になっているにもかかわらず、「未発送」のまま。DVDも同時予約したけれども、分割発送にわざわざ設定してあったのに(ヘルプも何度も確認した)。DVDは故あってAmazonからは予約を取り消したが、そうしたらなぜかすぐに届いた。関係あったのだろうか?

 『アマゾン・ドット・コムの光と影』という本が話題だそうで。
 自分も図書館に勤めていて、サービス提供に至るまでの時間・日数に配慮させられることが多くなってきた。成果物を出す前の裏方作業に思いを馳せると、Amazonにせよbk1にせよ、ご苦労なことだと思う。まして、現場で働く従業員が、24h勤務態勢、低賃金だともなると。
 遠隔型という特殊性を差し引いたら、ただの大倉庫をもった書店さんなんだよな。でも、配送料無料という形の割引サービスがすごいことを考えると、この繁栄ぶり、誰が儲けているんだろう。

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2005.06.27

ある図書館の使い方(6)―まわりくどいけれども主旨は

 …すみません。(5)でいただいたコメントで、元々言いたかったことを言っていないと気づきました。だから論理の飛躍がある。

 本シリーズの出発点、ターゲットはこちら。

 実際に自分は、一定の合理性やささやかな理念にもとづいて図書館利用の方法を選択している。この自分のような利用方法、「彼ら」は理論的に説明できるんだろうか?
 利用方法の選択肢、それは「全冊を含む複写」と「繰り返しての貸出」。自分の選択は後者だ。

 「彼ら」のひとつは、昨今権利主張かまびすしい著作者、出版・流通業界。
 いまひとつは、図書館学における「貸出」を経済学的に分析してみようとする学派。
 彼らは方法の点で共通している。同じことを言ってしまうようで恐縮だが、「貸出」と「購入」を経済学的に同じ分析の俎上に載せるのである。
 但し、図書館情報学における経済学的分析の目的は、逆に出版業界に対抗・説得するための立論であって、「貸出」を経済学的に説明しようとしても限界があることは気がついているようだし、その上で有用性を探っている。それは認めないわけにいかない。
 しかしそれでも、図書館学においても貸出点数は統計指標になってしまっているし、そのことが何を意味するのかは自覚的であった方がよい。そうでないと設置母体(自治体)に利用が多いことを主張する(…)ために作られた統計が、出版界に逆に利用されたりするからだ。また、図書館自身が何のための指標かわからなくなるようなバカバカしいことになってしまってもいる。
 そういうわけで、お二方を手荒にもひっくるめさせてもらって、問うて(みるようなものを書いて)みたいと思った次第。自分のような図書館の使い方って、ヘビーユーザならやってると思うし、それが想定外だとするとそりゃおかしいんじゃねーの?という単純な理由。
 自分はここでは、図書館員でありながら、図書館の利用者、市民の視点でいきたいのである。

 「全冊を含む複写」と「繰り返しての貸出」。
 自分の選択肢、「貸出」の方を語ってみる。

 出版業界の極端な論者からすると、一冊借りられるとその分その本一冊を買ってもらう機会が失われたということになるらしい。
 ストレートに問おう。自分のように、読み切れなくて、というか積ん読状態になって未読のまま、借り直す。それが繰り返される、とすれば、逸失利益はどれだけのものとなるのだろうか?

 極端な論者ではなくて、ていねいな論者にシフトしてみる。公貸権のようなものだ。貸出一回につき、これだけの金銭的な著作者支援を、という議論も、以前論じた「経済的」制度設計のレベルの話。
 やはり問うてみよう。未読のまま、本を再度借りるというときに、この「貸出」と経済的評価の関係はどのような観点から行われるのか?以前「法と経済学」の議論を見たときにも触れた「経済的・政策的な制度設計」以上のなにものであろうか。

 きちんとした議論もある。本シリーズで挙げたように、「貸出」は「読む機会の確保」であって、「購入」と類似点がある。違いは、「購入」によってもたらされる「所有」と対比される。「貸出」は、共有物(他人の所有物)を一時的に占有してしまうということ、その占有には自分の所有物ではない故の制約がある。
 ただこの議論も、実際的ではあるのだけれども、「貸出」「購入」概念の間の関連がよくわからない。例えば、自分が紹介したような方法、「予約制度があるからといって半永久的に占有していること」を「よくない」とする根拠は、即座には出てこないように思われる。

 単純に言えば、「本を借りること」って、そんなに悪いことなんだろうか。自分でパッケージを購入してしまうことのメリットって、充分すぎるほどあるような気がする。
 入手できない本がほしい―所有できたら、自分の好きなようにできる。これは当たり前。だけど、極論を言ってしまうと、貸与権なんてのは、交通法規とどこが違うんだ?反則金を徴収される論拠が「誰にでも納得できる」ものではない気がする。違和感の在り処は…「ルールを決めなくちゃならないから決めました」、そんな感じがするところにある。

 そんなことを考えていると、経済学的、疑似経済学的な議論はなんだかあやしい。腑に落ちない。
 これが、このシリーズを書き出した発端である。主旨としては以上。

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2005.06.28

ある図書館の使い方(7)―複写にまつわる二つのDouble Standard : 1

 (6)でシリーズの主旨はひと区切り着いているのだが、「複写」についても語るべきことが残っている。
 また、(5)で左近さんからいただいたコメントで論理の飛躍に気づいたと述べた。これは「貸出」だけでなく「複写」に関係している。
 これらを「複写」にまつわる「二つのダブルスタンダード」と称して、書いてみよう。ダブルスタンダードは上品に訳すと「二重の基準」だが、「二枚舌」とも言う。

 ひとつめのダブルスタンダードは、(6)の続きで、「繰り返しての貸出」を正当化する論拠。
 難ずるのは、著作権者を守っている"ふりをしている"図書館。もしくは、品切れ・絶版を起こしている出版者。

 これまでのシリーズで、「全冊複写」か「繰り返しの貸出」かの選択を迫られてしまうのは、いくつかの理由で「返却期限」が短い場合である、と述べた。それから前回、「繰り返しの貸出」って変なことかなあ?普通のことだと思うんだけど、ゴチャゴチャ言ってる人たちさ、ちゃんと説明してよ?と言いたかったんだとも述べた。
 この矛先を、図書館に向ける。
 だってさ、仮に「繰り返しの貸出」が変だ、おかしい、ということになるとするとだよ。利用者はどうすればいい?どうする?

 実際、何度も借りるのは面倒なんである。返却期限を気にしなければならないし。図書館という建物まで足を運ばねばならないし。
 「複写」してしまった方が楽だ。
 もしかすると、何度も借りる方が普通じゃないのかもしれない。殊に、研究費が出る大学図書館では複写した方がお得(もちろん、学費を払っているわけだからタダではない)。
 だとすると、図書館(殊に大学図書館)は、構外での私的複製を暗に認めているという疑念がわく。ダブルスタンダードというのは、この点だ。もちろん、部分的な複写がありうることは当然に考えられる。それくらいは著作権法の許容範囲だろう。
 しかし、特に入手が困難な資料の場合、コンビニコピーのお金をかけてまでも(東大本郷キャンパスの前にはコピー代の安さを競う看板が並んでいる)、「一回借りて全冊複写」する方が実は当たり前なんじゃないのか。それこそが、普通の「図書館の使い方」じゃないのか。

 図書館が、図書館自身が複製行為の主体として関わらない、構外での私的複製を暗黙の内に前提し、「貸出は全冊複写のため」と考えているとしたら。
 しかし、図書館員は考えないようにしているだけだ。図書館の構外の話だ、関係がない。

 自分は「繰り返しの貸出」を選択する理由として、著作権ではなく、むしろ資料保存の観点、それも共同所有の観点を挙げた。
 しかし、図書館自身が「繰り返しの貸出」よりも「一回借りて全冊複写」を前提しているとしたら、著作権どころか資料保存、共同所有の考え方を覆す可能性すらある。
 であればなおのこと、「繰り返しの貸出」の正当化を検討する意義はあろう。

 (5)のコメントで左近氏が特に指摘してくれたのが、資料の毀損についてであった。図書館という共同所有の資料(正確には図書館の設置母体の所有で「共同利用」)を、自らの所有物と同様に毀損することは、「私的な行為」だと言える。左近氏の指摘のとおり、「一回借りて全冊複写」と「繰り返しの貸出」とが、どちらが本当に資料を毀滅する行為なのかは判断が難しいのだけれども。
 著作権などよりも図書館本来の、共同利用を前提にした資料の使い方、という思考は、大事だ。よく「図書館と子ども」を話題にして「図書館は社会のルールに接する、教育するにもよいところです」という話がある。ウチの子にも、カウンターに「これ、"貸して"ください」「はい、カードどうぞ」なんてやらせてみているが、「ここに並んでいる本は何でも取っていっていいものじゃないんだよ」と説明が必要だ。「自分の物かみんなの物か」なんてことは子どもでも理解しなければならない、図書館利用のイロハである。

 ちなみに、上記のような困った選択状況を作っているのは誰かというと…必ずしも図書館ではあるまい。入手が困難な資料についてまで著作権を主張するのは、普通の利用者は理不尽だと感じる。著作権という考え方はあれこれ理由をつけて制定法の形になってしまっているが、それが正当な"法"であるかどうかはまた別の問題である。
 現行の著作権法で正確なところを言えば、図書館における全冊複写も従う「複製のための一般原則」では、著作権者の許諾が無条件に必要だ。そしてさらに、著作権は著作者の没後50年間有効である。財産権として、遺贈される。許諾のために著作権者、著作権の継承者を探す労力は、利用したい者が一律負担することとなる。
 そもそも入手できればいいのだし、許諾が容易に取れたらいいのだ。それを図書館だけに帰責するような問題として論ずるのはおかしい。
 現行では利用者は、選択肢に直面し、違法とは言えない枠内で工夫して利用するしかない。
 著作者・出版者には、著作を公けに問うたことによる、「製造物責任」は生じないのだろうか?(笑)もちろん、道義的にであれ。

 ああやっぱり長くなってしまった…もうひとつは次回。

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2005.06.29

ある図書館の使い方(8)―複写にまつわる二つのDouble Standard : 2

 もうひとつのダブルスタンダードとは、読者・利用者たる自分の対してのもの。
 「全冊複写」と「繰り返しの貸出」という選択肢の決定要因を、「偉そうに言い過ぎだ」ということだ。「全冊複写」にも理はないわけではない。

 複写を考える場合、コンビニで複写する手間、どれだけの金額になるかという要素が、実は考慮に入っている。その上で手間とそれだけの額を払いたくないと考えれば、「繰り返しの貸出」を選択する。
 (6)でうさんくさいとか言っていた、「経済的な判断」をしているのだ。これまた、利用者誰でもが考える選択ではないか。
 裏返せば、この「経済的な判断」の結果、「それでも複写したい」ともなれば「全冊複写」もするだろう。そこに著作権とか資料保存とかへの考慮があるとは、必ずしも言いがたい。

 また、図書館資料の私的複製による「全冊複写」の利点も、実はある。
 著作権についてのそれではなくて、共同利用の制度である図書館にとって。
 主として「入手できない資料」を前提としてきたが、図書館資料は「共有」にもとづく制限が付いてまわる。社会的所有と、個人所有に近づいていく私的な利用との間で、予約制度(共有を保障するしくみ)や資料保存(私的利用による毀損)が問題になる。
 しかし、社会的な所有物を究極に「私化」してしまう輩がいる。(4)でコメントいただいた匿名の図書館員の方が紹介するように、ルール違反で占有し続けたり。おそるべきは入手できないからと言って、果ては「切り取り」。半永久的どころか「本当に永久に」私のモノとする輩がいる。ニュースでもよく話題になっていることで、ご存知だろう。
 入手できない資料を、社会的に共同で利用し続けるために、「複写」技術はきわめて有効だ。複製物ではあっても、「私が所有する」ことができるのだから。「入手したい者」に対するリスク回避のためには、「全冊複写」も図書館は黙認しないわけにいかないのかもしれない。

 それでは、出版者が常にストックを用意しておけばいいかというと、そうしてくれればありがたいのだが、それは無理というもの。オンデマンド出版とか、難しいんでしょう?
 無理なのであれば、読者が「読む」ための「機会を確保する」という図書館の社会的機能を、出版流通市場は自らの限界を前提にした上で、調和的な関係を模索すべきだ。
 copyrightとは、著作者のまさに複製に対する権利だが、「読む」ために公けにしたものではないのか。実定法上保護されるべき「複製」の意味は、立法者意思上のそれから大きく離れている。そんなに「読まれたくない」のならば、公表しなければよろしい。あれこれ言うならば、制度を整備してから言いたまえ(図書館で全冊複写の許諾を取ることを案内することが如何に理不尽に感じられることか!)。だいたいにおいて、publish=公けにしたものについて、肝心のpublic=読み手を無視したことを言い過ぎる。
 書かれたものが公けにある。様々な読者が、ただただ手 にとって読む。読んで、考える。そんな自然なことについて、(受け手の表現の)「自由」だの(知る)「権利」だの言うことすら奇異に感じる。
 横浜市立図書館の「私的複製」のためのコピー機設置を、出版者が驚き、怒りの文章を寄せていたが、改めて読むとなんだか変だ。複写は「読み」のバリエーションであったり、「読む」前提となるパッケージが入手できない不自由に対する、読者側の当然の工夫の延長線上にある。

 図書館における「複写」や「貸出」という利用の問題は、「読む」という個人的な行為を、社会的な制度でどう約束事を作っていくか、ということだと思う。
 著作者が権利を振り回す前に、市場にないパッケージを存在させている以上、市場でだけ入手するという発想を第一の前提とすべきではない。そもそも「市場」で「購入」して「所有」するという発想自体が「近代」の所産でしかなくて、例えばこの記事のようなインターネット上の匿名のコンテンツはどうなるんだろうか?もちろん、著作権法上では人格権はあると言われるだろうし、「読み書き」のためのコストの問題もなくはないが。
 そこには「書き手」と「読み」しかない。ネットのような画面の中だけの世界と対比的に考えれば、「読む」ためのパッケージ、物理的な資料を、いかにして社会的に流通させ、共有していくかという観点が大切であると気づく。

 自分が、このシリーズで紹介し、告白した「ある使い方」は、飛躍や二枚舌もあったが、それでもそんなことを考えての「読者側の主張」がこもっている。

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