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April 2005

2005.04.01

図書館と「法と経済学」(1) : 「法と経済学」と厚生経済学

 ちょっとからめ手から。図書館と関係なくないんです、これが。最後の方ですけど。途中で著作権そのものの話を入れます。

 林紘一郎編著『著作権の法と経済学』勁草書房,2004.という本が、出ています。
 自分としては、図書館関連の世界に、とうとう「法と経済学」が来てしまったか…という感想をもちました。「法と経済学」とは、法学の一学派です。自分が法学部生だった頃に一度ブームがありましたから、それから十数余年、遂に法学の外にデビューしてきたなという感がありますね。
 なお、このシリーズ自体は、最後の最後には林先生に対する「些少の私怨」が入ってますので、個人的な部分はよろしく差し引いてお読みください。

 ところで、図書館と厚生経済学という手法は、慶應義塾大学のグループがよく使っている手法ですよね。
 彼らの業績には賛嘆しつつも、知れば知るほど、気になっていました。自分が知っている「法と経済学」の問題とパラレルに、同じ陥穽に陥りはしないかなって。
 「法と経済学」が図書館と関係がないでもない、というのは、「法と経済学」は厚生経済学の応用問題として法学に導入されているからです。「法と経済学」は、経済学的な考え方を、法学に導入することによって批判を浴びている。なお、本シリーズでは厚生経済学と「法と経済学」とほぼ同一視してしまっています(きわめて乱暴です)。
 問題は、厚生経済学もしくはその応用のしかたにあります。図書館との関係は本連載の最後で、まとめます。

 「法と経済学」については、不充分かもしれませんが、自分は次のように理解しています(もう、理解からして偏っている、批判的と言えるかもしれません。検索エンジンとか手許の辞書ちゃんとご覧になったほうがいいかも)。

 法的判断に関わる利益を、経済学的効用に換算して、法制度を経済学的に説明しようとする学問。

 次回、その批判的理解。
 刑事訴訟法の先生と、交通事故の話と、自転車の違法駐輪の話が出てきます。

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2005.04.02

図書館と「法と経済学」(2) : 「法と経済学」の批判的理解

 まずご登場いただきますのは、かつて教えを乞うた人権派の刑事訴訟法の先生。彼が言ってることは必ずしも「法と経済学」に限らず、民法全体に対する憤りです。

 「民事上の損害賠償は、金銭賠償ってのが普通だよね。そもそも何か変だと思わないかい?」

 確かに、おかしいんです。金銭賠償ってのは、何か権利侵害があったものを、解決の方法を便宜的に金銭におきかえて、償うってことですから。権利侵害に対する請求はほかにも、原状回復請求とか、差止請求とか、ありますけどね。
 彼が扱っている刑事訴訟法の問題なぞ考えてみると、本当は「人権という利益を侵害しないようにする制度設計」がそもそもなくてはならないはずだ、と。毀たれた権利を金銭で贖うことが当たり前になっていること自体、非常に不思議なことです。
 これを「法と経済学」は(意地悪く理解すると)、元々民事法一般が「便宜的に」経済的な価値に換算する「しかない」と言ってるものを、制度設計上「積極的に法益を経済的価値に換算して解決する」ものと理解している、というように見えてきます。

 よく引き合いに出されますが、自動車保険の損害額の算定なんかは条件をポンポンと入れたら相場が出てくるんですってね。人間の価値を数値化する好例でしょう。
 それと、こんなニュースもあります。このひき逃げ犯の行動を量刑に対して合理的と正当化するなら、まったく「まとも」な行動になってしまうわけです。「身勝手」なんてのは記者の一面的な価値判断。制度設計からすれば、合理的に行動するから人数が増えているんでしょう。

ひき逃げ:人命より“処罰への恐れ”?昨年1年、過去10年で最悪53件/山形:MSN-Mainichi INTERACTIVE

 昨年1年間のひき逃げ件数が過去10年間で最悪の53件(検挙34件)に上り、逃走の動機として、飲酒や酒気帯び運転の発覚を恐れたものが増加していることが県警のまとめで分かった。背景には01年12月の危険運転致死傷罪の新設や02年6月の道交法改正による飲酒・酒気帯び運転の厳罰化があるとみられ、人身の救護より、処罰を恐れるドライバーの身勝手さが浮き彫りになった。

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2005.04.03

図書館と「法と経済学」(3) : 「法と経済学」の批判的理解(続)

 うって変わって、日常よくある光景。
 駅前の自転車の違法駐輪。これ、なくならないんですよね。法令で取り締まれるものなんでしょうか?そもそも、そこに(道徳的含め)善悪の問題があるんでしょうか?
 理解の枠組みとして考えるべきは、規範的な問題なのか、経済学の問題なのか。
 そこで駐輪している人の行動を、(かなり単純化して)「法と経済学」的に解釈してみましょう。ある「違法」駐輪している方のご意見を想定してみます。

 「違法」駐輪だということは知っています。駐輪場が足りてなかったようだけれど、だんだん増えてもきたようですね。まだまだ、半年以上も空き待ちしないといけないみたいだけど。
 だけど、ここに(違法で)駐輪するの、やめませんよ。そりゃ、歩行者に決定的に危険だとかいうことならわかるけど、この奥まった路地ならそう迷惑もかけないだろうし。
 第一、月々の駐輪料金より、撤去されて引き取りに行く料金が、安いんだもの。取り締まりの頻度が高かったら違うけどね。

 この人物に対する説得は、どうしたらいいんでしょうか?そもそもの問題は都市計画上の失敗なんでしょうが。
 「法と経済学」なら、こう言うかもしれません。

 もちろん、駐輪場の増設が先決。
 平行して、取り締まりの頻度増と引き取り手数料の値上げ。
 そこで投入する行政資源が、行政効率上の効用を最大化すると考えられなければ、最適化したと思われるところで納得するしかない。

 でも、経済学の問題ならこの回答で納得もできますが、それで本当に納得できますか。規範道徳の問題としてはどうなんでしょうか。
 どこか、疑問が残りませんか?

 以上三点、例を引いてみました。
 こんな感じで「法と経済学」の本質的な考え方―要するに厚生経済学の考え方―そのものにはものすごい反発を感じています。これが自分の、「法と経済学」に対する基本姿勢です。一方で、経済制度の制度設計の観点からはまあ納得できないわけでもない、と考えています。その先に、基本姿勢からの逆転があるんですけどね。

 次回から、「経済制度」としての著作者財産権の問題を採り上げます。
 その上で、また厚生経済学と図書館の問題に戻ってくることにしましょう。

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2005.04.04

確認・著作権法の基本(1) : 著作権って、人権なの?

 著作権法は、知的財産法の分野に属すると言うことは簡単ですが、単純にどういった種類の法律かというと、実はめんどくさい。刑事法という側面もあるし。

 ただまあ、著作権法で定める著作権が、著作者人格権と著作者財産権に分かれていて、人格権的側面と財産権的側面を扱っていることは、自分でもわかります。
 で、よく話題になるのは著作者財産権の方ですね。

 著作権の財産権としての側面ですが、ここでひとつおさえておきます。先の方で経済制度としての著作権法の話するんで。
 「著作権が人権だ」という説を唱えている方がおられますが、文脈を誤ると大変です。
 確かに、著作権?何それ?よくわからんなあ無視しちゃえ、という状況は問題です。その意味では、まるで著作権に無知な人々に対して「著作権はね、憲法に保障された権利、財産権(の一部)なんだよ」と唱えることは有意義でしょう。自分はその意味に限ってこの主張を認めたいと思います。
 しかし、そうは問屋が卸さない。「著作権が人権だ」という言明についてだけは、少なくとも一般論として自分は納得しません。あまりにも不正確、誤りさえ含んでいます。

 まず、著作権ではなくて、一般的な財産権の話を二つします。

・20世紀型の財産権保障は制度保障にとどまること。
・ジョン・ロックまで遡れば、自由に連なる人格の問題と結びついているから重要性があるということ。

 この二つの観点は、次回財産権問題を著作権に応用したときに関係してきます。

 そもそも、18〜19世紀的な憲法のもとでの財産権の絶対性と比較すると、20世紀型の財産権保障は、他の権利や「公共の福祉」との間で相対化されています。日本国憲法での財産権条項の理解としては、「制度的保障」とされるのが一般的です。つまり、具体的権利を保障するのではなく、権利保障のための制度を用意する、としか言っていないわけです。

 ジョン・ロックに遡れば、彼が自由との関係で所有権の絶対性を主張したときは、国家権力、絶対王政との対比においてでした。今でこそpropertyということばは所有権と訳されていますが、彼の原理論においては、三つのものを同時に指していたのです。いまの英語の辞書にも通ずる意味が書いてあります。

・(神授の)個人に固有な精神的「人格」。
 ←世俗王権から絶対に自由であるという権原。
・個人の人格にもとづく「特有な行為(労働)」。
 (→一般的自由。今回はあまり関係なし。)
・個人の労働から得た「成果物」としての所有。
 →所有権の絶対。ロックは貨幣化まで語る。剰余価値説の始まり。

 個人の人格から、その労働の成果物には所有権が発生する、と主張されていたのです。個人の人格をもpropertyと呼んでいることには注目を払っておいてください。

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2005.04.05

確認・著作権法の基本(2) : 著作権って、人権なの?(続)

 しかし、ロックの時代状況における「property」概念が主張しようとする文脈と、20世紀における福祉国家における財産権は、まるで様相が違ってきています。

 第一に、憲法の歴史、伝統的な憲法の性格を辿ってみればわかりますが、近代憲法とは国民が国家権力にはめた枷です。国民と国家との関係における社会契約。つまり、こういうことになります。「国家は、国民の権利を保障する」としか言っていないのです。基本的に、国家と国民の間の関係。国家が国民の権利を尊重する、侵害しないとしか言っていないのです。
 何を言っていないか。国家が国民の権利を保障すると言ったとき、その第三者関係においていかなる形まで保障するかまでは言っていない。だから、憲法学では伝統的に「人権の第三者効」、国家が保障するという人権がほかの市民の権利や法人の利益との間で有効かどうか、議論してきたのです。

 第二に、現代においては、財産権の代表である(土地)所有権でさえ、制度的保障しか定めていません。つまり、こういうことです。

・ルールを定めるからその許でやりとりをしてくれ。
・また、「公共の福祉」による制限を加えるよ。

 これらによって、所有権の絶対性が相対化されたと言ってよいでしょう(すんません、20世紀型憲法への歴史的経緯は省略します)。

 以上の観点から、「著作権が人権である」と言ったとき、この言明には二つ問題があります。

・国家が著作権を保障する・尊重するという意味では言っていいが、人権だとすれば、国民相互の間でどのような取り決めをもって権利を使っていくかまでは憲法は想定していない。
・著作権は、人権とまでは言えない。制度保障としての財産権の一部をなすことは間違いないが、「人権としての財産権」自体が制度保障までしか考えていないから、著作権は財産権制度保障の範囲内の権利の一つでしかない。

 ちなみに、憲法が制度保障や抽象的な規範だけに逃げる法令かというと、それは違います。明白・直接に裁判規範としての性格を表す条項もあるし、実定法以外のなにものでもありません。裁判規範ともなり得ます。
 憲法がほかの法令と比べて特殊な点は、国民との社会契約をなして、国家権力の正当化論拠となり、国の最高法規として他の法令に妥当性を与えるという性格があるという点だけです。制度保障や抽象的規範はほかの法令にも出てくるものですし、下位の法令に授権することなどは法令には当たり前のことです。
 憲法典で定める権利は確かに、基本権として実定的にも重要性をもちます。しかし、いかに(概念としての)所有権が人権の中で端的な地位を占めているとはいえ、他の物権法上の権利を「人権である」などという主張は自分は聞いたことがありません。「著作権が人権である」という言明は、そのくらい、奇異なことだと思います。

 むしろ、このわけのわからない主張によって、消失しかねない視点が存在することを忘れてはなりません。
 著作権は、確かに人権であるかもしれません。でも、それは財産権―property―としての本来の意義において、です。つまり「人格」と結びついた部分があるということです。人としての権利、ロックが言いたかった「人間の精神は誰にも縛られることがない」自由な精神の問題と関係しているということです(これを言うとまた、著作権は精神的不可侵性にも連なるのだというバカな議論が出てきかねないのですが、そうではなくて、国家に規制されない人々の一般的自由に連なるのだと読むべきです)。
 著作権の人格との関係、著作者人格権がコアにあることを忘れて、著作者財産権の問題だけを論じているさまは、はっきり言って不様としかいいようがありません。
 また、人権=propertyとされていた概念自体が、時代の変容によって、その中核的精神的自由の観念から人権としての財産権の相対化を招いているということは絶対に無視してはなりません。

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2005.04.06

確認・著作権法の基本(3) : 著作権法って、経済制度なの?

 前回は「著作権=人権」説批判に力が入ってしまってしまいましたが、著作権制度を説明する上で、著作者財産権が憲法の保障する財産権「制度」の一部をなしている以上、著作権法の大きな側面として「経済制度」があるということは、既にはっきりおわかりのことでしょう。

 経済制度であるとすれば、どうなのか。
 経済活動において、社会的効用を最大化するための、市場のルールを定める。そのルールが「制度」です。
 経済制度のルールのもとに、プレイヤーは市場に参入して「権利」を行使し、利益を得る。紛争があればルールによって解決する。

 財産権としての著作権制度の問題は、個別具体的な憲法上の基本権の問題ではありません。経済制度をいかに設計するか、社会的効用を最大化するための(憲法上下位の)「ルールの設定の問題でしかない」のです。
 自分が以前の記事、著作権の問題を「ちまちまとした問題」と言ったのは、その意味です。ルールの公正さも含めて、そのときどきの社会事情において入手しうる情報を盛り込んで、実際の制度を設計すればよい。それを、調整しながら使っていく。それ以上のものでもそれ以下のものでもないと思います。
 つまり、「法と経済学」批判で言っていた厚生経済学、功利主義の立場を、ここでは受け入れてしまうワケです。経済学の問題なのか、規範道徳の問題なのか、という問いに対して、ここでは「経済学の問題でしょ」と。
 その意味では、「著作者財産権」の問題については、「法と経済学」を導入する余地は充分にあり得ます。経済制度については通常、厚生経済学は有効と考えられてもいるからです。

 別項「図書館と「法と経済学」(1)」で紹介している林紘一郎編著『著作権の法と経済学』は、経済学的分析を絡めながら著作権の歴史を追い、むしろ著作権者の側からのみの財産権追求に「待った」をかけています。
 経済学を適用することによって、法的に認められた利益だけでなく、ほかの利益も視野に入れるということは、確かに有益です。

 だけど…、やっぱり変じゃない?というのが本稿の目指すところ。
 だって、著作権法は、著作者財産権を定めているだけだとしたら、確かに経済制度とのみ言えますが、同じ法の下で著作者人格権についても定めています。著作権法全体についても、人格権的理解は無視できません。
 制度設計であると仮構した場合の経済学的理解も、限界があるでしょう。ひとつの理解であることは認めますが、その結果のほかの視点による再検証は必要です。
 だって、経済活動自体、人間の一側面でしかないじゃないですか。

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2005.04.07

図書館と「法と経済学」(4) : 厚生経済学と図書館

 まあ、これが言いたかったことでして。

 要するに、経済学的分析をやったところで、それは数値によって換算された利益にもとづいているのでしかなくて、「計算」も功利主義的観点にもとづく「理論にすぎない」わけですよ。
 財産制度として著作者財産権を考えたときに、制度設計としておかしいんじゃないの?という批判的手法に「法と経済学」を引っ張り出してくることは正しくても、そこで言っていることが即すべて肯けるものではない。
 「数値化できない利益」はあるのですし、それは「計算に組み込むことができない」のですから。
 また、「数値化できる利益」であっても、そのふるまいは規範的に正しく予想されるものではありません。
 最初に「法と経済学」に批判的な例―限界―を三つ挙げました。これらの批判点は厚生経済学にそのまま引き移すことができると思います。以下にまとめます。三つめは明確な例示がなくてすみません。

・個人の利益は数値化しきれないものがあるということ。
・経済制度設計上合理的な行動が、規範的に正当化されるとは限らないこと。
・功利主義的な最適化においては、重視されない少数者の利益があるということ。

 さて、図書館での「法と経済学」ないし厚生経済学の適用を考えてみましょう。
 図書館研究で厚生経済学を使う有用性は、なんとなく自分にもわかります。
 対象となる利用者は個人でありながら、権利というほど強い利益の許にふるまっているわけでもない。また、公共政策的な分析が必要な、集団としての取り扱いも必要です。

 しかし、自分が批判の中核としたいのは、やはり「図書館は単に財産制度ではない」このことに尽きると思います。著作者財産権に対する著作者人格権の例を想起してください。厚生経済学が使えるところと使えないところがあるということは、方法論上わきまえておく必要があります。
 経済活動ならまだしも、精神的活動をどのように数値的に処理できるか。これには限界が伴います。財産権の出自を考えてみても、実は経済活動の部分はロックにおいてすら貨幣化、剰余価値説あって初めて経済制度と考えられるわけです。
 著作者財産権に厚生経済学を適用しようとするとき、本シリーズの構成を振り返っていただきたいのですが、厚生経済学は20世紀型の人権の考え方、経済制度としての財産権を前提にしています。もちろん、学問の方法としての一般性(超歴史性)や、見えない経済的価値を明らかにするという効用も無視できませんけれどね。
 改めて言い直しましょう。
 厚生経済学が著作権法において有効に、積極的に活用されるべきなのは、著作者財産権の経済的制度の設計の部分においてのみではなかろうか、と。

 少なくとも厚生経済学を扱う人々は、個人の一般的自由の問題との関連をよくよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 不勉強なので、「自由の問題をよくよく考えてみているから、厚生経済学なんだけどなあ」という反応もあるかもしれませんが、経済学で扱う合理的諸個人の集合を経済学的側面だけで見るということと、様々な振る舞いをする可能性を想定するそれぞれの個人の一般的自由という考え方とは、必ずしも整合しないと思います。厚生経済学が使えるのは、「集合的なふるまいをする」「経済的に制度を検討する」この二つの場合のみに限られるように思われます。

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2005.04.08

図書館と「法と経済学」(5) : 「法と経済学」と図書館・蛇足

 さて、『著作権の法と経済学』の著者、林紘一郎先生に対する恨み節です。

 講演を聴く機会がありました。企画者の企画意図が表れた演題は、「法と経済学」から図書館の政策決定過程になんらかの貢献が得られないか、というものでしたが、先生は自説である著作権に関する提案ばかり。
 その上腹が立ったのは、質疑で明らかになったこと。慶應義塾大学法学部において楡周平氏の修士号取得の際、指導をされていたそうです。その折の話を紹介しながら、無邪気にも楡氏の話を鵜呑みにしていたのには呆れました。一館で何冊も複本を用意するのはけしからん、と。別にサラッと紹介されただけだったんですがね。
 しかし、複本問題が話題になって時間も経過し、図書館界と出版界とが共同で調査を行ってもいます。横浜市立図書館のように組織上一館とは言え分館を含み、かつ各館がカバーする人口がまったくほかの館と状況が違うことも適切な指摘と言えないことも明らかになりました。図書館界からも充分に複本批判に対する回答はできてきている、まったく批判に当たらないと考えている矢先に、これです。
 質疑の時間が押していたことと、本筋とまったく関係ない話題でしたので、突っ込むのはやめておきましたが、こうも頭にきたんだったら突っ込んどけばよかったのかなあ。

 「法と経済学」以前に、統計学の基本がまったくなっていない。「法と経済学」の方法を著作権に援用する以前の事実認識の段階で誤認があるようでは、法学博士、経済学博士の名が廃れるというものです。法学にせよ経済学にせよ、概念や理論の検討以前の段階での事実の理解がまずは学問の前提ですから。昨今の理論経済学に対する批判一般にしても、経済学の倫理が問題となる時代ですよ。
 まあ、学者というものはそんな程度のものなのだろうな、という見方もできるのですが。自分の知らない文献については、当人にとって事実とならないんですね。厚生経済学は、理論的側面が強い印象の学問ですから、「もう処置なし」です。
 先生の業績には期待しているだけに、個人としては非常に残念です。

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2005.04.09

この時期に風邪をひいて

 この記事は時期的には遅れ気味ですが、人事異動の季節ですね。
 異動が始まって各部署慌ただしくなる前に、知人と飲みに行こうと計画を立てておりました。

 ところがその少し前、私風邪をひいてしまったのです。前日までは何ともなかったのですが、帰宅途上あるお店で風邪ひきらしい店員さんと話しこんだのがよくなかったのか。金曜夜から寒気がして、翌土曜朝には38℃!頭痛もしないし咳も出ない。喉が少しヒリヒリして痰が絡む程度でしょうか。
 朝一番で医者に行きました。インフルエンザかとも聞きましたが、「検査薬も足りなくて送られてこないんですよ」。高熱を発して胃腸に来るという風邪がはやっているとも。そういえば数週間前に家族もこんな高熱の風邪をひいていたな…そのときはまだ、同じ医者にかかって、インフルエンザではないと検査が出たと言っていた。下腹部三点ほどを触診して、「胃腸に来ませんか」「胃が珍しくむかむかする気がしますね」。抗生剤もどき(抗菌剤らしい)と、胃腸薬だけ出してもらいました。医者曰く「高熱は一日くらいで終わります。風邪に薬がいいとは限らないんです」。

 いや〜ひさしぶりに本格的な風邪をひきました。
 一日中寝ても寝ても38℃から下がらない。水分摂っても汗も出ない。ほんと、インフルエンザだったらどうしよう、これが長く続くと苦しいだろうなあと思いました。インフルエンザは予防接種を受けていたんですが、医者は「それでも60%くらいしか効きませんからね」。
 一晩経とうという朝方、無意識のうちに急に布団を蹴り出し始めました。汗が出てきたんですね。やった、37℃台に落ちてきている!
 翌日曜は、なんとか36℃台に落ち着き、ボー、フラフラとしていました。確かに、胃腸に少し負担があるようです。
 ああ、せっかく家族で楽しく外に遊びに行ける機会だというのに!

 月曜もまだまったく本調子ではないので、仕事を休むことにしました。
 結局、この週の、飲み会は、キャンセル。また体調崩してはしかたがないですからね。異動期はそのあといろいろ予定も立たないし。
 ああ、飲みに行くいい機会だったのになあ。

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2005.04.11

「真理がわれらを自由にする」を検討する : 目次と資料

 前置き。
 自分が学生時代に勉強もし、諸事に思い悩んで考えた成果。

 「真理はあなたがたを自由にするかもしれないが、幸福にするとは限らない」。

 自分の学生時代の成果は、この確信に尽きる。
 真理と自由は関係があるが、ひとりひとりの人間にとっておそらくもっとも大切な価値、幸福は、真理と自由とは必ずしも関係がないのである。
 そして十数年後のいま、図書館員としては、「あなたがた」と「われら」と言うことには、とんでもなく大きな違いが含まれているのではないかと思っている。

 さて、『図書館雑誌』2005年2月号「窓」というコラムに、渡辺信一「「真理がわれらを自由にする」雑考」『図書館雑誌』2005.2.,p.68.という記事が掲載されている。
 以前から検討しようと思っていたので、機会と捉えた。
 以下、調べた経過順に述べていってみよう。

0.基本資料
1.私の視点。
2.指宿氏の提言。
3.ある憲法学者の見解。
4.法律に詳しい同僚の見解。
5.もうひとり、憲法学者の見解。
6.論点の整理と考察。

0.基本資料

0.1.国立国会図書館法前文

 国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。

0.2.日本国憲法第二十条第三項

 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

0.3.聖書(ヨハネ伝第八章三十二節)

 「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
 原文は、"あなたがた"は、「あなた」ともとれる。二人称で、単数形と複数形が同じ。

 国会図書館のことばは館法の草案者たちが作成した。特に該当の部分は、羽仁五郎氏が留学中のドイツの図書館にも同様のことばがあったのでそこから発案したと推測されている。

0.4.国立国会図書館の本館目録ホールと関西館

 東京本館ホール壁面には、「真理がわれらを自由にする」ということばとともに、この元の聖書のことばがギリシャ語で刻まれている。
 関西館ではパブリックスペースにはなく、事務棟のロビー内のみ。

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2005.04.12

「真理がわれらを自由にする」を検討する(1)

1.まず、私。図書館員としての視点。

 「自由」という観点から、「われら」ということばにひっかかりを感じていた。

 「真理」については、さまざまな考え方がありうるから、詳しく論じない。
 しかし「真理」と「自由」については、前掲「雑考」では、本来のヨハネ伝のことばを引きながら、また国会図書館職員(当時)の論文記事を引いて、論じているのでご関心の向きはご覧いただきたい。

 館法は、国の意思表示そのものである。法は、国民もしくは国家(議会・執行機関たる政府)の意思の表明だ。
 つまり、ここで「国会図書館は、(件の命題)という確信に立って、…ここに設立される」と言うとき、国(国民もしくは国会)が「真理がわれらを自由にするという確信に立って設立」したと言明しているのである。
 ああそうですか、と言って終わりにしてもいいのだが、考え始めたら些細かもしれないが問題となることが、二重、三重に含まれている。

 私の疑念を書いておく。
 図書館員としては、これまで本ブログで述べ来たった主張からすると、認知型の「情報」「知識」「真理」はあくまで利用者個人の内心に生じるものでしかない。
 だとするとそこで「われらは」と言ってしまうと、利用者個人(複数の可能性あり)と、法の制定者なり資料提供者たる図書館とが少なくとも含まれてしまうことになる。
 したがってここでいう自由とか真理は、好意的に解釈するならば、「われら」にとって実体として共通のものではなく、メタ的な意味で共通のものと取らざるを得ない。
 だとすれば、最初から、「あなた」「あなたがた」とはっきり対象を明確にした方が話が通じやすいのではないか。
 さもなければ、悪意に解釈するならば、「われら」の中で共通の「真理」「自由」の実体的価値への確信が、強制されることになってしまう。殊に、国立国会図書館法における「われら」には、定義がない。定義がない以上、この「われら」は誰であろうか。言明を発している国(国民、議会)と読むこともできるのである。
 以上が、私の疑念である。

 特に疑念として表明するのはなぜかと言えば、元記事「窓」欄で書かれているとおり(Webで検索してもわかったが)、図書館員でこのことばを図書館の基本的な原理として理解している方々が少なくないからだ。かくいう自分もその一人であった。
 しかし、無批判に、かつ一面的な(真理と自由の関係性のみに注目するなど)理解は危険であろう、というのが本稿を書く所以である。仮によきものであったとしても、国の意思をそのままに都合よく解釈するのは、無邪気に過ぎる。民主主義は、悪いものではないが、最良のものとは限らない。

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2005.04.13

「真理がわれらを自由にする」を検討する(2)

2.指宿氏の提言。

 かの命題の人称の問題を考えようとネットでこのことばを検索したら、指宿氏のブログと関係する記事がヒットした。これが、本連載の出発点である。
 Ibusuki blogで見つけたのは、米国における政教分離問題と国会図書館の問題とを絡めた記事である。

blog of Dr. Makoto Ibusuki:十戒と公共施設

米国の最高裁は、旧約聖書にある「十戒」を公共施設に掲げることが信教の自由を侵害するかどうか、審理することを決めた。

Supreme Court Takes Up Ten Commandments, Property Issues
http://www.law.com/jsp/article.jsp?id=1097510716480

Court to Rule on Public Display of Ten Commandments
http://www.latimes.com/news/nationworld/nation/la-na-scotus13oct13.story

日本の国会図書館一階には、「真理はわれらを自由にする」という言葉が掲げられていることはよく知られている。
これは、新約聖書 ヨハネによる福音書、8章32節からの「借用」だ。
聖書は、”われら”ではなく”あなた”になっている。もっとも、国会図書館では、日本語は変えているのだが、ギリシャ語も同時に表記しており、これは聖書の原文のままである。(国会図書館からの解説はこちら。)

はい、ローのひと、考えて。これって憲法20条3項違反か?

「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

 自分は「真理がわれらを自由にする」の問題を、「政府の言論」の問題としては捉えていなかった。指宿氏の記事は、恥ずかしながらこのことに気がつかせてくれた。
 つまり、本ブログで採り上げる「真理がわれらを自由にする」問題の重層性は、

・「図書館条理としての当否」 のほかに、
・「政府の言論でありながら、実際に多くの図書館員が信条としていること」
・「政教分離を孕む問題であるということ」

 さらに、1.で示した自分の考え方で言えば、図書館条理として考えたときに「われら」よりも「あなた」の方がいいと言うのだから、こうなると原語の聖書のことばの方がいいと言っていることになり、まったくややこしいことになる。
 自分の見解は、形式的には現在の形よりも宗教的言論の形がよりよく、かつその内容は宗教性というよりも図書館条理の上で理解したいという、その宗教にとっても大事な核を無視しようとするものだからだ。

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2005.04.14

「真理がわれらを自由にする」を検討する(3)

3.ある憲法学者の見解。

 三人と電話で2.の指宿氏の記事を話題にした。
 一人めは現役憲法学者。

 彼の反応は、端的に言えば、実にソフィスト的な反応だった。
 問題の言論は、「政府の言論」として捉えてはくれたが。

 三人め同様、「十戒」の問題と国会図書館の問題とを同列に扱っていいものか疑問があったのかもしれない。
 (1)で述べた図書館員としての自分の疑問をぶつけてみると、現状での「真理はわれらを自由にする」ということばの理解には多様なものがあり、必ずしもそのひとつ、自分のような理解だけではないし、一般的にも宗教的なそれと断定することはできない、と。

 しかし彼は、憲法学者としても図書館に関心を持ち続けているし、論文では政府の言論のうちにあって政府雇用職員の「文化的専門職の職責」、つまり「図書館員の専門性」によって「政府の言論」性が阻却されると言っている。
 つまり、今回の議論では、"「真理はわれらを自由にする」という確信"は政府の言論ではあるが、多くの図書館員に受け入れられるのは文化的専門職の専門性のゆえであれば、図書館の条理として解消されるだろう、と言っているらしかった。
 図書館員たる自分の見解は、徹底的に相対化してしまってくれたが。

 それよりも君、「図書館の公共性」についてちゃんと書け、と叱咤激励を受けた。
 でも自分に言わせれば、自由と「われら」の人称の問題こそ、図書館の公共性に絡むと思ってんですけどね…。

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2005.04.15

「真理がわれらを自由にする」を検討する(4)

4.法律に詳しい同僚の見解。

 二人めにして、やっと指宿氏の指摘そのものについて議論ができた。
 しかし、憲法技術論に陥ってしまったのは否めない。

 彼自身は、「十戒」問題が話題になっていたことは、「新聞にも載っていたじゃないか」と当然知っていた。
 次のURLで指宿氏が紹介したケースの事情が日本語で読める。
 http://home.att.ne.jp/wood/aztak/news/seikyoubunri.html

 そして、日本における政教分離問題で話題になる「目的効果基準」をストレートに検討した。
 結論から言うと、国会図書館の場合、目的から言っても、効果から言っても、問題はないだろう、と。
 一人めの憲法学者は、当然これを前提にしていて、図書館条理にこだわる自分のそれを相対化しようとされていたのだろう。

 憲法学ではコンメンタールの類が最近出版されなくなって久しくなり困っているがそれでも新しい部類に入るのは、高橋和之・大石眞編『憲法の争点 第3版』ジュリスト増刊法律学の争点シリーズ2,有斐閣,1999.である。
 「政教分離」(小泉洋一執筆)の項目によると、「目的効果基準」は最高裁大法廷の津地鎮祭判決によって次のように定められている。引用する。

 目的効果基準とは、「政教分離原則は、…国家が宗教とのかかわり合いを持つことをまったく許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとする」ものであり、特に憲法二〇条三項「宗教的活動」は、「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」とする基準である。

 このような基準を前提に彼との議論では、「目的効果基準で国会図書館を宗教的に苦痛を受けたと言って訴える人はいないだろう」という話になったというわけだ。
 しかし、本当に、「宗教的」とは言えないのだろうか?

 問題となっていることばへの疑念から図書館の本質を追おうとしている自分の姿勢からなのか、気になる。
 なぜなら、政教分離の判例で同様に話題になる「自衛官合祀判決」では「少数者の人権」の問題を孕んでいる。要するにこの判決は、「精神的自由の問題について、少数者が大事だと思っている問題(夫を悼むという行為)に対して靖国に祀るくらいのこといいじゃん、がまんしろよ」というとんでもない判決だ。
 図書館は、共同性をどうしても前提とせざるを得ない。公共性の名の下に"リベラルな共同体"における少数者の利益をどのくらい大切にしていけるのか。
 この「少数者の人権」という意味で、「われら」性は宗教-精神的自由-の本質に絡む問題に関わっているのではないかと思うのである。

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2005.04.16

「真理がわれらを自由にする」を検討する(5)

5.もうひとり、憲法学者の見解。

 師事した方だが、故あって、学者はおやめになられた方。
 しかし未だに憲法学への情熱は変わらない。

 彼とはまず、知りうる事実を丹念に話して、まず『法学教室』長谷部恭男氏と安念潤司氏の連載、政教分離に関する回を読むことを勧められた。
 というのも、一人めのところでも書いたが、指宿氏の記事の構成、「十戒」の問題と国会図書館の問題を同列に扱ってよいものかに疑問があるとおっしゃっていて、上記連載には少しくだけた形で政教分離の問題を扱っているからなんだそうだ。

 しかし、彼はキリスト者でもある。
 思考実験として、国会図書館に聖書に書かれた、より宗教的な引用が展示されていたらどうかと考えてみた。
 その上で、国会図書館の事情をもう少しお聞きいただいた(というか関心をもって聞いてきた)。

 本館目録ホールのカウンター上部のコンクリートの壁に、法から採った「真理がわれらを自由にする」ということばが彫り込まれていること。並べてギリシャ語で聖書の原文が彫り込まれているということ。
 建築上どうしてそのような経緯になったかは、「窓」の記事でも紹介されている、元国会図書館職員である稲村徹元氏らの論考では不明であること。
 聖書のことばが変形した館法前文の由来としては、GHQに提出した法案が反故にされて、起草に携わった日本側委員がその精神を込めるだけでもと、前文を付けたということ。特に「真理がわれらを自由にする」ということばについては羽仁五郎氏のドイツでの経験から来る発案であったらしかったこと。

 これらのうち彼は、現状で、日本側で意図的に前文を付けたこと、ギリシャ語の聖書の原文が彫り込まれていることに特に注目された。
 曰く原文は、キリスト者からすれば、「真理」とはイエスのことばそのものであり、「イエスを信ずればあなたがたは自由になれますよ」という意味である。イエス信仰そのもの、神髄を表現しているほかにない。
 ということで、彼との議論では、「政教分離の"問題"にはなるだろうね」との結論に至った。問題の結論がどうあれ。

 しかし、この議論にはあとがあって。
 上記のとおり憲法談義にひと区切りついてから(自分もしゃべる方だが彼もまた自分の方からよくしゃべる)、「自分がこだわっているのは、宗教と憲法の問題ではないんですよ。図書館の原理の問題なんです。もちろん、少数者としての宗教者は視野に入っていますが、ひとりひとりの個人の問題としてです」と切り出した。
 自分の意見を話した。図書館の原理としては、「われら」と言ってしまっては、真理と自由を前に、利用者の前に提供者、主体としての図書館が存在しまう。だから、自由ということばを前にしては、原文のとおりに「あなた」「あなたがた」ということばの方が好ましいと思っている。
 こう言うと、「となると、さらに面倒なことになるな。今度は信仰の核心と図書館側の勝手な解釈の問題になる」。
 うーん…。

 余談。
 この先生によると、アメリカでは、「十戒」が学校に貼ってあって、読み上げるということを普通にやっていた時代があったそうな。やはり問題だという声が上がって、とりやめになったそうだが。なんかほとんど「教育勅語」ですなあ。
 この場合の「十戒」は、目的効果基準からすると(アメリカには元となったレモンテストという基準がある)どうなんでしょね、指宿先生。

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2005.04.17

「真理がわれらを自由にする」を検討する : まとめ

・指宿氏指摘の政教分離問題について。

 政教分離「問題」として議論はされうるが、「目的効果基準」により問題とはならない

・図書館条理の問題として。

 自分の疑問自体は議論によって変更はなし。
 自分の疑問・主張を繰り返すと、次の2点。

 「この言明は「政府の言論」である」。
 「国や図書館によって唱導される「われら」性は、個人を利用の中心とする図書館になじまない可能性がある。少なくとも何かしら疑問をもたれてしかるべきではないか」。

 しかし、文化専門職たる図書館だからこそこの疑念は阻却される/そのような解釈が妥当とは限らない/どうでもいいじゃないかという意見はあり。
 ちなみに、自分のこの「われら」性への疑念は、厚生経済学への疑念にも連なっている。厚生経済学は「公共性」に関係しているのに、個人の一般的自由と「われら」たる政府の言論との関係には触れない。やっぱりおかしいと思うよ。

・思想信仰の自由と図書館

 納税者の中には「聖書のことばを公的施設に掲示されて精神的苦痛を受けた」と不愉快に感じ、場合によっては訴えられるかもしれない。その納税者がキリスト者であれ、ほかの宗教の信者であれ。
 その場合は、習俗化した図書館条理であると説得するしかないのだろう。
 そのためにも、どのような意味での図書館条理であるのかという自覚が必要である。

 「政府の言論」として、抽象的ながらスローガンとしての位置付けを与えるのであれば、説明は必要だ。それが利用者であれ、国民であれ。
 その第一が、まずは換骨奪胎させてもらったキリスト者たちに対してかもしれない。そもそも、目的効果基準をクリアするためには絶対である。

 図書館は共同体主義的なサービス提供しかできないとは言え、精神的自由に関わる社会制度だ。その精神的自由に関わる制度が、少数者であるかもしれないが個人の精神的自由、表現-思想-信仰の自由という、心の内面、中核に関わる部分に触れるかもしれない。
 精神的自由に関わる以上、そのような敏感なセンスはもっていていいのではないか。
 「わたし」と「あなた」は違うね。そこから始めよう、そんなセンス。

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2005.04.18

20,000 hit!

 2005.4.13.の夜、20,000ヒットをカウントしました。最近はもうカウンターの数値自体にはあまり意味がないなあと思っているのですが、メモしておきます。
 最近は一日100カウントくらいの時期が続いていて、落ち着いてきたのかな。一日200ヒットはないですね。
 カウンターを入れたときの記事は2004.11.24.、1,000ヒットのときの記事は2004.11.30.、10,000のときの記事は2005.1.18.以後にあります。

 アクセス解析を見ると、二つ。
 記事が増えた分、各記事に含まれた多くのキーワードでの検索とアクセスが増えて、かつてのようにごく一部の記事に集中することが相対的に少なくなってきています。
 それと、ブックマークでの来訪が徐々に増えてきたようです。リピーターさんは、一番ありがたいと思っています。

 ちなみに、カウンターを無意味に感じてきた理由は二つあります。
 なによりもまず、一見さんが多いからです。当初から指摘していることですが、顕著に感じられるようになってきました。
 ブログの場合、検索エンジンはサイドバーの文字も一緒に拾ってしまい、かつブログは検索結果の上位に来やすいことが問題です。リンク元の検索結果を追って検索キーワードの組み合わせを見ると、ウチのブログでは無意味なのに検索結果に出てしまっていて、ああこれはおそらくワンクリックして関係ないやと閉じてしまっているケースがどうも多いらしいことが推測されます。
 もうひとつは、話題性の高い記事やキーワードが含まれていると一見でカウンターがまわってしまう。けっこう力を入れて書いてみた記事を、多くの人は読んでくれてないみたいなんですね。
 こちらとしては自然、ごく少数のリピーターさんを読者として重視するようになります。でもリピーターさんはカウンターには顕著には出てこないし、アクセス解析もかなりていねいに仕込んでやらないとどの記事を読んでくださっているのか分析するのは難しそう(というか手間)なんです。

 ただまあ、ほんと、メモということで。
 記事が増えれば来訪者は確かに増えるでしょうから、区切りとしてメモしておきます。

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2005.04.19

業務の配置換えになりました。

 仕事が変わると気分も変わりますね。ああ新しい年度だなって。
 これまで書き溜めていたものが続いていたので、報告が遅れました。
 おかげさまで、年度初めから研修がずっと続いていました。本格的に実地に使っていき始めるのも含めると、4月いっぱいはまだまだ新人気分が抜けないと思います。
 今度の仕事では新人、と言ってももう中堅の年代です。これまで十数年の間のいろいろなめぐり合わせの結果でしかないのですが、個人的に努力を重ねてきた割には業務経験としての「売り」がないのがつらい。ずっとつらい思いをしてきました。また、子どももできて、若い頃のように無思慮に仕事に全力投球だけしていればいいというわけにもいかなくなってきている。
 いずれにせよ、黙々とまずは仕事を覚えて、いろいろな提案はそれからだとは思っているのですが。いまの自分は、焦りは禁物、目の前の課題をひとつずつきちんと片付けていく。そんなところかな。

 今度の仕事は、以前からやってみたかった念願の仕事なので、家人とささやかに、酒盛りをしました。つらかった期間が長かったので、ともかくも嬉しかったんです。
 以前ブログでも紹介した、小千谷訪問で買ってきた珍味を肴に、日本酒「特別純米吟醸 山古志」。
 残念ながら「山古志」は口に合いませんでした。箱の解説を見ると、山古志村の棚田で作られた酒米「一本〆」で作られたとあります。お福酒造は長岡でも昔から有名な蔵ですが、これまでの付き合いからしてもどうも口に合わないみたいです。

 忙しい春の幕間でした。

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2005.04.20

生涯学習フォーラム

 @niftyの生涯学習フォーラムのスタッフの方から、「相互リンク」を依頼されました。
 リンクに著作権なんかないのは当然だし、礼儀の類なのかな。スタッフの方とは少しメールのやりとり、意見交換をしました。
 結論としては、右サイドバーにリンクを掲げています。

 関連していくつか。

 リンクについては、自分の方ではもうあっちこっちにリンクを貼らせてもらっては、仁義を切ることもなくきてしまっています。ハイパーテキストの世界、そんなもんではないかなあと思ってます。
 自分が気をつけているのは、リンクしたいページがサイト全体の中では下位の階層にあった場合、トップページも同時に掲げておくようにはしています。

 図書館フォーラムについては、自分はかつて生涯学習フォーラムのフォーラムインフォーラムの頃から知っていて、ほんのときたま書き込んだりすることもありましたが、ほとんどROMでした。図書館フォーラムが独立してからはフォーラムの中の会議室が館種別に分かれてしまって、かえっておもしろくなくなってしまい、NiftyManagerで巡回ダウンロードはしておいてあるのですが、まったく見ることがなくなってしまいました。
 ニフティサーブの会議室の、ツリー型のスタイルは議論を発展的にしていくにはとてもいいと思うんですよね。2chみたいなだらだらした巻物状態よりも。また、匿名性も野放図ではなく、ある特定のテーマのもとで交流ができる場としてはとても有効だったと思います。
 ただ、webフォーラムに移行するにつれて、よいツールを入手することもないままきてしまったので、本当に離れてしまいました。
 このたび久しぶりに接触があったのですが、今後ただの会員制掲示板で終わるのかわかりません。感傷に過ぎないのかもしれませんが、@nifty全体でのフォーラム廃止後の再出発に当たり、リンクを貼ることにいたしました。あちこちのホームページに設置された掲示板で交流はされていると思いますが、@niftyの会員の方は特にこちらでもたまに発言されてはいかがでしょうか。そう言いつつ自分自身が参加するかわからないくらいですけれども…。
 でも、匿名掲示板の形式が発達している時代、なんらかの新たな発展があるといいなと思っています。
 なおリンク先は会議室に入る前のブログです。

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2005.04.21

CD-R/RWでのデータ移行

 職場での配置換えに際して、ひとつトラブルが。

 机の物理的引越と同時に、一人一人に割り当てられているPCのファイルの引越もする必要があります。
 物理的引越の準備はできていて、PCのファイルの方も、最後の日に移行用のバックアップをCD-Rで作成して、準備は万端でした。PCのファイルバックアップを最後の日にしたのは、メールソフトを最後の日まで使いたかったからなんですね。PCファイルの引越自体、メインはメールのデータ引越が主です。
 メーラはNetscape4.78のMailを未だに使っています。ユーザプロファイルの位置がわかりやすく、フォルダごと移せばそのまま移行先でもすぐに使えるからです。

 ところが。
 さてうまくいったかなしめしめと、配備されたPCに移行をしようとすると…エッ…目を疑いました。肝心のプロファイルフォルダを開いても─何も、ない。フォルダのプロパティで見ても、OMB。
 私、CD-R/RWというもの、よくわかっていません。職場PCのほとんどがノートPCに移行してからというもの、バックアップ用途にはMOからPCにドライブが内蔵されたCD-R/RWを指定されるようになっていました。確かに、かつてはSCSI接続のMOドライブが転がっていましたが、いまや繋ごうにも最近のPCにはSCSIポート自体がありません。
 自宅では、旧MacどころかLibretto100-Win95も現役で使おうと思えば使えますから、SCSI機器など当たり前なのですが…。なんとpanasonicのPDを使っていた口ですので、DVDもDVD-R/RWよりもDVD-RAM党なんですよね。
 DVD-RAMは最近、また注目されつつあるようです。でかいMOとして。MOもDVD-RAMも、接続して普通のHDやFDのようにフォーマットしてやればもうそれでおしまい。その手軽さを自分は愛しています。
 ところが、CD-R/RWは、もちろん出てからずいぶん経っていて、CD-Rのメディア単価が非常に安いことも当然知っているのですが、ライティングソフトウェアが必要になってくる。これがどうもよくわからなくて。自宅で使う機会がないものだから、苦手意識がありました。

 職場のシステム担当に相談しまして、結果解決しました。
 前のPCと新しいPCは用途が違っていたので、入っていたライティングソフトが違っていた。そこへ、自分がCD-Rの書き込み規格を一般的なものにすることまで気がまわらなかったので、新PC側では正常に読み込めなかった、ということでした。元のPCでは、肝心のCD-Rは全部読め、Netscape4.78のプロファイルは無事でしたよ。
 結局、ネットワーク経由でファイル転送をやりました。前の部署の共有PCを使って個人のファイルを転送するのは気がひけたのですが、自分が引越準備を早期に整えていたこともあって元の机とPCには新しい人がすぐに入っていて、終業後にお邪魔して前のPCを検証に使わせてもらっていたのです。そのため、早期に解決するためにネットワーク転送をやりました。最初からやっとけばよかったかというと、新しい部署では机がなかったのでPCも配備が遅れたんですよね。だから、個人のファイルをどこかにバックアップして、前のPCの中をきれいに掃除しておく必要もまたやっぱりあったんではあります。

 これでもう、CD-R/RWには苦手意識がまた植え付けられてしまいましたね。自宅で使うようにならないと、ダメみたいです。
 しかし、なんでみんなCD-R/RWなんか使うんですかねー。もちろんCDドライブで読めることが便利だというのはわかるんですけど、ライティングソフトにはそれぞれ個性あるし。意識しないと、汎用性がないってことです。
 第一、媒体がけっこう処分に困りません?大きな家電量販店さんに行くとCD-R用の強力なシュレッダーが売っていたりしますが、ほんとバックアップ用途に使ったCD-R、要らなくなったらみなさんどうしてるんでしょう。今回自分は、職場の「燃えないゴミ」でパリンと割ってきましたが。
 個人的には、どうもなじめません。

 現在使っている旧Macの改造用に、対応している古いCD-Rドライブを確保してあるんですけど、それも高速回転の可能なCDドライブとしての機能を重視してのものです。
 まだ全然旧式のマシンで充分なので、いじるつもりもあるんですが、現状でもやっぱり充分なので、まだ搭載するところまでいっていません。

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2005.04.22

VTR/DVD/HDDビデオレコーダ

 買っちゃいました。
 結局、『英國戀物語エマ』の放送開始に間に合わせる形で。
 2005.4.92005.4.10の記事はずばりこれがあったから。

 半年くらい前から検討はしていました。
 目的は、VHSテープの整理。メディア変換してすっきりさせる必要が…実家も家人もうるさいので。自分でもモノを買ってくるので場所を確保する必要もあり(同種の棚としては愛蔵版DVD-Video)。
 メディア変換は、カセットテープもしないとなと思っているので、当初パソコンでの変換ができないかなと考えていました。しかし、そのための拡張ボードや周辺機器を揃えるとなると金額がバカにならない。旧Macから新Mac導入を検討する理由にならないかとも思ったのですが、ちょっとね。

 その上よくよく調べてみると、標記「家電」ビデオレコーダが機能も値段もこなれてきたこともあります。家電のシンプルさなら、定型的かつ量的な編集作業が手順化されていれば、メディア変換も楽だろうという見込みも。ビデオテープの山は、120分テープを3倍速で撮って360分にしたものも少なくないので、まずアナログでVTR->HDDに落とすだけでも一晩一本かかってしまいます。意外に大変です。
 そこで気になっていたのが、近所にレンタルビデオ屋さんがないのでDVD-Videoも経験が少ないんですが、DVDの場合のチャプター分け。これには店員さんにしっかり、繰り返し相談に乗ってもらいました。テープなら早送りで済むところ、DVDの場合はチャプター分けした方が断然便利なようです。しかし、一本360分のテープをいちいち編集作業やってたらきりがない。切り分け作業を自動化できないかと考え、「家電」に期待するわけです。
 しかしこれがまたカタログに出てないんですよねー。「自動でチャプター分けをやってくれる機能があるのかどうか」がはっきりしない。分けるためには区切りのところでなんらかの信号を検出する必要があるのですが、そこがカタログに出てこない。
 後述しますが、VTR->DVDというレコーダの需要が少ないのか、実際に出ているVTRも搭載しているモデルの数は限られています。
 店員さんが店頭からメーカに確認してくれたところでは、結論から言うと、モデルによって二つ方法があるみたいです。CMカットで使われるような、ステレオ-モノラルの音声信号。もうひとつは、VTR側の頭出しサーチにひっかかるような、録画開始信号。

 カタログになぜ出ていないのか。VTRも一緒に搭載しているモデルの数は限られていると書きました。VTR->DVDというレコーダの需要が少なく、DVD/HDDビデオレコーダはVTRと関係ない使われ方をしているということなんですね。
 だって、家電DVD/HDDビデオレコーダの価格帯って、どう少なく見積もっても5万円から、上は10万円。このくらいのお金を普通に出す客層って、「学生」じゃないでしょう。就職して少し余裕ができてきた、「20代後半から30代」。更に上の年代でも、子どもがいれば子どもにかけるお金にメドが付いてきた層で(かつ新しいものに挑戦しようとする層で)しょうね。
 自分も、VHSビデオをダビングが可能なように2台もっていましたが、いずれも就職して数年、お金が自由に使える余裕ができてきて、中古屋さんで2万円以下で買ってきたものでした。今回購入を検討したのは、そのうちの1台が壊れて、またテープの置き場所がもうなくなってきたからなんですね。ほんと、ひさしくビデオなんていじってないです。見たい番組があまりなかった、育児で余裕がない、という理由もありますが。

 で、話を戻すと、「20代後半から30代」の中には、自分のように連続ドラマを撮って、揃えて手許に置きたいコレクター志向の人もいるわけですよ。学生時代から溜めてきてしまっているという。
 私の場合で言いますと。
 グラナダテレビ版「シャーロック・ホームズの冒険」は何度も再放送されていますが、DVDが出る前は遺漏ないように繰り返し録画してしまってます。以前にもここで書いたように、「夏子の酒」テレビドラマ版はほとんど録画できてました。法廷ラブコメディ「アリーマイラブ」は初期から見ていて、結構手許にまだ保存してあります。
 「サイボーグ009」平成版は惜しかった。テープの本数の限界があって、平成版「鉄腕アトム」に期待、上書きして潰してしまいました。新生アトムは残念ながら途中で挫折してしまい悲しい…。脱線しますが、意外にも最近、「ブラック・ジャック」が子どもたちに人気なようです。テレビから原作に入っていっているみたい。原作は20年前の作品なのに、普遍性があるんでしょうね。自分はテレビはたまたま一回見たんですが、エンディングテーマがピノコに合っていて素晴らしい。
 ほか、話題になってからの「エヴァンゲリオン」深夜まとめて再放送版とか。「ガンダム」は最近のSEEDなんぞ見ていませんが、就職してからも2シリーズがあり、リアルで見るのも気恥ずかしくてビデオに撮ってまとめ見をしてました。
 ほかにも、レンタルで借りてきてこれはという作品はダビングしてあったりします。
 上記年代層にはこういう、たまっちゃって首がまわらない、テープを整理したいよーという人もいないこともないと思うのですが…以下。

 ところが、このHDD/DVDレコーダを検討していてわかったのですけれど、メディア変換希望なんて人はやっぱり珍しいみたいなんですね。保存して手許に置きたい、なんてのは図書館員みたいな人種の性分なんでしょうか。
 まあ確かに、普通の人は時間帯が合わないときに録画しておいて、見て、消す。手許になんか置かないで、レンタルビデオを使う。これが普通でしょう。
 HDDレコーダを使う人は、媒体を別にもたないところにメリットを見いだしているようです。デッキ内蔵の大容量のドライブに、最新の録画予約機能でどんどん録画しておいて、時間のあるときにまとめ見をする、という。上記購入想定顧客層は忙しいでしょうから、納得もいきます。
 実際に利用している人から聞くと、HDDレコーダの録画予約機能のおかげでどんどん自動的にたまっていくので、テレビの見方が変わった。見られる番組が飛躍的に増えたと言っていました。HDDならランダムアクセスですから巻き戻しとかしないでポンポン跳べますし。ケーブルテレビなんて使わないよなーと思っていましたが、多チャンネル放送もこういう態勢があるとなればなるほどとも思います。
 ブログでいろんな番組をウォッチしている人、多くて自分はその番組見てなくてもレビューだけ読んじゃうんですけど、こういう機能を最大限活用してるんでしょうねえ。

 で、DVD-R/RW、DVD-RAMと録画方式にまつわるめんどくさい話を店員さんに相談に行って風邪をもらってきたというのが2005.4.9の記事です。
 このすぐ前の記事のCD-Rはめんどくさい!という感触はDVD-Rでも同じ。もーどうしてくれんだよ、家電のくせに操作が面倒なのは…と言いながら四苦八苦しています。トシのせいかもしれません。

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2005.04.24

『トップをねらえ!』で人生を考えてしまった…

 VTR->DVDの変換の練習台に、『トップをねらえ!』というオリジナルビデオアニメを録画したテープを使った。全6話、180分テープに標準で入っている。この録画状況がなぜかまた、1〜4話はレンタルからダビングして、5話と6話は深夜にテレビ放映したときのものが入っていて、実験するにはちょうどよい。DVD-Rはメディア単価が安いので、納得するまで、繰り返し繰り返し練習した。
 ただ、ここで書きたいのは、『トップをねらえ!』を見て考えたこと。繰り返し練習して出来を確認するたびについ、見入ってしまったのである…。
 トシかなあ、と。

 『トップをねらえ!』について少し説明を。
 のちに『不思議の海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』で有名になるガイナックスの、オマージュたっぷりのSF作品である。原案・脚本に岡田斗司夫、監督・脚本に庵野秀明。元の構成が「エースをねらえ!」のパロディの体裁をとっていて、これから本筋に入るのか?という1〜4話で当初の企画は終わっていたが、人気が出たために追加で5、6話が作られるという経過を辿ったらしい。
 「エースをねらえ!」がベースだから、人間関係の基本は、自分では才能があるんだかわからない主人公と、「努力と根性」のコーチ、パートナーとなるはずの「オネエサマ」、ライバル、淡い恋愛対象という登場人物たち。1〜4話のストーリーの骨組みは、ほとんどパロディ元を追っている。しかし、ここで採り上げたいのは、5、6話で花開いた『トップをねらえ!』オリジナルのSF要素に思うことである。
 「トップ」世界のSF(?)部分は、宇宙に進出しようとする人類を襲ってくる宇宙怪獣に対抗するために、マシーン兵器というロボットを扱う「トップ」部隊を編成。最終2話は宇宙怪獣群に対する反攻を描いている。

 「トップ」世界の宇宙は、実はオリジナルなSF設定がしっかりと練り込まれていて、ストーリーにも絡んでくるのが、超高速空間移動と時間の関係だ。2話で描いたそれが、5話と6話では本筋に出てくる。
   第5話 お願い!!愛に時間を!
   第6話 果てしなき、流れのはてに…
 主人公タカヤノリコは、最初に入った沖縄女子宇宙高等学校入学後4ヶ月で宇宙に旅立ち、2話の作戦で地球に戻ってきたときには地球時間で半年が経過。次の航海から戻ってきたときには地球では10年が過ぎている。5話冒頭、主観的な時間では17歳で卒業するが、「戸籍上では27歳」(劇中の台詞から)。その後6話冒頭では、更に主観的時間で半年経過していても、地球時間では15年が経過している。

 5話より。

 「クラスメイトは、もう、誰もいない。キミコもいない。宇宙は思い出さえ、吸い取ってしまうのね」

 沖女の卒業式帰りに親友のキミコと再会したときには、彼女には3歳の子どもがいた。

 「宇宙にいる間にこんなに時間が過ぎて。あたし一人、取り残されていく。パパ?パパも、宇宙から帰る度にこんな思いをしてたの?こんな、寂しい思いを…」

 6話より。

 地球の親友からの手紙。

 「ノリコ、お元気?あなたとの高校時代、今でもなつかしく思い出します。…あの頃は、3つだった娘のタカミも、今度18になります。私が生きているうちに会えるのは無理かもしれないけど、せめてあの子が生きているうちにはお帰りください。待っています。どうか、お身体だけは大切に。ではお元気で。タカヤノリコさまへ。あなたの親友アカイキミコより。追伸。娘の写真を同封します。」

 この「タカミちゃん」の写真がかつての親友キミコによく似ていて、主人公は涙する…。
 主人公は「タカミちゃん」と同い年のまま、親友は40を過ぎているのだ。

 クライマックス直前。いまでは戦友となったライバルと。

 「でも、でも、こんなところにいたら何十年、何百年先か、いつ帰れるかわからないのよ!もう、"同じとき"は過ごせないのよ!」
 「…知ってるわ。」
 「だったら!」
 「でも、みんなは"同じとき"を過ごせるわ。タカミちゃんには、こんな思いをさせたくないの。これで最後にしたいのよ。」

 こうして、ドラマは盛り上がって終劇に向かっていく。音楽が素晴らしい。

 でまあ、言いたいことというのは、その。
 本作品では時間というSF的距離を使っているものの、この「同じときを過ごす」というのが、5話と6話を通じての重要なテーマになっている。
 "ここ"にグッと来てしまったんですね。

 現実でも、この4月、『グイン・サーガ』が遂に100巻を迎えましたが、結局完結できず。著者栗本薫もあとがきで書いているし、同時に刊行された『グイン・サーガ・ハンドブック3』での各界からのことばでも、「当初の読者が生きているうちに完結させてほしい!」という声があることが紹介されている。

 先週、自分も親友の結婚式があって、久しぶりに学生時代のバカ仲間が集まりました。
 実家・新潟から離れて育児をしているだけに、親や親戚が遠いこと。
 結婚したときにも思ったのだけれど、大切な人と「一緒に同じときを過ごす」って気持ちの上でも、実際にも、大事ですよね。

 『トップをねらえ!』は5、6話だけでも観ていただけないかなあ。
 勧めるにはやっぱり敷居が高いかしらん。どう思います?『トップをねらえ!』ご存知の方。

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