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2005.04.12

「真理がわれらを自由にする」を検討する(1)

1.まず、私。図書館員としての視点。

 「自由」という観点から、「われら」ということばにひっかかりを感じていた。

 「真理」については、さまざまな考え方がありうるから、詳しく論じない。
 しかし「真理」と「自由」については、前掲「雑考」では、本来のヨハネ伝のことばを引きながら、また国会図書館職員(当時)の論文記事を引いて、論じているのでご関心の向きはご覧いただきたい。

 館法は、国の意思表示そのものである。法は、国民もしくは国家(議会・執行機関たる政府)の意思の表明だ。
 つまり、ここで「国会図書館は、(件の命題)という確信に立って、…ここに設立される」と言うとき、国(国民もしくは国会)が「真理がわれらを自由にするという確信に立って設立」したと言明しているのである。
 ああそうですか、と言って終わりにしてもいいのだが、考え始めたら些細かもしれないが問題となることが、二重、三重に含まれている。

 私の疑念を書いておく。
 図書館員としては、これまで本ブログで述べ来たった主張からすると、認知型の「情報」「知識」「真理」はあくまで利用者個人の内心に生じるものでしかない。
 だとするとそこで「われらは」と言ってしまうと、利用者個人(複数の可能性あり)と、法の制定者なり資料提供者たる図書館とが少なくとも含まれてしまうことになる。
 したがってここでいう自由とか真理は、好意的に解釈するならば、「われら」にとって実体として共通のものではなく、メタ的な意味で共通のものと取らざるを得ない。
 だとすれば、最初から、「あなた」「あなたがた」とはっきり対象を明確にした方が話が通じやすいのではないか。
 さもなければ、悪意に解釈するならば、「われら」の中で共通の「真理」「自由」の実体的価値への確信が、強制されることになってしまう。殊に、国立国会図書館法における「われら」には、定義がない。定義がない以上、この「われら」は誰であろうか。言明を発している国(国民、議会)と読むこともできるのである。
 以上が、私の疑念である。

 特に疑念として表明するのはなぜかと言えば、元記事「窓」欄で書かれているとおり(Webで検索してもわかったが)、図書館員でこのことばを図書館の基本的な原理として理解している方々が少なくないからだ。かくいう自分もその一人であった。
 しかし、無批判に、かつ一面的な(真理と自由の関係性のみに注目するなど)理解は危険であろう、というのが本稿を書く所以である。仮によきものであったとしても、国の意思をそのままに都合よく解釈するのは、無邪気に過ぎる。民主主義は、悪いものではないが、最良のものとは限らない。

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