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2005.03.11

子どもとことば、生活世界―意味としての「情報」の認知

※この記事は、2005.3.8付「「図書館学、情報学と法情報学」のその後」で課題としていた、話題を扱っています。

あとはまあ、それよりも書きやすそうな、子育て中に感じている子どもと絵本のことなんかも。実は、電子情報の検索対象としての文字記号の問題と、認知型のコンテンツ=パターン認識の問題と直結しているので、普通に書けるかなと。

 「「図書館学、情報学と法情報学」のその後」で予告したとおり、非常にわかりやすいところから。
 ウチの子に見る、当たり前の子どもの話からです。
 ここで述べることは、自分が子どもを得る前から感じていたことであることは、初めに断っておきます。教育心理学の基本だからです。

 ウチの子、もう少しで3歳です。共働きなので、普段は保育園に通っています。
 まずここで語るべき内容で端的なことを。あとで短所を述べますので、親バカじゃないことはわかると思います。

 わが家で子育てをするのに、与えてやれることは何だろうと悩みました。そもそもが、一緒にいられる時間がとにかく短いからです。
 「歌を歌ってやること」「絵本を読んでやること」を一生懸命にしてやりました。
 それが、親と付き合う、触れ合う時間を取ることと、寝かしつけの際の技術としても役立ってくれました。
 間を端折りますが、結果的に、いま、この子はかな文字が全部読めます。歌も大好きで自分でよく口ずさんでいます。これはこの時期にしては早い方だそうです。
 新しい絵本を与えてやると、もう自分で声に出して読んでいます。

 このことで困っていることを述べましょう。
 文字が読めるということと、内容がわかる、ことばが使えるということは別だということです。

 絵本というメディアはよくできていて、ことばがリズムとして楽しくできている、「意味」が通ずるように絵が付いている、ストーリーが子どもに何かしら生活に役立つようにできています。
 上で端折ったことですが、読み聞かせるときには、このような絵本の特性を生かして少しでも「只読む」だけ以上の効果を図ってきました。リズムや声のトーンを変えたり声音をオーバーにしたり。文章を読むだけでなく、絵との関連がわかるようにわかることばで説明してやったり。ストーリーから得られる感情や教訓をすくい取って投げてやったり。

 子どもの記憶力はものすごくて、まず与えられたことばをそのまま覚えて音読します。
 覚えたそれぞれから、意味を実際の世界につなげて、だんだん応用を利かせていくものです。

 そして忘れてはならないのは、ことばなんかなくても、生活していく上で大事なことがあることです。
 トイレに行けるようになること。着替えられるようになること。遊び食べをしないこと。友達とおもちゃを取り合ったら、自己主張ができること。その上で暴力に訴えないで、仲良くできるような交渉ができること。
 これらは、必ずしも絵本の世界と関係ありません。むしろ、ことばは、自分の生活に必要な限りでの意味を主張できるための道具です。

 自分の子どもを見ていて多少の不安があるのは、このような生活に必要なところでことばがうまく使えていないこと。生活のための自己表現の方法としてことばと、読むことばってのは必ずしも同じじゃないんですね。
 絵本が読める、それはいい。語彙が増えれば世界把握が広がるから。
 でも、文字の羅列をただただ誰にも意味を教えてもらえずに読んでいくのだったら…それはいったい、どれだけの非効率でしょうか。もちろん、知っている語彙の範囲から意味は推測もできます。絵の中から自分だけの力で発見できることもあるでしょう。でも、新しいことばは、絵を見てすぐわかるものではないのです。親や保育士さんが一緒に読んでやって、ようやくその意味、概念を「理解」していくことになります。
 別に、かな文字が全部読めたり、「箱根八里」を全部歌えるからと言って偉いわけでもなんでもないです。親も子も楽しいから遊びとしてやっている範囲のことで、そのほかにもっと大事なことがあることは、親たる自分はよくわかっています。

 図書館の話にしましょう。
 単純なことです。
 これまで「情報」ということばをめぐって、文字記号の機械検索と、意味としてのコンテンツの話をしてきました。
 上記の子どもの世界認知の問題から、人間にとって、利用者にとって、重要なことが何であるのかはすぐわかると思います。わが子はまだ文字記号の羅列が読める、それだけのことでしかないということです。「あ」という記号が記号だとわかって、発音ができる。それだけでは何の「意味」もなしません。
 図書館や情報サービスが何を提供するのか。明らかです。文字記号ではありません。全文検索エンジンを流用しようとも、それは意味のあるコンテンツに導くための「道具」でしかないということは明白でしょう。検索結果から、意味あるコンテンツとして重要性を認識できるかどうかという作用は、人間でなければできない。
 何を提供するのか。サービスの目標がなんなのか。それをはっきりと、情報=ある範囲のコンテンツ、と意識しなければ、機械(電子図書館!)が道具でしかなかったり、機械が提供できるものが単なる便宜であったり、ということがわからなくなっていってしまう。

 ことばの問題は保育士さんだったら誰でもわかっていることだし、読み聞かせはもしかすると図書館員よりも上なんじゃないかと思います。
 図書館・情報学にせよ法情報学にせよ、「情報」に関する混乱というのは、こんなレベルの問題でしかないということです。図書館員ってのは、本当に「情報」のプロなんでしょうか?図書館・情報学ってのは、何を研究しているのでしょうか?

 驚くべきは、認知心理学が発達心理学・教育心理学ではこういった子どもについての議論を当たり前にしているのに、その先、一般社会における社会心理学的なアプローチの著作になると、基本からすぐ応用に、変わった方向に転じてしまうこと。これも、情報学における不幸なのかなあと思ってみたり。
 認識に違いがあるようでしたら是非ご指摘ください。

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