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March 2005

2005.03.01

ココフラッシュをサイドバーに

 サイドバーに「ココフラッシュ:図書館」を貼り込んでみた。方法は以下ご覧あれ。
 自分でも既に2004.12.3付「ココログスタッフルーム、ココフラッシュナビ」で記事にしていたようだったが、忘れていた。
 スタッフルームも覗いていないと、いつの間にか模様替えをしている。@niftyのサポートに電話をする機会があるたびに、「ココログのヘルプやユーザーガイドはわかりにくい、整理を」と申し上げているのだが…。

 なんかブログ全体のデザイン・イメージが崩れるので、やってみておもしろくなかったらそのうちはずしてしまおうと思っている。
 どれだけの人が統制語としてのユーザーカテゴリ「図書館」を利用してココフラッシュに載せてくれるかによるので、また意外な記事との出会いを期待もするのだけれど。
 みなさん、ユーザーカテゴリに「図書館」を作りましょう。まだ20名に満たないので、統制語の意義はあまりないように思われます。

ココログスタッフからのお知らせルーム: ココフラッシュがバージョンアップしました!

 こんにちは、タクヤです。
 既にお気づきの方も多いかと思いますが、ココフラッシュの新着記事を自分のココログのサイドバーにリスト表示できるようになりました。このスタッフルームの右サイドバーにも表示されている"「○○」のココログ記事"というやつです。この新着リストは、標準カテゴリとユーザーカテゴリ両方の約300カテゴリ全てに対応しています。色々な楽しみ方があると思いますので、是非一度使ってみて下さい。
 やり方は簡単。自分のココログに張り付けたいカテゴリをココフラッシュの中から選び、「自分のブログに貼る」を押してみて下さい。

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2005.03.08

「図書館学、情報学と法情報学」のその後

 しばらく休んでしまいました。
 先の連載に対して、MIZUKIさんがせっかく感想の記事を書いてくださったので、対応する記事を書き始めたら暴走してとりとめがなくなってしまいました。恥ずかしながらもったいないので、このあと「稿」としてアップしようかと思っていますが、正式にまとめた自分の意見ではないのでよろしくお願いします。特に最後の部分はとってつけた感が否めません。

 あの連載自体は、検索エンジンの情報とコンテンツとしての情報って違うだろ?という以前の記事「検索エンジンと図書館が提供する"コンテンツ"」から出発しています。この記事のコメント欄に書かれていますが、図書館・情報学には「専門性のある主題知識と、図書館員(資料担当職員)の経験との間に、一般理論があってしかるべきなんじゃないのだろうか」という疑問です。
 その歪みみたいなものが、「情報」ということばに表れている気がする。そこから、なにかしら説明しようとしてみたのがあの連載でした。法情報学もまた、同じような「電子情報による新局面」と「情報から見た学問」を混同しているように思えたからです。

 ところが、連載当初から「うまくまとまらないかもなあ」と宣言していたとおり、上に述べた肝心の「間」を埋めるところがうまく説明できなかったという気がしています。まあ、連載終了直後のMIZUKIさんのブログに入れたコメントで、こうも書いていますが。

 「コンテンツの問題には届かなかったけれど、私の方のコメントに書いていただいた「知識」と「経験」の間の話に少しは届いたかな…届いていてほしいな、と思っています。」

 うまく説明できなかった、情報―コンテンツの問題を少しでも埋めようと、次に考えたのは、情報学批判に用いた法律学方法論の紹介をしようかと考えました。
 「コンテンツとしての社会的知識―社会心理的な認知パターンは誰が決定するのか」という問題について、次のテーマを。これはまだ書いていないので、機会があったらにします。

・法律学方法論における客観説・主観説
・法の解釈は誰が行うのか?

 あとはまあ、それよりも書きやすそうな、子育て中に感じている子どもと絵本のことなんかも。
 実は、電子情報の検索対象としての文字記号の問題と、認知型のコンテンツ=パターン認識の問題と直結しているので、普通に書けるかなと。

 それと、図書館情報学の昨今の大きな成果二つが、実際の図書館現場でいかに逆機能を生じているか。その成果二つは現実に必要なんだけれども、逆機能を起こしかねない理由はやはり図書館学側の情報学的な観点の不充分さに起因していると思う。
 読んでいてよくわからないと思いますが、これが自分自身の情報-コンテンツの問題意識そのままなので、ストレートに書いてしまった方があとで書きやすいかなとか。
 そのあとの記事として、「指宿信ほか監修『LEGAL RESEARCH』は、図書館界における国立国会図書館法令議会資料室の"敗北"である!」といった辺りに流れ着けるかなと。

 そんなこんなで時間が経ってしまいました。まあ、ほかにやることもあるのでのんびり復活していきます。
 元が年末年始に宣言した備忘モードだしね。

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2005.03.09

【稿】『図書館学と情報学、法情報学』感想の感想 (1)

 前の記事「「図書館学と情報学、法情報学」のその後」に書いたとおり、まとめきれなかったMIZUKIさんの感想の感想を【稿】としてアップすることにしました。備忘ブログなんで、お許しを。
 暴走したと言っておりましたが、そのとおり長文となってしまったので、例によって記事としては三分割します。

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 MIZUKIさん、あのような長文(!)をお読みいただき、ありがとうございました。さぞかし骨が折れたのではないでしょうか。
 MIZUKIさんのブログにコメントしようかとも思いましたが、また長くなったので、こちらで記事を書いてトラックバックすることにしました。
 MIZUKIさんの記事は後の方に大事なことが書いてあると思いますので、結果的に逆順にコメントしていきます。

 感想を読ませていただいて、少し考えさせられました。

1)まず、総じて。
 やはり「まんなか」のところ、が伝えられていないのだと思いました。自分なりに意味を込めている「情報」「コンテンツ」にせよ、それらに自分がどのようなイメージ、具体的な例を与えているかをきちんと書いていないので、そりゃ伝わらないんだろう、と。
 今回の場合、勢いで自分の頭の中にある大枠、アウトラインを備忘的にまず書き上げてしまいたかったということがありますので、お許しいただきたいところです。

2)(『図書館情報学』のあり方について)

 具体性が伝わっていないから、だから、学問の方法論の「普遍性」ということばだけに、なんだかおぼつかないままひとり歩きさせてしまった嫌いがあります。これは自分の責任です。「図書館情報学」に方法論的な普遍性を求めてはいるのですが、それがどんな話をしているんだか、自分の文章からではよくわからない。
 基礎法学で代表させたつもりだったのですが、かえってわかりにくくなってしまったようです。4)に続きます。

3)(「従来の法学を『情報』の観点で考える」について)

 MIZUKIさんがひいた例は、どちらかというと「電子情報ネットワーク環境における法状況を考える」に近いようです。
 法情報学を引っ張り出した話は次の4)で。

【2005.3.10追記】
 本来【稿】(3)の文末に付けるべきなんでしょうが、【稿】(2)(3)で言いたかったことというのは、MIZUKIさんの次のコメントに対応しています。

 法学と図書館情報学の共通点というのは、共に実社会に密接に関わる学問分野であるということ。しかし、大きく異なるのは、法学は法の解釈次第で社会の命運を変えうるということ。図書館情報学にその可能性が0とは言いませんが、通常はそこまでには至らないと思います。

 これに対して、社会的インパクトの問題じゃないんだよ、「情報」=意味の解釈=コンテンツの了解次第で、学問やサービスの目標の差が出てきてしまう、基本的な了解の問題なんじゃないの?ということなんです。
 そういう意味で、情報学は、法・情報学にせよ図書館・情報学にせよ、「情報」という形を採ろうが採るまいが、学問や方法の基盤に意識的に横たわるべきでありましょう、ということ。
 それが言いたかったことなんでした。【稿】(2)は法情報学の出来のよい研究の側から、【稿】(3)は一般の看護などの現場から法情報の配置について説明する形で、「情報学」の方法の基盤としての重要性を訴える形を採っています。
 わかりにくくてすみませんでした。ああ、少しすっきりした。

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【稿】『図書館学と情報学、法情報学』感想の感想 (2)

4)(『法情報学』のあり方について)その1

 ここで古賀崇氏の業績を軽々に持ち出すとご当人に怒られるかもしれないのですが、自分はこの方の業績に非常に注目しています。のちほど出てきます。

 自分の文章の中で、法情報学には二つのアプローチがあって、分かれてしまっているように見えると書きました。電子情報ネットワークレベルでのそれと、「従来の法学を『情報』の観点で考える」と。この後者の意味をいま一度踏み込んで書いておきます。シリーズ中でも後者を問題としているからです。
 実際、法情報学が「従来の法学を情報の観点で考える」というとき、法情報の社会的配置の問題が意識されていることは多いような気がします。
 図書館屋が接する範囲で、このような法情報学を考えてみましょう。著作権法を例にとります。用語が正確でないのはやっぱりごめんなさい。

 図書館での複写は、法律によって、著作権法の原則の例外として、部分的な複写を認められていますが、更にある程度裁量も認められています。これは「図書館にとっては」前提ですよね。
 しかし、普通の利用者から見れば、なぜそのようなしくみになっているのかわからないどころか、図書館が意地悪をしているようにさえ感じることさえある(言うまでもなく入手不能な資料の全冊複写の場合が顕著)。「サービスが悪い」、法律問題だと認識されないわけです。
 図書館員は法律の内容を説明しますが、図書館員自身も皆が皆納得しているだけの正当性が著作権法にあるかというと、少なくとも自分や周囲の図書館員はいくばくかの疑問をもってもいます。通例、文化庁が有権"的な"解釈を提示しているので、それに従って疑問はそのまま終えることになってしまいます。
 一度ここで確認しておきます。ここで登場するのは、図書館(専門職員)、利用者(市民)、文化庁(当該法令を管轄する官庁)。これらが同じ法律の条文と、実際の利用について、なんだか不具合を感じているわけです。これが図書館における著作権法を例にとった場合の一般的な法状況です。

 ところで、古賀崇氏の近年の労作に、アメリカの政府出版物がなぜ著作権法上の適用を受けない制度になっているか、そしてどのような形で図書館と関係があるかを追った研究「アメリカにおける政府情報と著作権をめぐる議論」『情報ネットワーク・ローレビュー』Vol.2, 2003.11, p.1-19.があります。古賀氏の研究を法情報学的な観点から言えば、米国政府刊行物の著作権法上の位置づけを、情報政策として理のあるところを歴史的に説明してくれていました。結論は、政府情報を著作権法の制限なく流通させることには、民主主義にとって有用であるという説得的な理由付けと、そのための運動があったことを示しています。
 この業績には、喝采を送りました。図書館で日本の政府刊行物を扱う立場に立ってみれば、日本の著作権法の不備を日々痛感するからであり、このような「情報学的な」研究が(従来の言い方で言えば「比較法的な」研究が)、現行法を理解する上で有用であることもわかるでしょう。

 自分が彼の業績を賞賛するのはなぜか、「法情報学的に」述べてみようと思います。
 図書館で日常的に行われている著作権運用については、完全に否定する立場ではないにしても(法治国家ですから)、法が適用される現場は、おかしな点については運用の是正にせよ法改正にせよ、現場での法情報のありかたについて、立法府や法学界に対してモノを言っていくべきだと思うからです。図書館員としてではなく、法の執行機関たる組織体たる図書館として。おそらくこの法状況がわかっていてモノが言えるのは、不特定少数の利用者ではなく、ベンダーたる図書館自身でしかない。
 著作権法に詳しい図書館学の先生に、実際の図書館での著作権法の丹念な運用の実際を説明したところ―自分は法学部卒でもあるので、ある程度理不尽な運用でも、線を引かなければならないところではばかばかしくても線を引かねばならないと積極的に思っています―、「そんなの人件費の無駄じゃん」と一蹴されたことがあります。先生に悪意はありませんでしたし、半分は冗談でしょう。でも、先生も、図書館での丹念な運用を半分冗談のように受け止めないではいられないようでした。
 古賀氏の視点は、そのような図書館でも疑問をもっている事態に、少しでも解明の光を当てつつあるように見えたのです。

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【稿】『図書館学と情報学、法情報学』感想の感想 (3)

5)(『法情報学』のあり方について)その2

 「従来の法学を『情報』の観点で考える」と言ったときの法情報学。上記の例から、法情報の配置関係を今一度俯瞰的に確かめてみます。
 アクターは、法の執行者(図書館)、市民(利用者)、当該法規を管轄する官庁(文化庁)です。通例、法情報の配置は、詳細には市民にまで届きません。法の執行者と法令を管轄する官庁、そしてその本当の背後には法を制定する政治過程をもつ議会、そして解釈を確定する裁判所がいるわけです。

 私事ながら病院での事例を。
 ある会計に納得できずに(紹介サービスの事後報告にまで利用者負担でお金を取るってんだから…)、「厚生労働省の指針があるのでしょ?それを見せてくださいよ」と 病院事務の方に言ったことがあります。そして、「患者の同意なしに料金を取るのはおかしい」ここに書いてあるじゃないか、と指摘して撤回させました。
 病院の論理は、「皆そうしている」。ちょっと待て。さっきの医者の話ではほとんど治っているし、こちらを紹介してもらった元々の病院はたまたまこちらの大病院があいていなかった時間だったから駆け込んだだけで、仮に同じ症状が出たらこちらの専門の科にまっすぐ来る。元の病院に知らせる必要はない。
 3000円もの金を稼ぐのに、例えばラーメン屋の親父がどれだけ苦労してるかわかってんのか、と。病院にしてみれば嫌な患者ですね。図書館にも困った利用者はいますけれど。

 ここでは、法令の執行者は病院(医者、事務職員)、市民は患者、官庁は厚生労働省です。法令は共通のテキストとなっており、そこで語られるコンテンツ―意味―解釈行為については、実はアクターの間で揺れがあります。
 ここでは、医者が患者たる私に充分な医療内容の説明をした上で、コストがかかることについてきちんとした同意を得なかったことに問題がありました。表面的には私はクレーマー以外の何者でもないでしょうが、事務の方とは冷静にその「指針」に書かれた「テキスト」の理解について話ができ、むしろ該当の医者が、看護学なり医学における情報流通の意義を理解していないという話でオチを付けてくれました。事務の方は「この先生にはよく話しておきます」とは言っていましたけれど、実際上の権力関係上うまくいくとも思えませんでしたけれどね。

 これらアクターの間に流れる法に関する「情報」の配置を、見直してみよう、という議論は、成り立つはずです。
 自分がシリーズ(5)で法情報学を「陳腐だ」とクサしたのは、(6)以降で紹介した基礎法学における法律学方法論でも同等の議論(主体と規範認識の問題)がなされているからですが、法情報学が同等の意味合いを繰り返していても、「従来の法学を『情報』の観点で考える」ことはなお有意義ではないかと思います。「情報」の語を使うことで、過去の事績との関連に混乱があるのが残念ですが、論じられないよりも改めて光が当てられる方がよほどマシだからです。
 これは、古賀氏が研究の主戦場とした立法過程だけでなく、問題を解決する司法の場においてもやはり同様の問題は考えられます。例えば裁判員制度なんかは格好の素材ではないでしょうか。個別ケースの判断における事実認定-規範認識に一般市民がどのように加わるか、ということですから。「認識」「読み」「解釈」という問題は、まさに法にまつわる「情報」の問題と言っていいと思います。ちなみに陪審制と職業裁判官の問題も、法律学方法論の枠内で既に議論はあります。
 なお、人工知能についても同様です。法にまつわる「方法」は普遍的ではありうるかもしれませんが、規範判断(意味の解釈)自体は、人工知能裁判官に任せておけるほど簡単ではない。司法判断と人工知能の研究をしている方々もおられるようですが、法学界でまじめに考えている人は少ないと思いますね。

 上の段落では「法情報」に限って例示してみたわけですが、おそらく他の分野、「医学」「看護学」でも、情報の配置の不均衡について論じる余地は充分にあるし、むしろ図書館・情報学の分野の病院図書館系統の研究で「インフォームド・コンセント」「セカンド・オピニオン」「パターナリズム」について論じられたものを見たことがありますよ。
 問題は、それが一般的な「情報」理論として汎用的に応用できるような形になっていないことです。

 ましてそれは、セマンティックWebだの、「意味論」と名は付いていますが機械検索によってなんとかなるようなものではないということは、言うまでもありません。

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2005.03.10

葛湯と「機動警察パトレイバー」マンガ版

 先日の中途半端な記事のアップで荷を下ろした気分になり、また少しでも何か出してしまうことは気持ちがいいもんだなあと感じてしまっています。ブログ中毒なのかも。
 近況報告ついでの記事です。

 @niftyに「マイニフティ」というサービスがあって、MyYahoo!を名前からしてパクったんだろうと思わせるような内容。要はポータルってんですか。
 ただ、RSSリーダが付いているのは新しい。技術に詳しくない自分でも便利。これを使って巡回ブログの更新状況を見ています。
 なんか、このところみなさん年度末で忙しいのか、更新が滞りがちですね。それと、がんばって更新されている中にあるのが、体調悪いことをそのまんま実況しておられるところ。やめて休んでくださいよ〜。

 自分自身、先の2週間は胃腸にキテました。
 で、スーパーで見かけた葛湯を愛用しています。生姜湯も売ってんですね。
 そのうちになぜか家族や実家から葛湯が集まってきて…そんな高級なのは要らないの!

 ちょっと前にこんな話を読んだことが。よくあることらしい。
 恋人付きの女性が倒れて、彼氏が助けに来てくれたものの、彼氏おかゆもまともに作れなくて、返って疲れた…「おかゆなんてレトルトがコンビニで売ってるでしょー!それで充分よっ!!」この痛切な叫びには賛同者が多かったようです。
 葛湯にせよ生姜湯にせよ、そういう時代なのかもねえ、と思ってスーパーで手に取りました。

 葛湯とさゆをお腹に入れながら、横になっていてもロクにモノが考えられない。
 最近手に入れた、ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』小学館文庫・全11巻を堪能していました。それくらいしかできなかったんですけどね、意外な拾いモノでした。

 腰を据えてまとめて読んだのはもしかすると初めてかも、ってくらい意外や意外、けっこう伏線張りまくり、心理描写がしっかりしているので、お腹のことを忘れられてよかった。これは腰据えてまとめて読まないとおもしろさがわかんないです。
 もしこれ読んでる方で「マンガ版パトレイバー」を「ロボットもの」と思ってたら大間違いですよ。エンターテイメント作品であることは間違いないですが、当時としてはかなり先んじた現代に通ずる社会問題の描写はあるし、社会批判的な視線がときおり感じられます。全然古びた感じがしない、これは一般もののマンガです。だってここに出てくるロボットって、基本的に土木作業機械なんですもん。むしろ、「道具」に対するものの感じ方とか、このブログで「機械」について考えていることとしっかりつながってきています。
 元がメディアミックス・プロジェクトのマンガなので、背景設定がしっかりしているのですが、それにしてもそれを前提に(つまり足枷にもなりうるわけで)、ゆうきまさみはひとりでオリジナル・マンガ化したんだから改めて賛嘆。『究極超人あ〜る』の頃はフツーの読者にはワケわかんないだろ!というネタや描写が多かった気がしたんですけれど、ゆうき氏はこの作品を完結させたことでずいぶんとしっかりした書き手になったのではないかと推測します。
 「パトレイバー」はビデオ版・テレビ版は結局見てなくて、むしろマンガ版、ゆうき氏の個性に惹かれていたのかもしれません(「あ〜る」もってなくても『ヤマトタケルの冒険』単行本もってるくらいだからなあ)。

 押井守氏が監督された映画の第一作、第二作は割と気に入っています。「PATLABOR 2 the movie」公開当時は学生で、「海外派兵を論じている現在、アニメ以外で自衛隊の問題を若者に対して発信している媒体があるかよ」とその頃からほかのメディアをバカにしていました。
 逆に「WXIII」と題されるパトレイバー映画第三作はまた違う問題を提起しているようなので、未見のいま、楽しみにしています。

 しかし、日本映画にせよ文学にせよ、もうちょっとなんとかなんないのかねえ。社会に対して論ずること、あるだろうによ…。今年は福井晴敏氏原作の映画が花盛りですが、あれもかなり自覚的なガンダム世代だもんねぇ。
 オタクの視線にも負けるような日本のオトナの表現の世界ってのは、ちょっとイヤになるな。要するにその内向きの感性って、シラケ世代、別の意味でのオタク状態なんだからさ。いわゆるオタクの空想、妄想の世界から、オトナの現実に目を転じた途端、オープンな場、刺をもった議論がない。これってちょっと逆にキモチワルイですよ。実はもうひとつのオタク状態ってことじゃないですか。
 「日本総オタク化」ってのは冗談じゃないのかもなあ。ちょっと前まではナウシカに違和感を感じていた世代があったはずなのに、だんだん時間が経つにつれそれが世代としても「普通」になっていく。
 オタクの世界は所詮アンダーグラウンドなもんだと思うんです。だから、いいんだし。宮崎駿が好きだってのはいいけれど、途中から「ジブリ作品は日本映画の代表作です!」とか言ってもち上げる気がしれん。ナウシカなんか「ロリコン」「萌え〜」の走りだしね。告白しておきますと、自分がジブリ作品で好きなのは『紅の豚』ですから。正面から「ラピュタ」がいいっていう人とは合わないと思う。

 あーしかしこの記事、ほんとにただのつぶやき・日記と化しておるな。ゆうき氏と「パトレイバー」に申し訳ない。

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2005.03.11

子どもとことば、生活世界―意味としての「情報」の認知

※この記事は、2005.3.8付「「図書館学、情報学と法情報学」のその後」で課題としていた、話題を扱っています。

あとはまあ、それよりも書きやすそうな、子育て中に感じている子どもと絵本のことなんかも。実は、電子情報の検索対象としての文字記号の問題と、認知型のコンテンツ=パターン認識の問題と直結しているので、普通に書けるかなと。

 「「図書館学、情報学と法情報学」のその後」で予告したとおり、非常にわかりやすいところから。
 ウチの子に見る、当たり前の子どもの話からです。
 ここで述べることは、自分が子どもを得る前から感じていたことであることは、初めに断っておきます。教育心理学の基本だからです。

 ウチの子、もう少しで3歳です。共働きなので、普段は保育園に通っています。
 まずここで語るべき内容で端的なことを。あとで短所を述べますので、親バカじゃないことはわかると思います。

 わが家で子育てをするのに、与えてやれることは何だろうと悩みました。そもそもが、一緒にいられる時間がとにかく短いからです。
 「歌を歌ってやること」「絵本を読んでやること」を一生懸命にしてやりました。
 それが、親と付き合う、触れ合う時間を取ることと、寝かしつけの際の技術としても役立ってくれました。
 間を端折りますが、結果的に、いま、この子はかな文字が全部読めます。歌も大好きで自分でよく口ずさんでいます。これはこの時期にしては早い方だそうです。
 新しい絵本を与えてやると、もう自分で声に出して読んでいます。

 このことで困っていることを述べましょう。
 文字が読めるということと、内容がわかる、ことばが使えるということは別だということです。

 絵本というメディアはよくできていて、ことばがリズムとして楽しくできている、「意味」が通ずるように絵が付いている、ストーリーが子どもに何かしら生活に役立つようにできています。
 上で端折ったことですが、読み聞かせるときには、このような絵本の特性を生かして少しでも「只読む」だけ以上の効果を図ってきました。リズムや声のトーンを変えたり声音をオーバーにしたり。文章を読むだけでなく、絵との関連がわかるようにわかることばで説明してやったり。ストーリーから得られる感情や教訓をすくい取って投げてやったり。

 子どもの記憶力はものすごくて、まず与えられたことばをそのまま覚えて音読します。
 覚えたそれぞれから、意味を実際の世界につなげて、だんだん応用を利かせていくものです。

 そして忘れてはならないのは、ことばなんかなくても、生活していく上で大事なことがあることです。
 トイレに行けるようになること。着替えられるようになること。遊び食べをしないこと。友達とおもちゃを取り合ったら、自己主張ができること。その上で暴力に訴えないで、仲良くできるような交渉ができること。
 これらは、必ずしも絵本の世界と関係ありません。むしろ、ことばは、自分の生活に必要な限りでの意味を主張できるための道具です。

 自分の子どもを見ていて多少の不安があるのは、このような生活に必要なところでことばがうまく使えていないこと。生活のための自己表現の方法としてことばと、読むことばってのは必ずしも同じじゃないんですね。
 絵本が読める、それはいい。語彙が増えれば世界把握が広がるから。
 でも、文字の羅列をただただ誰にも意味を教えてもらえずに読んでいくのだったら…それはいったい、どれだけの非効率でしょうか。もちろん、知っている語彙の範囲から意味は推測もできます。絵の中から自分だけの力で発見できることもあるでしょう。でも、新しいことばは、絵を見てすぐわかるものではないのです。親や保育士さんが一緒に読んでやって、ようやくその意味、概念を「理解」していくことになります。
 別に、かな文字が全部読めたり、「箱根八里」を全部歌えるからと言って偉いわけでもなんでもないです。親も子も楽しいから遊びとしてやっている範囲のことで、そのほかにもっと大事なことがあることは、親たる自分はよくわかっています。

 図書館の話にしましょう。
 単純なことです。
 これまで「情報」ということばをめぐって、文字記号の機械検索と、意味としてのコンテンツの話をしてきました。
 上記の子どもの世界認知の問題から、人間にとって、利用者にとって、重要なことが何であるのかはすぐわかると思います。わが子はまだ文字記号の羅列が読める、それだけのことでしかないということです。「あ」という記号が記号だとわかって、発音ができる。それだけでは何の「意味」もなしません。
 図書館や情報サービスが何を提供するのか。明らかです。文字記号ではありません。全文検索エンジンを流用しようとも、それは意味のあるコンテンツに導くための「道具」でしかないということは明白でしょう。検索結果から、意味あるコンテンツとして重要性を認識できるかどうかという作用は、人間でなければできない。
 何を提供するのか。サービスの目標がなんなのか。それをはっきりと、情報=ある範囲のコンテンツ、と意識しなければ、機械(電子図書館!)が道具でしかなかったり、機械が提供できるものが単なる便宜であったり、ということがわからなくなっていってしまう。

 ことばの問題は保育士さんだったら誰でもわかっていることだし、読み聞かせはもしかすると図書館員よりも上なんじゃないかと思います。
 図書館・情報学にせよ法情報学にせよ、「情報」に関する混乱というのは、こんなレベルの問題でしかないということです。図書館員ってのは、本当に「情報」のプロなんでしょうか?図書館・情報学ってのは、何を研究しているのでしょうか?

 驚くべきは、認知心理学が発達心理学・教育心理学ではこういった子どもについての議論を当たり前にしているのに、その先、一般社会における社会心理学的なアプローチの著作になると、基本からすぐ応用に、変わった方向に転じてしまうこと。これも、情報学における不幸なのかなあと思ってみたり。
 認識に違いがあるようでしたら是非ご指摘ください。

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2005.03.12

年度末を前に、ここでちょっと振り返る

 長文の連続、なんか肩に力が入りすぎているのかもしれない。
 3月前半にあったことなど、短い備忘をパラパラと。

 『夏子の酒』関係のCDを入手。以前紹介したサントラは主題歌がShort Versionしか収録されてなかったので、集めていたら集まってしまった。熊谷幸子のシングルCD『風と雲と私』と、同曲収録のアルバム『Poison Kiss』。それに、岩男潤子のイメージドラマCD『夏子の酒』も手に入った!…ちなみに全部まだ聴いていません…。

 松田道弘『チェスの楽しみ』を古本で入手。チェスの本も、手に入らなくなりがちなので確保してしまう性。その上、相手もいないのにチェスの対局時計なんか買ってしまった。

 以前の記事で書いた子どもと二人で長岡帰省した折、"いつもの酒屋"で『久保田 碧寿』を購入。震災後の出荷日を確認。封を切ったらまた報告します。『山古志』という名の酒も、支援を考えて購入。孝行にと思い、普段「千寿」しか飲んでいない父に『久保田 萬寿』を置いてきた。

bairin050308 先々週と先週、ひどい下痢。今年の風邪はお腹に来るという話だが、その関係か。葛湯の話は少し前の記事で既述。

 子どもがインフルエンザ。早期に手を打って、既にこの土曜で解決。それでも十日間は振りまわされたか。

 おかげで今週の平日昼間、以前の記事で触れた梅林の様子を見に通りがかることができました。数年のうちに道路開発でなくなってしまう梅林です。写真を貼っておきます。へたくそですけど。

 ワープロソフトのアウトライン機能については、別に後続記事を起こしたのでご覧ください。

 ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』小学館文庫については既に紹介済み。

 「モモちゃんとアカネちゃんの本」講談社文庫版5冊揃いをついに入手!シリーズ全6巻あるところ、NDL-OPACでは講談社文庫版では第5巻『アカネちゃんとお客さんのパパ』までしか確認できなかった。第6巻『アカネちゃんのなみだの海』は講談社文庫版は刊行されなかったと判断。

 ほかにも、自分の方でも医者に行って些事に疲れたり、友達と絶交寸前にまでいって反省したり(奇跡的に仲直りできました)…と、生きているといろいろあるなあ、やっぱり。

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2005.03.13

Wordのスタイル設定とアウトライン機能、活用してますか

 アウトライン機能は、やっぱりWordをまず中心に考えざるを得ないという結論に至る。
 ほかにO'sEditor2を使ったり、従来の一太郎Lite2、アウトラインでも優秀な互換性をもつ一太郎2005を活用するにせよ。
 要はWordのスタイル設定とアウトラインモードを活用できるようになるということ。入門書には差込印刷は出ていても、スタイルについてはあまり詳しく書いていない。ここまでこなすと「ワードプロセッサとしてのソフトウェア」を使いこなしたことになるのだろう。
 当時憧れだった旧Mac用中古ワープロを入手しても、同様のアウトライン機能は標準で付いていることが多く、アメリカの文章作成技術・文化を感じないではいられない。

 言っておくけど、Wordをメインの筆記用具にするということではないんですわ。発想をまずまとめたり、パーツとしてのひとまとまりの文章を書く段階では、やっぱりなじむ道具というものは手放せないと思っている。
 でも、最後の外部とのやりとりを考える段階を想定すると、文章全体を構成する段階でどうしてもWordでのとりまとめは念頭におくことが必要になる。その辺りの機能は理解はまずしておかないとね、という話です。
 その上で、一太郎2005なり一太郎Lite2のランク機能をどう連携させてなじませていくかは今後さわっていってみたいと思います。

 しかし定番ソフトのマニュアル本は、いい加減中級以上のユーザ向けの本をもっと出してくれないかと思うんだが…あれじゃエディタ並みのことしかできないでしょう。せいさか差し込み印刷と図表の挿入を覚えて「年賀状」かな。
 でも年賀状は専用ソフトが売れてるし、ワープロの解説本て何のためにあるのさと言いたくもなる。

 それにしても、数年前に簡単な論文を書いてみるという講義でWordのスタイル・テンプレートについては経験済みなのだが、それでも慣れるまで、使いこなしているという感触に至るまでには違和感がある。
 驚いたのは、当時はスタイル設定とアウトラインモードについての解説書を見かけなかったが、いまは論文作成のために、ワープロの「機能」を活用することに主眼を置いた本が何冊か出ていた。
 今回購入した本。

・デジタル・ビジョン『Wordでラクラク論文作成 Microsoft Wordによる論文作成・管理術』カットシステム,2002.
嶋貫健司『論文・レポート作成に使うWord活用法 Wordを真っ当に使うためのスタイル活用テクニック』カットシステム,2004.
豊沢聡『スタイルでキメる!英語で書く論文・レポート Wordを利用したレイアウト・スタイル設定法』カットシステム,2004.
プロジェクトMJ『Word vs 一太郎 Wordユーザーに捧げる一太郎読本』ジャストシステム,2003.

 最後の一太郎本はジャストシステム編で、一太郎ユーザアンケートが特徴。一太郎の歴史を振り返り、なるほどこういう機能が一太郎のいいところなのか…と思いたいところですが、一太郎自体を使ってみないとまだよくわかりません。結局一太郎の強みってなんなのさ?ってところがわかんないんだもの。その意味ではいまひとつインパクトに欠けた。まあ、Word批判の部分は誰しも感じるところが多いので、確認できてよかったかな。問題はそれが一太郎でどう解決されているかがよくわからないんですね。
 本書は、一太郎Ver.13が前提ですが、一太郎2004,2005にも受け継がれている機能はかなりあるとみましたので、過去の経緯から機能を知りたかった自分には、意外なところで役に立ちました。

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2005.03.14

生物学者の目から見ると

 週末に、高校時代の友人に電話した。友人は生物学の研究者だ。
 二つの話題を書こうと思う。
 自然科学としての生物学の対象と、図書館学や法学の対象の話。
 「生物としての人間にとっては、都市での生活ではおかしくなるよ」という彼の話。

 前者は、書いていたらまた長くなってしまった。
 生物学の「分類」、法学の「概念」、図書館学の「分類」について、それぞれ対応する対象を考察した。この部分だけ別の記事にする。
 ここでは結論だけ書こう。生物学の対象は人間の外にある自然だが、法学や図書館学の対象は、社会や、人間の中にある観念である。

 で、後者の、彼の話。
 彼はいま、田舎の大学に勤務している。聞いてみたら、首都圏にもよく出てきているそうだ。研究プロジェクトのメンバーだから。
 そこで彼が口にしたのが、上のことば。
 「生物としての人間にとっては、都市での生活ではおかしくなるよ」。

 同郷出身の彼にこちらの生活を愚痴っていたのだが、生物学者の目から、人間の環境としての都市生活を見ると、そんなふうに見えるらしい。
 自分は同意する。
 朝晩の通勤のサイクルにしても、毎日目にする風景にしても、もちろん、聞こえてきてしまう音も。

 そうして、仕事としてやっていることが人間の頭の中のことだから(次の記事を参照)、これまた「確からしさ」、手応えみたいなものがない。
 ああ、言い忘れていましたが、自分はいま図書の整理業務に就いています。利用者と接することはまずないのです。

 何というのか、―疲れているなあ。
 彼から対処の話も出て、少し元気が出ました。

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2005.03.15

生物学の「分類」、法学の「概念」、図書館学の「分類」

※2005.3.18、わかりやすくなるように手を入れました。文章の追加、修飾を付ける等。
※この記事は、2005.3.8付「「図書館学、情報学と法情報学」のその後」に関連する、話題を扱っています。

 前回の、高校時代の友人、生物学の研究者の話から。
 自然科学としての生物学の対象と、法学や図書館学の対象の話。
 生物学の「分類」、法学の「概念」、図書館学の「分類」について、それぞれ対応する対象を考察した。
 結論は、生物学の対象は人間の外にある自然だが、法学や図書館学の対象は、社会や、人間の中にある観念である。
 当たり前か。まあ、書いてみたので読んでみてください。

 まず、生物学の「分類」について。
 学生時代に、法学の「概念」、図書館学上の「分類」、生物学上の「分類」について彼と意見交換したことは非常に刺激的だった。このとき既に自分の念頭には吉田正幸氏、坂本賢三氏の著作があった(2005.2.22付「図書館学と情報学、法情報学(7) : 基礎情報学と情報の社会的認識」を参照)。
 当時、彼に聞いたところだと、生物学における「分類学」というのも、生物学の中でもなかなかに特異な領域らしい。
 生物学は生物そのものを対象とする学問である。人間がどう捉えようが、そこにその観察対象たる「自然」はある。それを人間が観察・理解していくのが生物学であり、普通の自然科学だろう。彼によればそれに対して、生物学における分類学は、(普通の)生物学じゃないと言う。考えてみればそうだ。
 既に観察し発見した、通常の生物学上の成果をベースに、人間の都合に合わせてある基準を立て、どの系統に入れるとよいだの、いやそれよりはこちらがよいだのとやっているわけだ。概念体系の構成上の問題以外の何でもない。
 実際、その当該の生物は、人間の思うような特徴をひとつだけもっているわけではなかったりして、人間の作る分類にきっちりと収まってくれるとは限らないのだそうだ。

 生物学の「分類」、法学の「概念」、図書館の「分類」。それぞれ対応する、「対象とするもの」は何か。その困難性を書いてみる。
 以下、法学と、図書館と続ける。法学について一生懸命書いているのは、少しでもご理解いただければと思ってのことですので、お許しください。

 ここから、法学の「概念」について。
 法学の「概念」も、概念構成上は体系をもっている。法令の構成がそうだし、上位概念があり、下位概念がある。
 実際の法的判断は、概念構成以前に、個別ケースに適切な判断が先行している場合が多いと言われている。ところが、規範命題上の概念がそのケースの利益等々を包摂した形をとって、あたかも概念論理的に導出されたように判決が書かれている。つまり三段論法、大前提=規範命題、小前提=認定事実、結論=判決のように導かれた「ことにする」わけだ。
 ところが本当はそうではない。それはなぜかと言うと…うーん、どう説明したらいいのかな、自分でもよくわかっていないようだが、たぶん日常言語としてわかりやすいからだと思う。大事なのは、真に論理的に概念導出的な判断がされているのではない、ということだ。おそらくこの領域は言語学の面目躍如たるところだろう。

 予備知識をここで注入しておくと、憲法を頂点とした制定法優位の法典編纂型の法体系は、「大陸法系」と呼ばれ、日本もこれに含まれる。明治期にドイツに範を採って以来のものだ。これに対して、判例法優位の法体系は「英米法系」と言われるが、英米法に制定法がないわけではない。
 大陸法に比べると法令の改廃など体系的ではないが、実際の法令に詳しい方に聞くと、どちらがいいかどうかという問題ではなくて長短あるそうだ。また前掲記事の青井秀夫氏の研究によれば「概念上の規範体系」はやはり双方に存在しており、よく「制定法主義」「判例法主義」と対極に置かれるほどに違いはないと言う。

 ここのところは青井説に則って説明しているのだが、個別ケースにおける判断がケースごとに行われると言っても、その判断を規範命題の概念に包摂した形にして、規範体系に則っておくことは、直観的に有意義であることはわかる。重要なメリットとしては、ひとつひとつの利益判断は別に独立別個になされているわけではなく、人間社会の諸側面を見た上での社会的な判断であって、個々の利益判断を体系化したものが「概念上の規範体系」だからだ。利益相互のバランスが、立法政策的にまた、司法経験的にそこに蓄積される。
 で、何が言いたいかというと、その概念構成の整序を付けるのが、通例は、法学界、法学者の共同体である。法学の「概念構成」は、生物学―自然を対象とした学問との対応関係を考えてみると、テキストの形になった制定法の体系の問題だけではなく、実は社会の実態、利益の配置をどう見るかという現場主義的な発想との狭間に接しているはずのものなのだ。しかし、ケース主義、利益社会学的な観点を消失した瞬間に、文献学的な単なる概念の調整に終わりかねない。
 法の概念体系に接すること、法概念の解釈学というものは、そもそもが困難である。司法判断の検討にあたって、いちいち人間社会の利益配置を社会学的に統計調査しているわけでもないし、人生経験や専門的な経験に豊富なわけでもない。仮にそれを実践したところで、それら社会調査などの科学的分析や経験がそのまま、司法的に適切な概念を構成するとは限らないのだ。
 どうしても、生物学上の分類ですら困難があるのだから、対象が社会的利益という目に見えないものであるだけに、規範概念の整序はさらに(研究者間の)文献学的な概念操作に堕してしまいかねないという弱点がある。観察対象が明確にある生物学以上に、さらなる困難は否めないと思うのだ。
 実際的には、体系に視線を配りながらケースにこだわる、これしかないだろう。法の世界では、社会的文脈を見すえた上での、個別ケースの解決こそが求められているのだから。

 ところで、図書館の「分類」体系は、どうか。
 まあ、これは言うまでもあるまい。法学以上に頭の中の「普遍的な世界把握の概念体系」以外の何だろうか。それが便宜的であることさえ忘れなければ、使えると思う。配架分類も利用の便を上げるためのもの以外のなにものでもあるまい。
 しかし、生物学の「分類」、法学の「概念構成」を経てきてみて、図書館の「分類」が指し示す「対象」が何なのか、と考えてみるとどうだろうか。
 もちろん、ひとつひとつの要素は文献資料なのだが…図書館の「分類」とは、概念体系以外の何でもないだろう。図書館の「分類」が「便宜的な」「普遍性」を目的とするならば、…正直、その便宜的な普遍性、網羅性だけが残らざるをえまい。何のためか。利用の便のため。それ以上でもそれ以下でもなく、その利用という名のもとにある「利益」については、まったくフリー、ノータッチである。便宜的な普遍性を求めるということは、体系全体としては無目的という選択をしたに近い。
 対象云々ではなく、図書館の「分類」にとって重要なのは、「利用の便のためにどれだけ有効な道具たりえるか」。そこだろう。例えば詳細な構成を作り上げるかとか、普遍性をもった世界把握の範囲を広くとるかとか、その中で要素のひとつひとつに付与する際は検索にかかりやすいような工夫をするとか、いずれも利用の便のためであって、概念構成それ自体に便宜的以上の意味はない。
 いずれにせよ、頭の中のことだ。いかんせん、普遍性とか一般性という目標自体が困難だろう。
 実務に携わってみると、(便宜的な普遍性を目的とした)体系を維持したまま、個別の概念の整序を付けるという作業自体は、やはり「すごいこと」だと思うのだが。

 まとめ。
 生物学の「分類」と、法学の「概念」と図書館学の「分類」は、体系性や人間の概念の問題で共通でありながら、異なる。結論は既に述べたとおりである。
 上記ではそれぞれの困難性を述べたが、困難性の度が増していくのは、結論に示した対象の「違い」故だろう。対象がどんどん人間の頭脳の外にあるモノから、抽象的・概念構成的になっていくから、「何のために、何をやっているのか」を意識していかないと、「いま、何をやっているのか」わからなくなっていってしまうのだ。

 図書館の分類、役に立ってますか?

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2005.03.16

健康診断に向けて…「内臓脂肪は注意しないとな」

 体重が増えているらしい。
 職場の定期健康診断は、春。今度は5月だという。
 少し意識して、体重を減らした方がよさそうだ。

 毎年、家の体重計にたま〜に乗っては「こっこんなはずでは…」と焦り、温泉などに行っては測り直してホッとしていた。きっと家の体重計が間違っているんだと。しかし今回、家の体重計が示した数値は信じられなかった。
 昨日日中、少し体調が悪かったので職場の健康管理室に行き、横になりながら保健士さんとしばらく体重と食生活の話をした。
 横になる前に健康管理室の体重計で測ってみると、紛うことなくジャストβkg。いつもはαkg誤差2kgのところ、既にβ=α+5kgである…。これまでにない重量加重!
 保健士さん「おウチの体重計も正しいんですよ」…。

 これまで受診した健康診断の結果は、就職してからほとんど取っておいてあるが、BMI等ほとんど変化がない。たいして健康に気を遣わずにきたものだから、われながら驚く。
 最近も、健康診断の数週間前にα+2〜3kgでも、だいたい健康診断の当日に測ってみるとαkgでホッとすることの繰り返し。
 考えてみると、たぶん家の体重計も正しいのだろうが、別のところで計測しているときはその直前に多大なストレスがかかることが多かった。それで体重が減っていたのに違いない。渋々ながら、そう考え直すことにした。

 確かにここ数ヶ月、あまりに配慮がなさすぎた。
 まず、通勤復路途上で軽くペットボトルなど買ってしまう。
 帰宅時間が不規則になってしまいそうなときは家人に迷惑をかけないよう外食となる。それで吉野家やラーメン、というのがよくない。
 その上まだある。夜食をつい、口にしてしまうのだ。

 保健士さんと話をしていて、
 「葛湯はいいんじゃないですか」
 「…さゆ飲んでることにします」
 「それと、やっぱりおウチで夕食摂った方がいいですよ」
 …ごもっとも。

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2005.03.17

人型ロボット・パトレイバー異論

 パトレイバー絡みのネット上のテキストで、覚え書き。
 前の記事に先日付いたkaw氏からのコメントへのレスにも書いたけど、そのページを探し出してきたので、リンクしときます。

オカノ通信オカノ通信バックナンバー2002年4-6月
ゆうきまさみのにげちゃだめかな?ゆうきまさみのスケッチブック:パトレイバーの夜(2001.11.11)

 「オカノ通信」のページからも、下にスクロールすると「オカ通セレクション」の中に「パトレイバー」関係のショートカットが出てきます。
 ゆうき氏のページ内へのリンクはオカノ通信の該当記事内からもリンク貼ってありますが、一応。

 要するに火種は、押井守氏がパトレイバーに参加しながら批判を内在させていたんだけど、ようく考えてみると、少なくとも押井氏が「人型ロボットなんて…!」と言う権利はどこにもないんだよね、というところ。
 ただ、言われてるメンバーは大人だから、押井氏がごちゃごちゃ言っていても、ゆうき氏などはうまくかわして、まあプロジェクト「ヘッドギア」はみんな違う方向向いていたし…ベクトルは違っていても人型ロボットでやりたい向きは多かったしねえ。僕は鉄人28号なんだけどさ?という風に。

 オシイストの方々とパトレイバーファンとの間にやりとりがどうもあったらしいんだけど、もうずいぶん前の記事だから自分はよく知りません。

 以下の感想は、とってつけたようで申し訳ないんだけど。
 自分はこの岡野勇さんのコミック版についての評、好きです。Web上でコミック版についての評価、ほかにあまり知らないんですけどね。ゆうきまさみ・マンガ版『機動警察パトレイバー』って、もっと評価あっていい作品だと思います。
 アニメはね。押井監督映画版を1と2しか観てないし、両方好きで。どちらかというと1の方が、都市・東京に込めた情念がHOSとストーリーに感じられて、とても好きなんだけど。
 でもね、あの押井版を見ていても、イングラムがほとんど活躍の機会がないのに、動くの見たら「ロボットアニメだ…オマージュたっぷりのパトレイバーをアニメにしたら、ホントに"ロボットアニメ"にしか見えない…」とは思いましたよ。もちろん、それがいいって人もいる(ていうかその方が多い)と思いますが、自分はオマージュだからこそマンガで読む意味が大きいと思うんですよね。
 うん、だからこそ。マンガ版の、紙の上なのに感じられる空気感とか、人間関係の微妙な描写が、「オマージュにとどまらない新鮮さ」として評価されていいと思うんですよ。

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2005.03.18

このブログの、感想をください。

 コメント募集。何度かおいでいただいている「あなたのコメント」が、ほしいのです。
 この記事のコメント欄に、当ブログのまとめ的な感想をください。各論的なコメントなら、各記事に。
 できれば、評論風にお願いします。「この辺はいいなと思うけど、この辺はちょっとどうかと思うなあ」とか。
 最初から謝ってしまって申し訳ないですが、うまくレス書けるかわかりません。あまり経験ないですし。

 ネタ切れ、というか、書いている途中の原稿の一部が二カ所埋まらなくて出せません。
 埋まらないまんま出しちゃおうかとも思うのですが、しばらく寝かせておいてことばが出てくるのを待とうと思います。

 で、明日から少し家を離れるのと、ネタ切れなのとで、上記、お尋ねしてみることにしました。

 アクセス解析を見ていて、一見さんのリンク元は辿れるんです。
 へえ、こんな関心でおいでになって…ってところまでは。
 でもね、それは自分がここでがんばって書いているような記事じゃなくて、ズレって当たり前にあるんですね。
 「春の花」「Mac mini」「Word 一太郎」…。

 でも、問題は。問題というか、自分がとっても興味があるのは。
 常連さんなんですよ。常連なんて言うと「いやー自分は違いますよ〜」とおっしゃるかもしれませんが、ブックマークや決まったリンクから飛んでこられる方です。
 アクセス解析だと、毎日十人強はいらっしゃいます。「前回訪問してからの時間」を見ると別に連日でなくて、日をおいておいでになっている方が、計測値上「毎日十人強」おられるようなんです。
 何で見捨てずに見に来てくださるのか。どんな方、なんです?

 ウチのブログって、変なところでしょ。
 エマやパトレイバーにトチ狂っていたり、子どもを引き合いにしてまで「情報」の話書いたり。途中、地震絡みのことは書きましたが、最初のうちはカバンのこと書いたりね。
 「酒とMacとホームズと」どころじゃないですよね。

 それでも、おいでくださる。
 何をお読みになってくださってるんでしょうか?
 ぜひ、知りたいんです。

 長いのはやっぱり最初から忌避されてますかね…(苦笑)。
 それと、自分みたいに雑食性の方はどのくらいおられるのかどうか。

 では、みなさま。よろしくお願いいたします。
 ゲストブック代わりにでも、足跡残していってくださいね。

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2005.03.23

ひきつづき「感想」募集中。リピーターに限らずどうぞ。

 今週は子育てモードで、記事はほとんどお休みです。
 先週末は家人は土日出勤でしたので、再び子どもと私と二人で長岡に帰省。ところが月曜に家人が急に発熱、とりあえず二日で収まりましたが(インフルエンザもあったので病気はいい加減にしてくれ〜)、今週はあちらに残業もあるので、そんな事情でずっと子どもに付き合ってます。
 今回の帰省でもまた綴っておきたいことがあるんですが、我慢して貯めておきます(苦笑)。

 「このブログの感想をください」。コメントの数々、まずはありがとうございます。
 上記のとおり、しばらくお休みということもありますので、ぜひほかの方も書き込みお願いいたします。
 この記事にコメント付けてくださってもオッケーです。
 「今後のリピーター候補」の方も、よろしかったらぜひ。

 ついでと言っては何ですが、「常連」ということばで一題。
 今回私の記事でも「常連」よりは「リピーター」ということばの方がふさわしかったかもなあと思います。特に純粋に統計上の意味ですのでね。

 ウチの職場で、「常連」ということばが悪い意味で取られたことがあるんです。
 カウンターで「この方は常連さんだから(わかっていてくださる、大丈夫よ)」と職員間で話していたら、聞こえてしまい、騒動になったことがありました。そのお客さまからすると「常連」だと扱いが違うのか、特別扱いかよぅ!というように受け取られてしまったようです。
 図書館職員の側では不慣れなカウンター要員の間で安心できる方という主旨で言っていたのに、不幸な話です。でも、スミマセンとしか申し上げられないですね。
 「常連」ってことばにはよかれあしかれ、なにか気持ちがこもってますよね。

 ウチのブログではどっちがいいんだろうなあ。
 自分にとっては、「常連さん」の暖かくも冷静なことばは本当に嬉しかったですし、くすぐったいほど。もっと書いて書いてって感じですけれども。
 でもとりわけ感想を伺ってみたいのは、リピーターさん。淡々と日をおいておいでになる方々ですね。書き込みにくいかと思いますが、ゲストブック気分でひとことでかまいません。お待ちしております。この記事にどうぞコメントください。

 図書館ネタ以外の雑録読者も書いて〜!
 よくよく見ていくと、図書館ネタは実はあまり書いてないんですよ、自分。最近たまたま続いただけです。今後も図書館ネタには力点置けるかは不明…。
 看板に偽りアリってか?(笑)

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2005.03.25

小千谷に行って来ました。

 週末、長岡の実家に帰省。再び、子どもと親一人での旅程でした(前回の記事はこちら)。家人が土日出勤のため、孫にベタ惚れの母に子どもの世話を頼む悪い親です。
 子どもは「Maxとき号でおばあちゃんちに行ける」ことと「(絵本に出てくる)駅弁が食べられる」ことが楽しみだったようですが、車内でひとりで付き合う親の方は昼寝もしてくれないので、少々げっそり。
 しかし二人で新幹線窓外を見ていて、越後湯沢で軽い視覚的衝撃。またもや「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」。白主体のモノトーンの視野に、斜めに降る雪。長岡に着いてみると、晴れていたのですけれどね。
 着いてすぐに、雪遊び。先の記事にも書いたご近所のお兄ちゃん作成のかまくらが大きくなっていました。あとで人が集まるというので、床を深く広くする作業を手伝って、自分でも「ひとンちの雪掘り」楽しんでいました。
 たぶん、今週の気温と雨で溶けてしまったでしょうから、雪遊びをするにはちょうど最後の、いい機会だったと思います。

 翌日曜の午後には諸々理由があって一泊で帰宅する予定だったので、その午前中に父に頼んで小千谷に車を出してもらいました。父はついでに震源地の川口方面も行こうと言って出ました。
 地震以来、初めての小千谷行きです。
 実は小千谷は、自分が幼年時代を過ごした街です。はっきり書けば、両親が共働きだったために生後ご近所のおばあちゃんに預かってもらい、慈眼寺の隣の小千谷幼稚園に通い、市の総合体育館の隣の小千谷小学校に入ってから引越、転校しました。長岡に母の実家があったものですから、自分の「おばあちゃんち」に行くときは、あの崩落があった妙見堰のトンネルを通過する内側からの映像は当たり前のことのように視覚に焼き付いています。
 今回は、報道やネットでしか知らないあの小千谷を自分の目で見てみたかった。地震以来どころか、小千谷には中学に上がってからは訪れたことがありませんでしたから、もちろん変わったところがたくさんあるのは当然です。でも、変わらないところもたくさんあるようでした。それが、どうなっているのか…。

 幼稚園にまず行きました。幼稚園はなんと卒園式当日。なんだかラッキー。玄関から覗いた幼稚園のホールは覚えていたとおりで、正面の舞台では大昔なにかやった覚えもあります。園歌は覚えていなかったけれど、各クラスへ向かう廊下への入口に掲げられた園歌の額はそのままでした。
 隣の慈眼寺は雪で埋まっていましたが、ちょうど復興チャリティーイベントをやっていたので少しだけ寄付。時間とかちゃんと知っていればプロジェクトのシールも買ってきたんですが、正式な時間よりも早かったみたいです。
 そこから歩いていける市の総合体育館、隣の小学校に。小学校前には、引越直前の休みの日に、いじめっ子だったけれど仲は悪くなかった幼稚園の同級生と最後のお別れをした懐かしい記憶もあります。
 近くにあった小千谷市立図書館は休館日でした。

 魚沼神社を経由して、昔の住宅のあったところに。
 幼なじみの家に「30年前に○○ちゃんと遊んでいた者ですけど…」と顔を出したら、おばちゃんが覚えていてくれて、ひとしきりおしゃべり。
 隣の敷地が空き地になっていて1メートルほどの高さの積雪。その一画を指して、「地震のあと秋に新潟へ引っ越してしまいましたて」。この辺からだんだん、これまで知らなかった、雪の下に隠された地震の爪跡を目の当たりにしていくことになります。

 それから商店街、小千谷駅前を通り過ぎて震源地・川口へ。駅前くらいまではブルーシートの見えるよく知るような被災地でしたが、さらに上の集落へ。
 好天に恵まれて、魚沼三山がすばらしい光景でした。越後三山の名の方が知られていますね、(越後)駒ヶ岳、中ノ岳、そして八海山です。高校時代は登山部でしたから嬉しかったですよ。ああ、この風景を愛しているぞって心から思いました。
 子ども心に「小学校の校歌でいうほど小千谷から八海山って見えるのかなあ」と思っていたものでしたが、これならと納得しました(長岡からも見えるということも今回知った…恥)。
 しかし、美しい山々の遠景の手前、近景には、5メートルの積雪の下に崩壊した家屋があることは明白。白い雪は何もかにも隠してしまいます。本当に、心が痛みました。行く前から心が騒いだので、小千谷駅前で父に「なんで川口に行くのさ」と言っていたくらいでした。いまは雪の下にあってどうにも手が着けられませんが、雪解けとともに顕わになり、地滑りなどの二次災害が起こることは目に見えています。暗い気持ちになりました。

 センバ漬けを酒の肴にほしいと思ったので、小千谷駅前に戻り、土産物屋さんに寄ってずいぶん味噌漬けだの買い込んできました。センバ漬けは入手できず。工場のいくつかは壊滅しているとも聞きました。
 ちなみにここで購入した酒饅は最高にうまかったです。「しおり」から書き出しておきます。

 「酒饅頭ほくほく」菓子処さかたや(三島郡寺泊町)製造。
 北越北線開通記念に、「上善如水」と餡は県内産サツマイモ「ベニアズマ」を使用。

 酒を使った土産菓子でここまでうまいのは初めて。上善如水も酒そのものは酷評しか与えられないんだけど、これならいいです。
 自宅に帰宅してみると、土日出勤だった家人が高熱。というわけで、せっかく肴を買ってきたのに酒はお預け、今週はしばらく子どもの面倒を見ることになったという次第です。

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2005.03.26

このブログの感想への返信 (1)

 「このブログの、「感想」をください。」にコメントくださった方々、どうもありがとうございました。記事を起こして、お返事させていただきます。
 ここで記事を起こすのは、次の記事の準備ができてきたので区切りをつけようとしてのことですが、リピーターさん「感想」募集はひき続き受け付けますので、ぜひほかの方も「感想ください」「感想募集」の元記事にコメント付けてください。

 全体として、自分のスタンスをもう少し明らかにしたほうがいいのかなという感触を得ました。特に、図書館について(後続の記事はその話題に関連していますが…成功していません)。例えば、図書館関係の固い連載も、本当に論文にするなら注をきちんと入れて裏づけの取れたものにしなければなりません。でも、そうではない。
 随分最初の頃に、「図書館員の愛弟子のプロフィール」という記事を書きかけてそれっきりになっているのですが、改めて起こす方がいいのかなというように思いました。

 「愛弟子のプロフィール」に書くかもしれませんが、簡単な答えとしては、このブログは次のような姿勢で書いています。

 ・備忘(日記や、頭に浮かんだことは何でも)
 ・文章をまとめてみる練習
 ・将来のホームページのネタの蓄積

 …中途半端ですみません。「仮稿」という位置付けってことですから…。

 アクセス解析について、再考。
 なぜ始めたかは以前も書きましたが、左近さんとamehareさんが話されているように、きっかけになったのはこの記事です。「書いたからには責任があると思った」と言っては聞こえがいいですが、左近さんのTBやリンクを辿っていったときに、「責任」というか社会的な影響の中に自分の身を置いたことが、こわくなったのです。それで、知りたいと思いました。ちなみにこの記事へのアクセスについては、数週間前に激減して、今では1割に満たないほどに減っています。さすがに気にはもうなりません。
 平行して関心が向き始めたのは、衝動的な備忘とはいえ、リンク先である検索結果から見てすぐわかることでした。読まれている記事とそうでない記事に差がある。実はこれは、最初の動機となった記事に起こったこととそんなに変わらないんですよね。これはかんちゃんご指摘のとおりです。自分にとって有用な記事がないかと探しに検索してみて、ワンクリック。関係ないなと思ったらおしまい。最初のケースはものすごく関心が多かったからにすぎず、誰でも、自分でもよくやる動作です。

 となると逆に、いつも自分がやるように、あるブログが気になって読みに行き来する「常連」。わがブログをリピーターとして読んでいる人々がどれだけいるのかということが知りたくなってきました。要するに、「読者」です。
 「備忘」のつもりでやっているくせに、「読者」が気になるなんて。自分でも苦笑してしまいます。
 改めて生ログを追ってみますと、ここ一週間ほどの間に見に来た方でリピーターはあと10名には満たないです。今回、固定読者の人数がかなり少ないということがわかったからには、気になるばかりだからアクセス解析もやめちゃってもいいかなとも思っています。

 では次回、コメントを話題ごとにまとめて返信します。前述の部分で返答になっている箇所は略させていただきます。

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2005.03.27

このブログの感想への返信 (2)

G.C.W.さんwrote:
実は図書館ネタを中心に読みに来ています.
amehareさんwrote:
自分にとっては利用者側からみる図書館の皆様の事を知りたいと思う気持ちで読み始めました。
ウェブログ図書館 館長さんwrote:
個人的には、続きものの論考記事が興味深く大歓迎であります。

 意外や意外、常連さんは図書館ネタに注目していただいているんですね。インパクト大きかったのかしら。
 いや〜正直なところ、図書館ネタは、読んでいただいて嬉しいです。いまの職場が楽しくないので、図書館の日報的な話が書けません。だから、この分野は記事の数自体少ないんですよ。サイト名に対してこのネタはスタートも遅かった。しかしそれだけに、ずっと頭の中で考えていること、溜まっていることを整理するためにも吐き出してしまいたい、"自分を含む"読者に読んでもらいたいという気持ちがずっとありました。
 反面やっぱり正直なところ、「固すぎる」「わけわからん」「反応できん」という意見も数多く。反省もあります。読者としての自分もわからないんじゃしょうがない。でも、自分なりに"いまできるところ"までのまとめを書いていく場だと位置付けているので、ご意見に耳を傾けつつ今後も書きたいときに書ける形で書いていこうと思います。そんなに器用じゃないので、文体なぞは変えられませんのでごめんなさい。
 批評・感想歓迎します。自分でもわかっているかどうかよくわからないので、レスうまく書けるかわかりませんが。「ここんとこ、わけわかんないよ」「飛躍があるんじゃないの」といった反応があれば、また考えることができます。
 本当は頭の中でつながっているはずの「断片」を書き付けていくことで、つなげていきたいと思って書いています。まずは"自分の中の読者"のために。

左近さんwrote:
「情報」についての一連のお話は、どういう考えを批判対象として想定なさっているのかよくわかりませんでした。
個人的には、図書館へのroeさんの思いや、WWWと図書館はどう向き合っていくかというあたりのお考えを少しずつでも伺ってみたいなという気持ちはあります。

 (1)の冒頭でも触れましたが、図書館ネタでは、この辺りはわかるように書きたい、課題であると思っています。

あるふぁ氏wrote:
意義があるかないかは、読む側の評価に任せてはどうでしょうか。書く前から意識する必要はないかもしれませんよ。

 顔見知りとはいえ、読者の側からかくもはっきりと書いてもらえると、やっぱり気が楽になりますね。
 自分で「好きでやっている」「しょせん備忘」とわかっているつもりとはいえ。視野狭窄になっていることもありますもん。

amehareさんwrote:
「エクリチュール」にあるのは間違いありません。
左近さんwrote:
私にとっては文章からにじみ出るroeさんのお人柄に触れに来ているという側面も大きいのでしょうね。
あるふぁ氏wrote:
あぁ、roe氏はこんなことを考えているのか、という純粋に日記的な内容が楽しくて見に来ているクチです。
意義がないことのように思えても、読む側には嬉しいことというのもあると思うのです。

 うひゃあ、エクリチュールと来たかあ。思わず辞書ひいてしまいましたよ。
 でも、やっぱり「文は人なり」なんでしょうか、まさか自分の文章についてこんなふうなコメントが付くとは思いませんでした。
 みなさん、ありがとうございます。

かんちゃんwrote:
一度やっぱりオフでお話ししてみたいな。

 なんとかできたらいいですねえ。なんとかしたいですねえ。

amehareさんwrote:
それに僕自身も「エマ」愛読者ですし、Macからパソコン始めた経緯から未だに愛着を持っていますしね。
あるふぁ氏wrote:
エマ、いよいよ来月から放送ですね。楽しみ。

 図書館ネタに対して、少々寂しかったのが、ほかの記事についての言及。さすがに『エマ』は最近話題だもんね。
 「ブログ全体」としては主題が散ってしまって、印象が弱いんでしょうか。

 酒のネタがどうも、新潟の記事に隠れてしまっているので、なんとかしたいところ。
 『夏子の酒』も読んでみてくださいよ〜。

 では、みなさん。このたびは本当にありがとうございました。
 今後ともよろしくお願いいたします。

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2005.03.28

図書館情報学批判(1) : 私の主張のまとめ(2005.3)

※この記事は、2005.3.8付「「図書館学、情報学と法情報学」のその後」で課題としていた、話題を扱っています。

 これまでの記事のそれぞれのまとめの部分で、いくつか自分の主張をしてきています。
 ばらばらなので、わかりにくい。自分の整理のためにもまとめてみます。
 ここでは、図書館情報学という学問、研究者に対してです。
 私は、次の二つの領域の研究について、批判と懐疑の目を向けています。ここに書いてあることが根底と言っていいです。
 もっと大事なことあるだろうに、こんなことやっちゃってて…その上それで本来の目標を台無しにしている…!と、いうのが図書館情報学に対する恨みです。

 ・数値による評価指標
 ・電子図書館など機械化技術

 この二つの領域の研究成果は、現在の図書館現場に必要であると同時に、現場で却って逆機能化している場合があります。必要性については、もう痛いほどわかるというか、自分もこれまで一生懸命勉強してきたつもりです。
 しかし現場で逆機能化するのは、おそらく、研究そのもの・研究者自身は意図してはおらずとも、現場組織で利用しようとするときに誤解をしてしまうのです。

 むしろ誤解されないような「実践的に使えるパッケージ」としての研究を望みたい。その研究が「使える」ところまでいけないのであれば、「実践的に使う」ためには「何が足りない」のか、どのような方向性の部分研究なのか、明示しなければ逆機能化してしまうでしょう。

 やや飛躍しますが、おそらくこの二つの領域に足りないのは、やはりこの間にある「情報」観が不安定だからではないかと思います。
 この二つはどちらも目標や目的を実現するための「道具」「技術」です。その目標や目的が不安定だから、「道具」や「技術」が自己目的化してしまうのです。
 その目標や目的を明らかにするためにも、図書館という制度が社会にとって何なのか、語ることばが別に必要なのではないかと思います。「情報」はそのキーワードとなるものです。

 主張を簡単にまとめると以上です。
 次回から、逆機能化していると思われる状況を述べてみます。
 ※残念ながら、(3)は成功しませんでした。

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2005.03.29

図書館情報学批判(2) : 「数値による評価指標」の逆機能

 これは図書館情報学の学界では、糸賀雅児先生らの「パフォーマンス指標」に関する成果や永田治樹先生らの研究グループの活動を指します。最初から断ってしまいますが、彼らの研究成果に対する私の理解は、次回に述べるもうひとつの逆機能の状況説明に比べると、不充分です。
 また、実践的な学問として図書館活動に使えるツールを提供しようと見られる先生方の姿勢には頭が下がります。図書館の外部に説明するためにも数値化による自己評価は必要であり、数値化も評価のための単なる道具でしかないこと、限界があることを彼ら自身が述べていることも知っています。しかし、申しわけありませんがそれらの研究姿勢には目をつむらせてください。ここでの批判もそれらを含んだ上であえて申し上げます。

 述べたいことがあります。

 一点め。それは、数値による評価指標は実際には、自らの首を絞める形になっていはしまいか、という点です。指標が目標になってしまう。これは、当初から想定されていたことだったのでしょうか?
 永田先生の口から直接「現状のままよりも利用者満足という値が出た方がいい」と伺ったこともありますが…。別の文献では「限界がある」「万能のように受け取られても困る」とも述べておられて、文脈に依存する話だったように推測します。

 二点め。数値化されない業務については評価できないこと。本ブログのほかの記事でもよく述べていて、自分はこれこそ図書館の上位の問題だと考えていますが、特に認知型の情報提供については指標は何も言いません。「利用者の満足度」という形で実現しようとするかもしれませんが、それは、ひとつの便法です。結果、一点めにも絡んで「数値化できるものが目標となる」という逆機能を果たしてしまうのです。

 以上が「数値による評価指標」の逆機能についての私の主張です。
 しかし私の立場を改めて表明しておきますと、私は「数値による評価指標」は必要である、とする立場です。サービスの達成度や利用者の動向を測るためには、数値化できるものは積極的に数値化すべきであり、統計学の適用は当たり前のようにされてしかるべきと考えています。

 問題は、図書館界にとってこのような評価・統計技術がオーバーテクノロジーであるということでしょう(統計上の検定や多変量解析は必要性を感じながらも私は理解できていません)。逆機能化はそのような技術にあまりにも慣れておらないために、起こっている現象と言えるかもしれません。
 ただ、この分野に関心をもつ研究者も経営者も、経営主体たる図書館の本来の目標を見失うようであってはならないし、慎重になっていただきたい、配慮していただきたい。そう考えるので、本記事のような主張をさせていただいた次第です。

 さらに追記しておきますと、評価指標が必要だからと言って、経営評価の問題をよりよく解決するための方策は、経営学なぞにはないと思います(自分の近くにこのような指向をもって経営学を学ぼうとする者がいるので)。経営学は、経営学を適用できる対象が把握できて初めて効果がある「道具」なわけで、無論「道具」の性質を理解しないと使えないでしょうが(その意味では無意味ではない)、対象をよく知って、適切なところに適用しないと、道具は暴発するだけです。
 むしろ現在の図書館情報学に必要なのは、経営学に対応できる情報理論、社会理論であると思います。
 民間企業に、経営指標に関する業務に携わった友人がいますが、同様のコメントが出てきました。理屈だけじゃ、ダメなのよね。現場を見ないと。

 ぜひ、過去の研究業績や最近の動向から、新しい知見や私の誤解があれば、お気づきの方、ご指摘ください。

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2005.03.30

図書館情報学批判(3) : 「電子図書館などの機械化技術」の逆機能

 単純なこと。
 「何のためのシステムか」。
 コストパフォーマンスを考えていない。

 以上。

 過去の記事において、機械検索の問題を採り上げ、システムが「情報技術」に過ぎないこと、図書館にとって必要と思われる認知型の「情報」との接点の問題には考慮が充分ではなさそうなことは既に取り上げました。学問の方法論上、欠陥があるということですね。
 追加して解説するまでもないような気もするのですが、この分野の研究者にはやはり現場からの声を知っておいてもらう必要があると思いますので。個人的には考えることすらしたくないのですけれども、何か伝わるように書いてみます。

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 すみません、以下はのちほど、元気があるときに訂正します。
 やっぱりこのことを一般的に語るのは、自分にとってトラウマを乗り越えること以外ではないですわ。無理はしないことにします。議論する前に現実を見ればわかるだろ!という状況をあまりに経験しすぎました。
 以下は書き流したまましばらく放置します。
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 コスト(資源)面と効果面とありますが、効果の方から説明します。

○効果面。

 「研究目的としての技術」としては了解できます。実験的な開発をやめろとまで言いません。うまく使えばよい技術なのでしょうから。
 しかしその技術の「道具性」や技術の「部分性」は、実務上問われねばなりません。サービス全体の中で、どのような効果を生むのか。どれだけの資源を投入して有効なのか。他のサービスとの整合性は。
 このような視点がないままに「電子図書館化」は現場で進められてしまっています。その慣性がどこから生じてしまっているかというと、対外的に現在の図書館は「わかりやすい実績」を作る必要があるからです。
 結果として、それが何のための技術であるのかという論を待たずに、事業目的化してしまいます。「機械化のための機械化」となってしまうのです。

 事業としての「電子図書館」を、端的な例として国立国会図書館で考えてみると…。

 無数のデータベースが乱立していることは、一見してわかります。
 データベースの問題点は、Google批判の記事で既に主要な主張は述べました。電子情報=認知的な「情報」ではないのですから、それだけでは「使えない」のです。
 そんなデータベースが、さらに無数に乱立しているということは、ユーザーに重心を置いた効率的なサービスモデルを「図書館としてもっていない」ということを露呈しているようなものです。

 また、電子展示というこれまた一見わかりやすい、一般受けしやすい事業があります。
 しかし、これはいったい「図書館の効果」を考えるとき、優先すべき事業でしょうか?もちろん、読み物、展示会として「物語として編集された資料群」を提示されることは、一巻の作品として満足度が高いでしょう。でも、「それだけのこと」ではないですか。
 図書館という制度は、ひとりひとりの利用者が、自由に情報を得るためのしくみであるならば(争うまでもなく自明のことです)、そのようなしくみに資源を投入する、効果を追求することが最優先なはずです。
 電子展示を始めとする社会的インパクトのある事業は、財政部門に対するアドバルーン以外の何でもないでしょう。そんなもののために、図書館本来の仕事があとまわしにされるとすれば、本末転倒です。
 実際の国会図書館の中での優先順位がどうなっているかは知りませんが、外に対するインパクトではそう見えます(話題になるのはデータベースと展示!)。同じ電子展示でも「日本の記憶」は、American Memoryが教育現場での教材として使われることを想定しているのとでは、まったく意味が違うでしょう。

 いったい、何をやっているんです?

 ○コスト面。

 「情報学」についての記事でも繰り返し触れましたが、とりわけ電子図書館の世界では、「情報」といったとき、情報科学、電子情報のそれをそのまま指してしまっています。
 これまた繰り返してしまいますが、認知型の「情報」観を忘れた開発は、「システム(機械化)が出来上がればそれでいい」と自己目的化するので、効果については途中から考えることを放棄します。
 そして、何が起こるか。
 恐ろしいことに投入する資源については…、効果は書類上のものとなって、予算要求が行われる。システムが出来上がること自体が目標となると、開発が進むにつれてシステムの要求仕様もいつの間にかどんどん削られていく。
 そこに費やされる人的な、組織論上の作業・調整の無駄。出来上がっていくものは…はたして役に立つんだろうか?
 以前の記事でも書いたことばを書きます。
 「何のために、何をしているんだろうか」。
 ただただ、虚しくなるばかりです。

 研究者に批判の矛先を向けたくもなります。外注の製品開発者だって、仕様調整に携わる者だって、使える道具が作りたいんです。
 だけど、そんなパッケージになっていない。
 電子図書館の研究者は、いったい何を研究しているのでしょうか?
 現場じゃ、電子図書館化と機械化って、同じですよ?????
 図書館情報学の「情報」って、電子情報、「機械化」のことなんですか?
 どこの会社でもやっているOffice Automationのことだったら、電子「図書館」なんて言う必要ないでしょう。

 別の話。電子展示の話をここでも。いま一度問いを発します。
 「物語」を作ることは、図書館の仕事でしょうか?編集作業には、専門的知識と労力が必要です。本を作るのならば、出版者になればよろしい
 出版者と同等の人的資源の投入は、その目標に視線を向けたときに疑念が起こります。「図書館が優先すべき仕事とは何か」ということを考えない思考が見え隠れしています。

○結論は、冒頭で述べたとおりです。
 図書館に関する(電子)情報技術の研究者のみなさん。海外の事例紹介も含め、図書館とは何かということをきちんと考えて提示してください。
 そして、図書館の経営者のみなさん。(電子)情報技術研究に振り回されないでください。

 コンテンツを作りゃそれでいいってもんじゃないんです。
 データベースは、丹念なデータ作成には人的労力が無視できないし、システム開発や運用に至るまで機械に振り回されるし。まとまったコンテンツはアドバルーン以上のものではないのに編集に投入するエネルギーは半端じゃないし。
 いまの図書館の「情報化」=ただの「機械化」にすぎないレベルのことをしているんだって、わかって、やってるんですか?紙媒体にして出版したら図書館の仕事として認められるかどうかわからないことをやっているってこと、わかって、やってるんですか?

 図書館がまずやんなきゃならない仕事、目の前にあるってこと、わかってます?
 「そこが、大事なんです!!!」
 図書館の本質的な仕事との関係がはっきりしない情報化=機械化なぞ、くそっくらえです。
 情報専門職としての図書館員はめざしたいですけどね。だから、システムだって勉強もする。

 でも、われわれはSEやプログラマじゃない。システム屋としての「情報」専門職が必要なら、また別の議論でしょう。そこで言う「情報」は、どう考えてもComputer Scienceの意味での「情報」であって、図書館学で言う「情報」ではありません。

 どうも、まとまりがないようですみません。まあ、本音が随分顔を出しています。記事としては失敗ですね。
 しっかし、図書館・情報学の情報科学部門の人たちのどうしようもなさは本当に情けなく思うなあ。「実践的な研究としてどうしようもない」「現場で役に立たない」って言っちゃ、間違ってますか?だから、「電子図書館」なんてもんに業界が振り回されるんだと思いますけどね。

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2005.03.31

図書館員と修士号

 数年間にわたるドイツ留学から学生時代の後輩が帰ってきてからしばらくになるが、ようやく電話で連絡がとれた。
 明日から始まる来年度は、共通の指導教官が停年退職される年だから、最終講義があるだろうし、退官記念の会もあるだろう。情報交換もしておきたかった。

 ドイツの大学図書館の話になった。
 「ひどかったですよ〜」。非正規職員ばかりで、サービスは悪かったそうだ。
 「アメリカは修士号もった司書がばかりだという話だけどね」と言うと、「カウンターに出ている職員全員がですか?それにアメリカだったら、修士なんてお金払えば取れるでしょう」。

 「ドイツに行った僕だってそうです。時間さえかければ取れますって。法哲学だと日本では博士号取れませんから…」。
 そう言う彼はアレクシーというドイツでは非常に高名な法哲学者の下に師事していたのである。彼の研究テーマはラートブルフを扱っていて、自分の目にはドイツ法哲学街道の本道まっしぐらに見える。
 まあ、いずれにせよ就職できたのは喜ばしい。基礎法学の世界では就職の口自体が厳しい。大学院進学時に先生も「就職は望めませんよ」と言うくらいだ。
 今春から講義を始めるというので、冷やかし半分に電話したのだが、順調な様子で安心した。それでも「就職なんてタイミングですよ〜。口があいているかどうかは偶然ですから、ラッキーでした」と言うのである。
 自分にとしては、彼のことは誇らしく思わせてもらう。彼は2年下の後輩だが、法哲学のゼミは自分が引きずり込んだのが縁だったからだ。勝手ながらそう思っている。

 しかし、アメリカの図書館員が修士号をもっているのは当たり前という話、日本から見るとただただすごいなあとよく思ってきたのだが、それも視点を変えて考えてみるべきなのかもしれない。話者自身は実体験から確実な体験談を語っているのだろうが、受け取る側は、きちんとしたデータに基づいた議論になっているとは限らないために、誇張が入ったり伝聞が重なって実は誤った理解がひとり歩きしてしまっているのではないか。
 自分の知り合いも、アメリカの大学院に図書館情報学で入学して、日本にいながらにしてe-learningのみで修士が取れてしまった。論文は書いていないそうだ。日本での図書館事典編纂の実績を単位互換にしてもらうなど、案外なんとかなってしまうというか、失礼ながら正直なところ、いい加減なもんだ。もちろん、リアルタイム・チャットでゼミをやるのに英語で対応するのは大変だろうとは思うけれども。
 日本でだって、昨今は図書館情報学会や情報メディア学会での発表はほんとに若手が増えてきて、小粒な発表をどんどんやっている。旧図書館情報大学や慶應義塾大学の大学院の図書館学修士号取得者が増えてきているからだ。日本の状況は、悪くはない。間口や視点が広がっている気がするし、社会人も受け入れていて、これからが楽しみな気がする。
 ただ、学会レベルはいいけれども、その裾野はというと、どうなんだろうなあ、と思うのである。

 本ブログではついこの前の記事で、研究者に対して「じゃ、研究ってなにやってんのさ」と批判をさせていただいたのだが、実務の世界でも、修士取得者であろうがなかろうが、図書館員は図書館員、変わるまい。
 修士号?だからって、何さ。修士ならなおのこと、いま何やってんのよ、だよな。

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