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February 2005

2005.02.01

以前の記事の追記について

 今日は、前の記事の追記。
 追記もコメントも長くなりがちだし、そういうときはなるべく記事に起こすことにします。
 追記ばっかりだとご新規さんはいいでしょうけれど、いつも読んでくださっている方は改訂があったことがわからないから、ありがたくないのでは。そう思いまして。
 そうだ、追記があったことも記事にするか。それもいいかもしれない、ちょっと今回から試してみよう。こんな感じで。

 2005.1.28付「義経記ならぬ義経日記」に次の記事を追記。

 考えてみると自分でも混乱する。
 いくら再編集が可能だからといって、同じところに集約させておけばわかりがいいと言っても、どんどん饒舌になるんじゃきりがない。グリーン・レクイエムの追記なんか、いつの間にか久美沙織の話になっちゃってるし。
 トラックバックの機能があるんだから、うまく使おう。

 なお、1.30より記事を古い順に表示させてみています。「やっぱり見にくいぞ」というご感想、ありますかね。

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土佐日記、絵文録ことのは

 先日の義経日記関係のメモ。
 似たようなスタイルの「土佐日記 - Tosa Blog」を既に書き上げてらっしゃったんですね。
 これ、受験生はありがたいと思うなあ。完全対訳版じゃん。
 副題「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。日本最古のネカマブログ」。…いわれてみればそうだ…。
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【公開前追記】
 Tosa Blogは、よくよく見ると、日々記さんところでもほかのブログ経由で既に採り上げられていた。長谷川豊祐氏の図書館員のためのインターネットのリンク集にも、義経日記と並び収録されている。図書館業界では出遅れてしまったようだ…。
 いかんなあ、追記に追記しちゃあ。
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 作者・松永英明さんのほかのブログを遡っていってみると、以前「ブログの定義」で参照させていただいた「はじめてのウェブログ [Weblog for Beginners]」の作者の方でもありました。

 で、彼のメインサイトが「絵文録ことのは」。
 アルファブロガーなんてことばも最近知ったんだけれども(←でもよくわかってない)、「週刊!木村剛」にいろいろ突っ込んでいるところなぞ見るに、ブログの世界では有名な方だったのかと思うのでした。土佐日記も義経日記もデザインよく凝っているなあと感心してたんです。
 追記ついでに、著作権関係のおもしろかった記事にリンク。よろしかったら読んでみてください。

絵文録ことのは:著作権ジャイアニストの理論武装に抵抗する

 著作権を保護しようとする旧勢力、解放しようとする自由主義者――しかし、ことはそれほど単純ではない。著作権の解放を唱える人にも2種類ある、というのが最近のわたしの感想である。それは、「自分が利用するため」に他人に著作権の一部放棄を求める人と、「自分のものをもっと利用してもらえるよう」に自分の著作権を一部放棄する人の2種類である。

 そこで、ネット内での著作権に絡む問題をおおざっぱにまとめた上で、いろいろ意見を述べてみたい。

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2005.02.02

「小説版エマ」を久美沙織が出すそうで

 驚いた。ちょっと反応遅れてるらしいんだけれど。
 今回、単にそれだけの記事。
 アニメ化のメディアミックスの"祭り"にのせられていく自分がいる…。

 Googleを「エマ 久美沙織」で検索かけて、リンクを辿っていった。
 わかりやすいのがこちらの現時点でのまとめ記事(1/19付)。
 一番早いソースは1/14久美沙織自身の日記。この時点で単巻ではないことがわかる。当人がノッテいる様子は頼もしい。
 公式には1/23空間コミックビームの「エマ」編集大場渉の日記。1/30に見た時点でクリック数4000超えてるから、ずいぶん話題になってるみたい。

 久美沙織を『ドラゴンクエスト 精霊ルビス伝説』でしか知らないので(本ブログ2005.1.5記事の追記及びコメント参照)、「エマを久美沙織が」の反響を知りたく思ったのだが、なんともよくわからない。「よし」とする声もあるが「えー」という声もある。
 はてなの久美沙織の項目を見ると、『精霊ルビス伝説』代表作に挙がっちゃってんじゃん。ドラクエのノヴェライズをサムネイルにされちゃかわいそうだなあ。先の検索結果の中には、「ドラクエ、読んだなあ」というだけの声もあった…自分と同じだ…。
 そういえば、『MOTHER』のノヴェライズが話題になったこともあった。原作ゲームのあのやわらかな感性の世界には合ってるんじゃないかと、一度読んでみたいと思っていたが未読。

 久美沙織の名前を知ったのは、学生時代の先輩が、「同じ高校の出身なんだ」と言っていたから。
 政治学を正面から追いかけていた彼には一目置いていたので、権威に弱い自分には影響があった。高校時代に読み始め、ちょうど長編に復活してきたアシモフにともに盛り上がり、当時連載中の逢坂みえこ『永遠の野原』を紹介してもらった(文庫版も完結してたんだ…)。レディスコミックの勃興期、なんでもありだった中「あれはよいよ」と。見る目があるんだなあと思った。
 それでも、大学生でドラクエにはまっていたことは自分にとっては気恥ずかしく、「精霊ルビス伝説」を書棚に見つけられたかしたときはきまりが悪かったんだろう。しかし、彼は彼女を評価していたので(「ルビス伝説」を自分で読みはしなかったが)、久美沙織と言えば彼のことばが印象が残っている。
 さてそれにしても、いつの時代の久美沙織だったんだろう。

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2005.02.03

森薫『エマ』は「メイドもの」か?

 最初にことわり書き。
 すいません、今回の記事は、偏見とか差別的な観点が含まれてるだろうこと、自覚してます。不快な方がいたらごめんなさい。
 ただ、本筋は最初の一文にありますので、よろしくお願いいたします。

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 ところで森薫『エマ』をお読みになったことのあるみなさん、「エマってどんなマンガ?」と聞かれたらどう言ってますか?
 『エマ』を人に紹介するのに「正統派メイドマンガ」と言うと、誤解も受けるし、そもそも本当は適切じゃないような気が…。控えめに、わかりやすく、端的に言うとこう表現するしかないような気がしていたんだけど。
 ちょっと考えてみました。

 自分自身は、マンガとかアニメにしっかり免疫があるせいか、「メイドもの」といわれてもホームズの仲間に「あれはいいよー」と言われたらすっと読めた。
 そりゃ、作者森薫は正統派のメイドさんを書きたくて同人時代から書いてきたんだし(その世界ではオピニオンリーダー扱いされているようでもあり)、あとがきマンガでもメイドさんのあれこれにフェティシズムを開陳してますよね。日本のヲタクシーンにしか存在しない猫耳メイドさんとは一線を画します、ほんとのメイドの魅力わかるでしょ、という味が作品中に含まれているのはわかります。
 でも、「『エマ』という作品」で大事なのは、「正統派メイド」の「正統派」の部分なんじゃないかなあ。
 『エマ ヴィクトリアンガイド』に出ていたけれど、編集さんと「何やります?」と三択提示されて選んだのが「恋愛もの」だったんだから、「恋愛もの」でしょう。で、舞台を彼女が得意で大好きなメイドやヴィクトリア朝の階級社会をもってきた。でも、メインテーマは恋愛。

 「エマ」のオチ予想に、「エマがメイドでなくなっちゃったらダメだ(メイドマンガのアイデンティティが崩れる)」という意見があるんだけれど、考えてみると変。この主張の論拠は二つあると思う。
 ひとつは、「エマ=メイドもの」としてのこだわり。でも、この作品のテーマは「メイド」じゃなくて、「恋愛」でしょう。恋愛のケリのつけ方によっては、エマがメイドでなくなる可能性は充分にある。
 もうひとつは、確かに、歴史的な階級社会が舞台背景にあって、考証(というかウンチクか)が魅力なのは間違いない。でも、考証の上でのフィクション、"ブリティッシュ・ロマンス"なんだからさ。歴史的にメイドがのし上がったら間違いだ、と言い出したらきりがない(ここでNHKの大河ドラマとか出してきたりしたらダメですかね)。もちろん、安易に階級の壁を飛び越えちゃったらつまらないですけど。ストーリーの構成、恋愛の障害、そして様々な視覚的な描写。よく時代の雰囲気出ていると思いませんか。
 前者の理由で言ってたら「『エマ』はメイドものでなくてはならない」んでしょうが、後者の理由で言ってたら同じ「メイドもの」でも、こだわっているところが違う。後者の人に「でもさ、ともあれ「エマ」ってジャンルとしては何なの?」と聞いてみたくなる。

 じゃあキミは何て説明すんのさ、って言われたら。やっぱり「"正統派"メイドもの」と言うしかないのか?

 ホームズの同人仲間の中でも、マンガに免疫がない人もいる。だから、自分も含めて最初はまずは資料として「ヴィクトリアンガイド」購入まではいく。しかし皆が皆、本編に食指が伸びるかというかというと、最初は抵抗感があるらしい。
 ところが、元々文学系の趣味の集まりというのは「同人」的な素地がそもそもあるというか(トートロジーですかね)、自分の領分ではないはずの「メイドさん」偏見も乗り越えられるところがあるようだ。ホームズのお仲間3人にエマ本編を勧めたが(いずれもそんなにどっぷりとマンガは読まない。ホームズ関係でお金なくなっちゃうので)、読む前の「えっ…いいよぉ」という声は、賞賛に変わった。
 ホームズのパロディ・パスティッシュには、商業作品にも、ストーリーも考証ももっとひどいものがある。そういう目からすると、森薫『エマ』は「よく描写されているよね」ということに。考証という点では、ホームズのような中流階級の視点ではなく、むしろ下層階級の世界が描写されていることの方が新鮮だろう。ホームズのファンには、当時の歴史や文学に非常に詳しい人もいれば、詳しくない人も多いから(ハーイ、自分がソウデス)。あとは登場人物に入り込めるかどうかで、好みが出てくるだろうか。
 ホームズ・ファンの間では間違いなく、「ヴィクトリア朝恋愛もの」。"ヴィクトリアン・ロマンス"(!)なんだろうな(つまんない結論ですみません)。

 実は、この記事書くきっかけ。3人とも説得するの大変だったからなんですよ。ホームズ・ファンてのはたいてい、ヴィクトリア朝関係だったら何でも親和性があるもんなんですけど…。マンガやアニメに抵抗があるとは限らないはずなんですけど…。これ、性別・世代まったく関係ないんですよね(ちなみに年輩の方が「ねえ、手塚治虫漫画全集のDVD…どうする?」などとおっしゃるのはざらで、その成果のひとつが水野雅士『手塚治虫とコナン・ドイル』だろう)。
 一人めは、ぱらっとめくって「『ヨコハマ買い出し紀行』に似てるね」と言った後、わが家に投宿中に布団の中で読み出したら止まらなくなって一晩で読みきり、朝になったら眠い目をこすりながら宗旨変え。
 二人めは、「まあ買わなくてもいいですから」と貸し出したら、お嬢さんと一緒になっていいよねと。
 三人めは、ひさしぶりに会って食事後に大書店に行って。「絶対損はしないと思うけど、もし気に入らなかったら2冊目として全部自分が引き取るからさ」と全冊買い(本の収集はちゃんとする人なので、丹念に帯含めきれいな本を選んでいたから、自分としては保存用に本当に引き取りたいくらい)。その後恋愛ものとしての感想を報告いただいている。
 いかに「メイドもの」という呼び方が損をしているか。まあ、損しているのがいったい誰なのか、と思うと変な話。

 「ヴィクトリア朝恋愛もの」という言い方で通用するかわからない。もうちょっと普通に言うと、「歴史大河もの」なんだろうか。なんか違う気がする…。
 やっぱり「"正統派"メイドもの」と言うしかないのかなあ。ブリティッシュ・ロマンス転じて「英國戀物語」?
 ねえ、みなさん。何て言って紹介してますか?

参考 空間コミックビーム:大場渉の空間 2004.4.20を参照。
 森薫自身のHPの日記にもこの話題、あったような。権威づけのために参照してるんじゃなくて、ヴィクトリア朝文化の振興という観点で評価されている、ということが言いたいだけです。

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2005.02.04

MOTHER3とSFC版MONOPOLY

 前に書いた記事の久美沙織-MOTHERつながりで、下に挙げたはてなの項目に辿り着いた。小説版『MOTHER』は久美沙織は招かれて書いているんだってね。どこかで見かけた。ネットを徘徊している中で、MOTHER3の小説版も久美沙織に!という記述に出会った。エッMOTHERって2迄しか出てないはずじゃ…。
 MOTHER3っていう企画の紆余曲折に驚いた。そこで備忘。

 MOTHERについては、実は自分ではちゃんとやったことない。
 1は、大昔、端でやっていたのを見ていて、ああ、いいゲームだなという印象があった。2は、発売直後に職場の直近の上司が「やんないの〜」と誘ってくるくらいはまっていた。
 そんなわけで、GBA版『MOTHER1+2』は入手だけしてある。

 自分のゲーム歴は、MOTHERを作っている糸井重里に関係があるので、これもメモ。
 学生時代にドラクエ3にはまってしまったのだが、ゲームはそれしかしなかった。自分でハードは買わずに借りてきて徹夜三昧。
 就職してから一年ほどで、スーパーファミコンを購入。それまではハードは買うまい、なるべくゲームから離れるんだと決めていた。
 買うことにした理由は、どうしてもやってみたいゲームが複数出たから。ずいぶん躊躇し続けた末の結果だ。ひとつが『伝説のオウガバトル』で、もうひとつがSFC版モノポリーだった。
 モノポリーは、学生時代のサークルの合宿では夜の遊びの定番だった。麻雀、UNO、トランプ、そしてモノポリー。大好きなボードゲームなんだけれども、就職してからは学生時代のように人数が集まらないだろうと寂しく思っていた。そこへゲーム版が出ると聞いて、いてもたってもいられなくなった。
 このSFC版モノポリー、糸井重里氏が関わったゲームで、本当にいつまでも楽しめるゲームだ。その後モノポリーのゲームはWindows版や準じたPS版が出ているが、これらはイトイ版じゃない。イトイ版は、AIキャラがよく作り込まれていて、やっていてとても楽しい。モノポリーとは駆け引きのゲームだから、個性のない名前がただただ付いているだけじゃおもしろくもなんともない。イトイ版は各AIキャラの個性をパラメータの違いだけではなく、名前やビジュアル、会話でもよく表していたために、まるでみんなでわいわいやっているような気分にちゃんとさせてくれる。その後SFC版は『モノポリー2』が出て、未だにこのためにスーパーファミコンが捨てられない。
 話は前後するが、モノポリーはボードゲームの愛好者間ではずっと定番のものだったが、ラジオ番組かなにかで糸井重里氏が「はまっている」と話したらものすごいブームになったんだそうだ。糸井氏は日本モノポリー協会の会長かなんかになって、「ほぼ日」にもモノポリーのページがある。

 MOTHERは、その糸井氏入魂の作品だから、期待していいと思っているのである。
 でも、本当にMOTHER3が今年出るんだろうか。2005年2月17日って目前ですよ。

【MOTHERについて】
 はてなダイアリー:MOTHERの項目
 Wikipedia:MOTHERの項目
 キマイラの森 MOTHER3ファンサイト

【NINTENDO64版開発中止関連】
 「ほぼ日」:樹の上の秘密基地─『MOTHER3』の開発が中止になったことについての糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会
 ファミ通.com:『MOTHER3』の話をしよう

【MOTHER最新情報】
 「ほぼ日」:『MOTHER』の目次。
 MOTHER1+2,MOTHER3最新情報

【2005.2.22追記】
 So Sophisticated...:頭の体操 モノポリー
 本記事では略してしまった「ほぼ日」のモノポリーページへのリンクや、モノポリーの紹介。

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2005.02.05

ブログの保存・ノウハウの調べ方

 2005.1.25付で「波乗野郎」でブログを保存したという記事を書いたが、フォローをしておく。
 アクセス解析で当ブログに辿り着かれた方がいて、そのリンク先を辿ると、もっと早く求める方法に辿り着く検索のしかたがあった。
 Yahoo!でも、Googleでも、「ブログ(の)バックアップ」と検索語を入れてやるとよい。同様の問題に当たり、結果的に同じく「波乗野郎」に辿り着いたという記事がヒットする。早く読めたらよかった…。

Seesaa デザインテンプレート:ブログの簡易バックアップ(2004.9.16付)
ネットビジネス開業:ブログのバックアップ方法を発見!!(2005.1.8付)
俺の旅 - 人生の記録:ブログのバックアップはできるかな?(2005.1.21付)

 自分の採った探索戦略を失敗、迂回したものとして記しておく(一部は前の内容の再掲なのでご参照を)。

1.検索エンジンには「ブログ 保存」と入れてみたら失敗。
2.窓の杜とVectorでホームページ・掲示板の自動保存・巡回ソフトを、当たりをつけて試用するハメに陥った。
3.ブログのリーダーとしても使えるCMNを迂回。
4.結局はホームページをまるごとローカルに保存するジャンルのソフトに。結果的にやはり有効であることがわかった。

 試用してみた中で、リンクもローカルで相対リンクにほぼ完全に書き直してくれる点で希望を満たす「波乗野郎」を使っているが、実はけっこう不安定。
 ほかにもIEの「お気に入り」ローカル保存機能、PageDown、GetHTMLW等も試した上での選択だが、決定版と言えるものがほしい。どなたか作ってくださ〜い。

 Googleだとか検索サービスも、自分が求めるところまで頭がいいといいんだけど。一方で、セマンティックWebとかあるようだけれど、解決できるとは全然思っていない。しょせん道具だ。
 情報の検索は、機械による自動化(道具を便利にしていく)よりはまず第一に、ある人間が得た有益な経験を効果的に伝達・共有できるような、まとめとかガイドの作成が大事で、次にそれをいかに目に付くところにもってこれるかだ。機械による検索の話題は所詮この第二の段階だろう。第一の段階が大事、そう思ってこれも書いている。

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2005.02.06

トップの配列順、再考

 そろそろネタ切れということもあって、小休止ついでに。
 1/30よりトップの記事の配列をあえて「古い順」にしていましたが、あまりよさそうではないので、「新しい順」に戻します。
 この記事が掲載される2/6かその翌日から、順序変えます。

 追記についての記事を入れるときは、前後関係が素直にわかる時系列がいいか(「次、以前の記事の追記だよ〜」と入れてから後続記事が始まる)と思ったんですけどね。
 「新しい順」にしておいても、記事を書いてから注記のごとく「下の記事は、以前の記事の追記です」と書いても、まあ、いいですよね。

 二つ原因があります。
 ひとつは、「やっぱりドキッとします」という知人の声があったこと。
 あと、日付によるバックナンバーの表示順が、「古い順」しかないことに気がつきました。ならばなおのことトップの表示順も「古い順」がいいのかもしれませんが、これまた少し考えてみます。

【05.2.7追記】
 バックナンバーもカテゴリも、表示順はトップの記事順と連動していて、違う順序が選べないですね。古い順しかなかったんじゃなくて、「トップを古い順にしてたから」だったわけか。バックナンバーにせよカテゴリにせよ、古い順の方が見やすいと思うんだが…。うーん。
 ま、しかたないか。またいつか、逆順にひっくりかえしていたら、ご容赦を。

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2005.02.07

ブログをいじりました。

 「俺」さまからコメントいただいたので、「俺の旅」の記事をいくつか読む。まじめに、おバカに、死ぬまで豊かに生きてやる!という東大の学生さんのブログだ。読んでいて気持ちいい。「俺印良品」というカテゴリの記事の中に、きれいな時計を発見
 その、KOuさんのCube Clockを設置。ブログはこちら
 ほかのサイトを覗いていて、ブログペットとか楽しそうなのだが、あまり本来の記事以外でゴテゴテしてもなあ…ウチはもともとサイドバーにいろいろ詰め込んでるし(こっちもそのうち整理しないと)。お月さまとかいいんですけど、でかいし…obaさんの読書日記はひとつの理想ですね。
 で、シンプルな時計ならと。片隅に置いてみました。

 Cube Clockの色設定をするにあたり、「色選びのちょっとしたコツ」という記事を読んだ。「blogのキーカラーを…」なるほどと思った。そこでこの機会に、ココログのスタイルをいじる。
 その結果が現在の状態です。元々の「TypePad風」のグリーンをベースに、統一のトーンにしてみました。
 どこが「酒」と「Mac」と「ホームズ」となんじゃーい。ほんとはシックな雰囲気にしたかったんですが、カラーコーディネートはへたくそなんです。
 安直だけど緑はきらいじゃないんで、とりあえず第一弾。季節によって感じ方が違うかもしれない。第二弾があるかな〜。シックなのと、やっぱ青いきれいなの作ってみたいですね。

 ココログプラスは、ココログベーシックと違って、スタイルをいじり倒せるところは確かに利点。プラスをやめる前に、いくつかテンプレートセットを作ってしまえばいい。それからやめようと思っていました。できたものは残るようですので。
 でも、プラスはコース変更月は無料なので、無料のうちにスタイルをいじってベーシックに戻せばいいのか?のんびりプラスの料金払い続けるのもどうかな。第二弾を作るのもめんどくさいし、一旦やめちゃうか。

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2005.02.08

ココログプラスからベーシックへのダウングレード─カスタマイズしたテンプレートは?

 ダウングレードの際の注意点は、基本的にはこちらのヘルプに書いてあるとおりなんだけど。
 自分が心配していた、プラスのときに加工したココログのテンプレートセット(スタイル)は、残るようです。
 まだそんなにいじっていないもうひとつのブログの方で、実際に試してみました。プラスにして、スタイル加工しまくって、ベーシックに戻したけれど、ちゃんとスタイルをいじって保存したテンプレートセットは残っていました。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
 でも、一番大事なのは、バックアップです!!せめて内容がなくならないよう、バックアップをしてからにしましょう!
 この記事は、カスタマイズしたデザインを残せないかなあという主旨で書いていますから、内容については、消失しても知ったこっちゃないですよ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 少し失敗したな、と思ったのは、次のカッコ内。

ココログヘルプ:プラン毎の料金が知りたい

ご利用の@niftyIDではじめてプラスまたはプロを設定した月は、プラスまたはプロの料金が無料となります。

初回設定月無料は、ご利用の@niftyIDではじめてプラスまたはプロを設定した月にのみ適用されます。

 何度もプラスにしちゃデザイン変えてベーシックに戻し、無料でいいよね、なんて芸当はできないってこと。
 当たり前だわな。一回だけですので、みなさん、よくしゃぶり尽くして自作デザインを貯め込んでから、ダウングレードしましょう。

【追記】
 あずスタ:○ココログ設定〜ベーシックでプロ並みに
 検索したら、こんなことしている方がいました。日付の設定もなんとかなりそうだというのも、やっぱり。
 自分はベーシックで充分ですね。

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2005.02.12

一太郎のアウトラインモードはWordに変換できるか?

 2/10の発売日に一太郎2005を買ってきた。花子と三四郎の同梱版。
 花子は以前、職場で親しくしていた後輩(既に事故死)がずいぶん勧めていたので、Photoshopより手軽に使えそうな期待がある。三四郎はまったく知らないが(表計算ソフトということも知らなかった)、初回版のみ同梱だそうで。どうせずっと売ってるんだろうけどね。

 ところで自分は普段、Windows上ではO'sEditor2というテキストエディタで文章を書いている。Macと二足の草鞋だから、txtファイルが一番便利だし、エディタの軽さが気に入っている。Wordは職場でしかたがなく使っている程度。おせっかいな初期設定は徹底的に排除して。
 一太郎もモンスターアプリと言われていたが、「一太郎Lite2」は物書きに特化した軽さで気に入っている。保存形式もこのソフトは一太郎形式にこだわっていないから、一太郎のエディタ版と言っていいのだろう。もちろんワープロ譲りの編集機能がエディタよりそこそこあるから、そこがまた利点だろう。
 使用頻度はテキストエディタほどではないので、入れたままにしている理由はもう少しある。
 アウトラインモードだ。

 以前、Wordのアウトラインモードで簡単な論文を書いたことがあったのだが、どうも使い勝手に慣れない。Word特有のひとりよがりな身勝手さに付いていけない感じがする。
 で、階層構造の文章を書くために、いくつかアプリケーションを探した。
 しかし、これがまた難物で、テキストファイルの汎用性とアウトラインエディタの独自性の間で揺れることになった。複数のパソコンで文章がいじれること、将来的な再利用の可能性が課題だが、なにより個性のあるインターフェイスに慣れるまで使いにくくてはたまらない。
 結局、使いやすい一太郎Lite2のアウトラインモードを試してみたら、とりあえず自分にはこの程度で充分だと気がついた。このソフトの基本はテキストでもある。
 しかし、問題があった。
 やはり作業途上でも、Wordへの出力が必要な場合があるのである。一太郎Lite2は普通の文書なら互換性があるので、Word形式にして吐き出させてみた。階層構造が完全に消失してしまい、徒労感に襲われた。階層指示をまたやり直さなければならないのでは意味がない。

 さて、一太郎2005である。
 結論から言うと、うまくいきました。

 1. 一太郎Lite2のアウトライン→一太郎2005で互換。
 2. 一太郎2005のアウトライン→Word2000でほとんど維持。

 嬉しい。基本的に本記事は以上です。

 一太郎は、2004からパッケージデザインも変えてWordとは別にもう一本、文章書きのためにどうぞ、という方針を打ち出してきていることはご存知のとおり。
 アウトラインモードもお勧めらしく、期待したが、バージョンアップによって少し熟すのを待っていた。
 そこへ今回の訴訟騒ぎである。撤退されてはたまらないと思った。そんなバカなことにはならないだろうと思いつつ、一太郎がんばれという気持ちもある。
 店頭で、一太郎2004のパッケージと2005のパンフレット掲載のスペックを比較してみると、まったく変わっていない。マイナーバージョンアップと考えてよさそうだった。
 Win98以降としているところも好感がもてたが、そうそう軽くは使えまい。わがLibrettoL3も先月HDDを換装・増量、20GBから80GBにしたので容量の余裕はできたが、いつまでもアプリケーションの要求スペックが低いままでもなかろう。好機と見て、導入を決めた。
 発売日にJUSTSYSTEMの販売員(社員?)が来ていたので、少しの間待って、直接このめんどくさい質問(アウトラインの互換性)に付き合ってもらった。ほかの店員さんにもアタックをかけられたが、こんな変な質問、答えられなかったのです。
 ジャストシステムの方も本社に問い合わせ。本社で動作検証をしてくれたところ、「一太郎Lite2-2005はうまくいく」「一太郎2005-Wordはだいたい"大丈夫なようです"」。十数分での判断だから、徹底はできまい。これだけでもありがたかった。
 自宅で、自分でやってみたところ、小躍り。それでこれを書いている。今後もう少し丹念に見て、不具合があったら後続記事も書こうと思っている。

 一太郎2005も、ただのコンバータとして使うんではさびしい。
 一太郎Lite2はLibretto100-Win95時代に無理ないように入れたものだったから、現在のLibrettoL3-Win2000環境下で、少し使ってやりたいと思う。
 花子との統合製品を買ってきたなんて、初めてだし。ちょっと期待している。

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2005.02.13

呼友の日付、吉野家の牛丼

 以前書いた記事の呼友、開栓しました。ラベルに押された日付は2004.5.7。震災後のものではありませんでした。
 カブの漬け物と缶詰めのかにみそで飲んだんだけれど、うまかった。朝日酒造の酒の清冽さと、意外に風味があって、よかったっす。

050211 2.11限定の吉野家の牛丼、食べてきました。大盛つゆだくで、お新香、生卵と。ひさしぶりだったので、豪勢に。
 11時販売開始とのこと、前日に把握していたんだけれど、並ぶだろうことまで頭がまわらず。12時前に並び始めて、食べて出るまでに1時間くらい。さすがジャパニーズ・ファストフード。店内での食事と持ち帰りと列が分けられていたので、さすがに牛丼弁当のために再度並ぶ元気はありませんでした。
 ひさしぶりに口にしてみれば、「うまいジャンクフード」以外の何ものでもなく。それをこの日だけの「キャンペーンだからこそ」でしょうが、並300円大盛400円で出されると、ああ、安くて早くてうまい(…この微妙な"うまさ")、身近なものがなくなっているんだなあという想いが身に沁みました。
 なくてもいいもの、なんだけどね。吉野家に乗せられていることは間違いないわけで。あ、でもMcDonaldのハンバーガーだったら本当になくなっても何の感慨もないです。

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2005.02.14

エマ関連サイト備忘

【本サイト内関連記事】
 エマ・ヴィクトリアンガイド(2004.10.21)
 「小説版エマ」を久美沙織が出すそうで(2005.2.2)
 森薫『エマ』は「メイドもの」か?(2005.2.3)

 森薫『エマ』が話題になるにつれて、自分がちょっと前まで繰り返し読んでは「いいよなあ…」と思っていたエマのマンガ評が、検索エンジンでどんどん上位から消え去っていっている。それらを差し置いて自分のブログがランクされたりするんだから、どうなってんの!という怒りさえ覚える(この辺の「いい加減にしろGoogle!」という気分は別に書いた。この前後の記事)。
 自分の気に入った文章が他人にとっても良質と評価を受けるかどうかはわからないが、備忘。

【「エマ」マンガ評】
 いずれも早くから「エマ」に注目し、そのマンガ表現のすばらしさを指摘している。

ひとりで勝手にマンガ夜話
 森薫「エマ」第2巻 孤独の描写
 揺れない列車 森薫「エマ」第3巻第15話「風」より

クロノス・クラウン>本のお話
 珠玉のメイドさんマンガ「エマ」1巻(森薫)
 珠玉のメイドさんマンガ「エマ」2巻 メイドさん作品集「シャーリー」(森薫)
 珠玉のメイドさんマンガ「エマ」3巻 竹本泉も登場「エマ ヴィクトリアンガイド」(森薫)
 珠玉のメイドさんマンガ「エマ」4巻(森薫)

【正統派メイド研究サイト】

震空間
 「メイドさん社会史学ゼミ」は目を開かれる思いです。こちらのサイトは「エマ」「ヴィクトリアンガイド」についても触れつつ、歴史研究として勉強になります。

 ところで、本ブログで「エマはメイドものか?」という記事を書いたが、関連して三つほど。
 森薫氏本人のインタビュー記事。「いや萌え作品以外の何でもないだろう」、「もちろん作者本人に萌えはあるだろうけど作品はね」というところか。

NO COMIC NO LIFE:第18回:森薫先生インタビュー

やさぐれ日記暫定版:『エマ』は萌え作品である。

紙屋研究所〈エマ〉とはだれなのか

 最後に、エマ関係ニュースまとめサイト。

黒い天使のブログ:「森薫・エマ・シャーリー」関連記事まとめ

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2005.02.15

図書館学と情報学、法情報学 : 目次

図書館学と情報学、法情報学(1) : 「図書館・情報学」?
図書館学と情報学、法情報学(2) : 「法・情報学」?
図書館学と情報学、法情報学(3) : ネットワーク社会と法情報学
図書館学と情報学、法情報学(4) : 法学と電子情報
図書館学と情報学、法情報学(5) : 法学と「情報」
図書館学と情報学、法情報学(6) : 基礎法学と「法情報」
図書館学と情報学、法情報学(7) : 基礎情報学と情報の社会的認識
図書館学と情報学、法情報学(8) : 図書館・情報学、ようやく
図書館学と情報学、法情報学(9) : 図書館の社会的本質と「情報」
図書館学と情報学、法情報学(10) : 追記

 既に(1)と(2)をアップ。日付をだまくらかしてあとづけでこの記事は挿入している。
 とりあえず一気に書いて、手頃なところでブチブチと切り、表題を付けてみました。もちろん仮題です。
 一覧にしてみると…げっそりしますね、やっぱり。
 その上、法情報学に関する話題が(3)から(7)まで続いていて、バランス悪いことこの上ない(基礎法学と基礎情報学の話入れたくなっちゃったからしかたないんだけどね)。それにしてもオチの部分は特に、最初に始めた話の本筋からぶっとんでいます。手を入れてなんとかなるかなあ。
 なので、途中でやめるかもしれないと、初めのうちに宣言しておきます。MIZUKIさんとこに話が飛び火した原因の話は、(1)と(2)でもう概略書いてありますので、それでもう充分かと。
 なお、ご注意。連続ものはやっぱり時系列順に並んでいた方が読みやすいと思いましたので、トップページの配列順はまたもや古い順になっております。

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図書館学と情報学、法情報学(1) : 「図書館・情報学」?

 当ブログで書いた「図書館・情報学」という表現が、MIZUKIさんのブログで話題になった。
 実は、これは自分なりの意味を込めて、しかしサラッと書いてみたもの。MIZUKIさんのところでは本来の本筋に則った議論をしていただいているので、ご用の向きはぜひご参照を。
 ここでは、その「自分なりの意味」の周辺を書いてみる。論旨を明確にすることを優先させたために、裏がとれていない、印象に偏っているかもしれない。そこはご注意ください。またご指摘いただければありがたいです。

 簡単なことだ。
 「"図書館情報学"は、呼称で一つになるほど、情報学と図書館学が基礎のところで融合なんかしていないんじゃないか」と思っているからだ。
 融合の必要、必然性はあるにもかかわらず。
 だから、図書館学と情報学という意味で、図書館・情報学。

 慶應義塾大学の「図書館・情報学」という呼称への妙なこだわりは知っているが、あえて関係なく書いた。
 慶應関係者の実績と、それ以外の研究者とのそれを見ると、呼称の違いがどれほど重要なのかはいまひとつわからない。

 自分は、法学部の出身だ。
 「法情報学」という呼称領域ができてきている。学会にも法情報学に関連した学会、情報ネットワーク法学会がある。
 これが、「図書館・情報学」の動向とどうにも似通っているように見えてしかたがない。
 迂回して申しわけないが、「法情報学」を枕に、自分の感じていることを話してみよう。

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2005.02.16

図書館学と情報学、法情報学(2) : 「法・情報学」?

 「図書館・情報学」の枕として、「法情報学」について思うこと。
 この先、図書館学に戻ってくるまで長いので、先に謝っておきます。すみません。

 「国際」「情報」と付ければ何でもいい、という風潮がはびこってひさしいが、本家図書館学に限らず、法学の分野にまで及んできている。ただ、日本の法学界本流が採ってきた方向性からすれば、必要なことでもあるとは思う。
 学会のふたを開けてみると、やっぱり二部構成。

 「従来の法学を「情報」の観点で考える」。
 「電子情報ネットワーク環境における新たな法状況を考える」。

 これらは、実は直接的には接点がない。法学を情報の観点から捉える場合の「情報」と、ネットワーク環境における「情報」は、必ずしも同じものを意味していない。
 反面、この二つは従来の法学の方法においてもやってきたことである。前者について言えば、法学ほど社会的な利益の分析、概念構成に実務・学界あげて努力してきた領域もない。後者について言えば、新しい利益状況に新たな規範の必要性が生まれてくるのは当たり前で、電子化・ネットワーク化の側面だけを採り上げるのはむしろ解せない。後者の狭い個別領域を扱うものと了解するのならば、前者と一緒くたにするのはまたわけがわからなくなる。

 自分の主張は、「このような法情報学の学問的状況は、図書館・情報学と似たり寄ったりだ」というもの。
 本記事の論旨は以上。
 以下、伝統的な法学の方法と情報との関係について、もう少し突っ込んでみる。そこで感じていることから、なぜ図書館学と情報学がおかしなことになっているか、見えてくる気がするから。

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2005.02.17

図書館学と情報学、法情報学(3) : ネットワーク社会と法情報学

 ところで自分は、法情報学に単に批判的なわけではない。

 法学徒としては、ネットワーク社会という、新しい社会状況が現実に展開していくさまを目の前にして、規範の世界で予想される新たな反応に期待し、わくわくしていた。法学がローマ法以来の人間社会に通底する規範の合理性、生きた知的遺産をまず踏まえなければならないということを知ってはいても、そんな「生きた知的遺産」が新しい社会状況にどう対応していくか、歴史的に目にできるなんてそうないことだからだ。
 だからこそ、ネットワーク社会の発達に沿って、学界が表立っては即「アタリマエに」受容・対応ができていっていないように見えたことに、歯がゆく感じるようにもなった。
 おそらく、「法情報学」はそのような問題意識から出発した学問だろう。現実の学界の動きに対する、現実的な対応として。

 しかし、方法論的には、やはり疑問が残る。

 前々回の記事の二つのうちの後者、「電子情報ネットワーク環境における新たな法状況を考える」これはまだいい。個別具体的な研究領域だからだ。著作権法のように、新しい法状況に具体的に即応しなければならない分野がある。
 ただし留意すべき点はあって、ネットワーク環境の法理が独立別個特殊に存在するかのような議論がされているのはおかしい。むしろ、ネットワークという新しい「社会の一側面」から、従来の社会の法理もまた連続したものとして見直されてしかるべきだろう。ネットワーク社会といえど、孤絶した社会ではなく、社会の一側面にすぎない。ネットワーク技術は社会を構成する新しい道具、所詮「道具」である。新しい道具によって新しい法状況が表れてくるのは確かだが、それに注目するとともに従来の社会の延長線として相互にフィードバックがされる契機となっていい。

 それでは、前々回の記事の二つのうちの前者は、どうなのか。

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2005.02.18

図書館学と情報学、法情報学(4) : 法学と電子情報

 このシリーズ(2)で挙げた法情報学二つの領域のうちの前者。

 「従来の法学を「情報」の観点で考える」。

 ここに違和感を感じるのだ。これは、実は既に行われてきた法律学の方法論を、すっとばした議論に見えるからだ。
 法学の方法論の歴史を振り返ると、19世紀や20世紀初頭には既に、歴史主義、解釈学や現象学、言語学の影響を受けたと思しき記述はたんまりある。現実の利益世界に対応した、ことばの意味の解釈技術と概念構成については、実践に向けた社会科学である法学の十八番だったはずなのだ。
 問題は、ここでいう「情報」ということばである。何なのか。

 「電子情報」だろうか。
 正直言って文脈としてはミスリードなのだが、図書館情報学における「情報」の類比として、文学の世界でのそれを採り上げてみよう。
 文学の世界では、テキストの電子化によって、計量的に解析が行われるようになってきている。
 おそらく、「文学を「情報」の観点で考える」としたら、このような領域になるだろう。何という呼称になるのか、文・情報学とでも言うのか(冗談です。計量言語学でいいんですよね?)。

 具体的には、聖書とか、シェイクスピアとか。ヘーゲルについても、加藤尚武が電子テキストによって研究が進んだと随分昔に書いていた(加藤尚武『ヘーゲルの「法」哲学』)。
 シャーロック・ホームズの世界にすら、応用が既にある。全60編のうち作品世界においてワトスンの手になるものは57編、残り2編はホームズ自身、1編は第三者視点で書き手不明ということになっているが、文体分析をすると、同一の筆者であるということが推測できるのだそうだ。実際の書き手はコナン・ドイルであるということは了解した上での、シャーロキアンならではのお遊びであるが、「遊べる」くらいまで方法論が確立しているのだから頼もしい。

 このような「情報」観(電子情報)に立った方法論が法学の世界において示すところは、従来の国会会議録や法令・判例テキストの電子化・データベース化という方向性である。実際、このような方向性が実を結んでいることは諸兄の知るとおり。
 しかし、この成果そのものは実際には媒体がCD-ROMからネットワークに移行しており、「電子情報ネットワーク環境における法状況」といってよいから、実は「法情報学二つの領域」の後者にも連なる領域である。先に文脈としてはミスリードと言ったのは、そのような意味である。

 ところで、会議録や法令・判例テキストの電子情報化がなしたことの法学的意義はどこにあるだろうか。「法情報学二つの領域」の後者の領域=情報技術的な側面ではなく、前者の側面に力点をおいた意義があるはずだ。
 この点、「法学を情報学的に理解する」ための接点は、確かにある。そしてそれが、いかに「陳腐なオチ」であるかを、描いてみたい。

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2005.02.19

図書館学と情報学、法情報学(5) : 法学と「情報」

 法令等の電子情報を素材に、法学を「情報学」的に見る意義を自分なりに考えてみる。

 国会会議録や法令・判例テキストの電子情報・ネットワーク化の意義は、政治や法律の世界を一般の市民のものに近づけ"うる"ものにしたことにある。テキストの媒体の変化がそれをなしたのであるが、テキストそのものは紙媒体のそれと同じ。媒体は器、道具にすぎない。
 道具の変化によってテキストの流通に変革が起こった。この意義が大きいことは認めよう。しかしテキストだけでは、その意味内容を理解することはできない。

 法学の世界では当たり前のことだが、法文は解釈があって初めて使えるものとして理解できるし、議会の決議や判決にはその過程に則った形式がある。機械のレベルだけではなく、人間のレベルでも「コード」「プロトコル」があるわけだ。膨大なテキストから、自分にとって必要な「情報」を取り出すためには、図書館・情報学ではやりのことばを使えば、「リテラシー」が必要となる。
 国会で何が審議され、議決された法律が何を意味し、下級審判決の意味はどのように取るべきであり…このような「情報」は、テキストあってのことではあるが、テキストそれ自体は、人間社会にとって必要な情報を取り出すための「データ」に過ぎない。
 重要なのは、テキスト=文字記号の群から人間にとって必要な「意味」である。文字記号としての電子情報ではなく、意味をもったコンテンツとしての「情報」をいかに取り出せるか、である。

 前回からテキスト=文字記号に踏み台にしてみたが、実は社会で話題になり流通が求められる「情報」は、テキストそのものではない。まして「電子テキストは、必ずしも情報ではない」のである。
 テレビやラジオ、新聞での「情報流通」を考えてみればわかる。社会で共通に話題となっている人間の頭の中にある知識のパターンに増減を与えるものが、情報である。でなければ音声や異なる媒体によって伝達されたものが「同じ情報」として認識されるはずがない。

 このときの「人間」とは、基本的に個人を指すが、社会一般、多くの人々の頭の中に流通が求められる「情報」もある。
 その代表格が、法情報だろう。テキストは、そのような法情報を流通させるための道具、データであり媒体でしかない。テキストや媒体の構造そのものよりも、コンテンツたる法情報がどのようにその上に乗って流通するかという問題が、法情報学の登場によって明らかになるのかもしれない。
 しかしそれは本当は、法学が基礎にもっているべき方法論ではないのだろうか。前回、「陳腐なオチ」と書いたのはこのことである。

 最近、急速にアーカイヴ化、文書館が法学の世界でも話題になっているようだ。法情報の前提となるテキストを社会的に共有するためのしくみに意識が向けられるようになってきたのは、法学を学問として成り立たせる社会的基盤に意識が向いてきたことでもある。
 だいたい、どんな学問であっても図書館に収蔵された過去の文献を参照しない学問はない。殊に、法学は文献学的な手法を多く用いるにもかかわらず、図書館や文書館そのものに関心がなかったことの方が、異常である。法学者の頭の中にあるだけが、法学だったとでも言うのだろうか。

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2005.02.20

「法の解釈と文学の解釈」

 まだ大学院大学などということばもなかった頃、自分は法学部に入りました。
 教養教育が残っていて、専門教育が2年では足りないといわれていた時代。
 そこで法学部は、1年生を対象とした「プレゼミ」というものを始めたのでした。教養部時代に、法学の専門教育の一端を経験してもらおうという。指導は学部の先生が担います。
 その中にあって、見るからに破天荒だなと思ったのが、「法の解釈と文学の解釈」という、この標題。
 これが、自分と憲法、法哲学との出会いでした。

 このプレゼミ、希望参加人数は少なかったのです。
 せっかく法学部に来たんだ、専門教育の洗礼を早く受けたいじゃない?ほかのプレゼミに参加した諸君の気持ちはそういうことだったらしい。
 参加要件に課題が課され、「テーマに沿った内容の文学についての感想を提出しなさい」。参加人数は少なかったので、全員に参加が認められました。
 人数は当初5名。先生の評判、人柄を知る上級生が、「単位なしでもいいですから」と参加を申し出てきました(というより、自分が先輩に話してみたらオレもワタシも、ってなっちゃって)。結局、5−1+5で、9名になったのかな。実際に参加していた人数は、常時1年生の固定4名と、上級生が2〜3名(上級生はほかに講義等々もあったから)。
 先生の研究室でお茶を飲みながら、和気あいあいとした雰囲気でした。

 何をしたって、「読書会」なんですよ。
 ルールは、「テキストに書いてあることを元にして議論する」。反論したり、同意するにしても、「ここに○○と書いてあったから、自分は××と考える」とやるわけです。
 そういう訓練を一年間積んだあとで、最後に先生が「法の解釈と文学の解釈」というタイトルで講義をしてくれました。
 楽しかったし、知的興奮に満ちていました。そこでできた友達は今でも友達です。

 読んだ本は、以下。皆が最初に課題で採り上げた本と、先生が選んだ本です。
 ・プラトン『ソクラテスの弁明』
 ・エンデ『モモ』
 ・トールキン『指輪物語』
 ・カミュ『異邦人』
 ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』
 (もう一編くらいあったかもしれません)

 最後の講義で、先生は、ドゥオーキンの解釈理論に連なる話題を提示してきました。まあ、初学者向けなのでサラッとではあったのでしょうが、だからと言ってバカにはしないぞ、という気持ちでいてくださったのです。
 しかしまた、復習として例題に使ったのが、プリンセス・プリンセスの「Diamonds」(もう一曲あったように思うんだけど、忘れちゃった…くやしーい)。でも―。
 ああこれが「解釈」ってことなんだ。解釈という営為をみんなでしていく、解釈を論じていくってことなんだ。
 文学の解釈を垣間見た上でそこから、法の解釈の世界に進もう。法の解釈だって、ちゃんとルールを踏まえれば特殊なことじゃないんだ。
 なんだかみんな、異常に興奮しましたね。

 その後、読書会は断続的に続きました。
 秋に読んだ『異邦人』は当時、「いろいろな読みができるね」「また10年経ったら読んでみようよ」と言って約束したのに、もう15年が経過しようとしています。このまんまじゃO・ヘンリーの「20年後」になっちゃうな。
 先生とは、この秋に会ってきました。6、7年ぶりだねと言われました。でも二人とも、変わっていなかった。昨日まで一緒だったかのように、議論始めちゃって。嬉しかったです。

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 ここで本文は終わりますが、終わっちゃうと格好いいんですけれども。

 補足。この先生には学生時代、公私共に一番お世話になりましたが、法律学の解釈方法論に関する理論的基礎は別の先生に師事しました。ドゥオーキンの「平等な配慮」と、これに関する議論には非常に共感を得ていますが、自分は、解釈理論としては別のところ、もっとシンプルなところに立脚しています。

 補足その2。この記事を前後のシリーズに挿入したのは理由があります。

 テキストはそれだけでは情報足り得ないこと。
 テキストが読まれ、解釈されるということ。
 その解釈は読み手によって異なり、解釈共同体の中で論じられることが大切だということ。

 こんなことは、大学一年生でもわかることです。
 そして、法学として大事なのは、その解釈の結果としてのコンテンツと、法学なら法学独自の解釈の方法論。
 それを、その後の学部で意識しながら学ぶ、前段階のステップとしての"プレ"ゼミだったんだから。
 「読む」ということがどういうことなのか。「情報」を考える人はよく考えてみた方がいいと思うのですよ。

 さらに蛇足。
 上の「法学として大事なのは…」という文章と対比して考えてみてください。
 図書館・情報学は、まさに「情報」とコンテンツとの関わりを一般的に論じうるはずの学問領域であり、そのための方法論が問われているはずです。
 そうあってこその個別の応用・実践領域たる法学なり、方法論としての法情報学だと思うんですね。

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2005.02.21

図書館学と情報学、法情報学(6) : 基礎法学と「法情報」

 法情報学二つの領域の前者のアプローチから見てくると、確かに、情報学的な観点で法学を見ることは無駄ではないように思われる。しかし、それは、法や政治過程がいかに「情報学的に」市民のものとなってこなかったかということの証明でもある。
 法学は、何をしてきたか。
 前提となる基礎的な知識は各主要法令の教科書にまとめられているわけだが、それを教えることで終始している。これは必ずしもリテラシーを教え込むものではない。基本六法の中には、年金改革法や著作権法は入っていない。それら、社会で生活を営んでいく上で必要な法情報を得るための「第二の知識」はどこにあるのか。

 法学は大別して二つの領域がある。実定法学と基礎法学である。実定法学は実定法の解釈学で、実定法の代表格である基本六法の習得が中心。基礎法学の内訳は比較法学、法制史、法哲学である。その法哲学には法律学方法論という領野が、マイナーだがある。法の認識、解釈の方法そのものを扱う分野である。
 もちろん、基本六法の解釈の方法を定型的ながら実践的に学ぶことは、社会に出てから法実務に役立つかもしれない。しかし、基礎法学から学ぶことは大きい。例えば英米法という科目。企業法務や海外ニュース、海外の映画を見る上でも、いまや英米の法文化を知るためには有力である。

 法律の解釈をはじめとする方法論についてはどうだろうか。
 「法の不知は赦さず」という原則があるが、仮にテキストをポンと目の前に置かれたとしても(それも網羅的な加除式法令集は通例、図書館にしかない上に)、その中身がよくわからないのに「知らないとは言わせない」とは、本来無茶苦茶な話である。
 法情報の社会的な配置について、本流たる実定法学は何もなしえてこなかった、というのが自分の見解だ。法学部生が基本六法で学ぶことは代表的な法に表れている原則だが、六法以外にも、市民が生活に必要な個別法令はいくらでもある。しかし一方で、そのような生活課題に収斂する方向に、法学教育の舵を切ることもありうるかもしれないが、これまたきりがない(こういうのとかこういうのとか…)。
 対して、法律学方法論は、「解釈とは何か」といった問題を扱ってきている。さまざまなレベルでの「法の認識」を扱う領域でもある。ここでいっている法は、法文のテキストではないことはもう自明だろう。人間社会で流通している、人間の頭の中に存在する「規範」だ。ささやかながら、「法(規範)の認識」を「法"情報"の認識」と言い換えておこう。
 自分の目には、法情報学とは、法律学方法論が射程に入れてきたことそのものではないか、と思える。単に、法学の世界でこれまでマイナーだっただけで、「法学の方法(法規範の認知)を対象とする学問」は、既にあったのである。

 そして少し先取りすれば、情報学と一体となるべき「図書館情報学」には、このような「図書館が扱う情報に関する方法論」が"ない"のではないか…というのが、自分の見解である。

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2005.02.22

図書館学と情報学、法情報学(7) : 基礎情報学と情報の社会的認識

 「情報」といったときに、既にもうわけがわからなくなる。法情報学しかり、図書館情報学しかり。
 例えば法文=「テキスト」は電子情報であろうが紙資料であろうが、単なる文字記号の話だ。「情報」ではなくて、データや媒体レベルの話である。
 法を「"社会"規範」として、認識するプロセスや、共有するための制度設計の問題が法律学方法論や法情報学の課題である。それならば「法"情報"」ということばも生きてこよう。
 「法情報」は、社会的な認識と切っても切れない関係にある。その認識対象が、社会的共有を前提とするコンテンツであるだけに。

 ところで、図書館情報学の世界で「情報」を実体としてではなく認知モデルとして理解する考え方は、自分の場合、緑川信之『情報検索の考え方』勉誠出版,1999に負うところが大きい。
 自分にとって出発点となる、「法の認識」モデルについては青井秀夫『法思考とパタン』創文社,2000。図書館を含むパターン認識を情報学的に扱ったものとして吉田正幸『分類学からの出発』中公新書,1993坂本賢三『「分ける」ことと「わかる」こと』講談社現代新書,1982(もう古典ですね)。
 これらを経由して、緑川の認知型の情報モデルに接し、(勝手に)触発されている。

 このような認知型の情報モデルを、近年日本で話題にしたのが、西垣通『基礎情報学』NTT出版,2004だ。DNAの情報処理までさかのぼって、機械との別を踏まえ、生命体の認知あっての「情報」という考え方を提示して(考え方自体は既に「オートポイエーシス」ということばがあるようなのだが、自分はきちんと把握していない)、これを情報学の基礎に据え、機械的な情報科学だけでなく他の分野の学問との架橋を提案している。

 基礎情報学は、方向性は間違いないと思う。これまでの情報学に欠けてきたものをまさに埋める考え方である。
 しかし、基礎情報学だけでは本当は足りない。法学にせよ、図書館学にせよ、もうひとつステップが必要だろう。個体としての認識と、社会的に共有さるべき認識とでは、「情報」の意味は実は異なる。
 実際、その不確定性が混乱の元となっている節があって、機械的な情報科学が発達できてきたのも、「電子的なデータ処理」という意味での「情報」が、計量もでき客観的に揺るぎもしないからだ。

 法の認識という課題の中に出てくる、「パターン認識」という手がかりから、認知心理学に社会的認識の可能性を探ってみたことがある。しかし、認知心理学は児童心理と人工知能に研究の矛先が向かってしまっていて、残念ながら簡単には得るところがなかった(印象である)。法律学方法論のような規範世界でなくても、社会的な認知パターンの問題というのはあると思うのだが…。しかし現象学に行くと、もうわけがわからなくなる。
 空理空論の哲学ではなく、政治学でもなく、現実世界に容易に適用できる方法的な社会認識論は、いまのところ、自分の手許には、不十分ながら法律学方法論くらいしかない。どなたか、よい素材がありましたらご教示願います。

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2005.02.23

図書館学と情報学、法情報学(8) : 図書館・情報学、ようやく

 やっと図書館情報学に話が帰ってきた。
 法学と法情報学、図書館学と情報学が不幸なのは、間にいくつも障害があるから。

・「電子情報」は、ただのデータである。
・「人間の知識」と関係する概念として「情報」を定義するためには、解釈や認識が必要。
・そこを埋める基礎情報学はまだ理論的に未成熟。
・情報を社会的に共有するための社会制度を根拠づける社会認識論が必要であるのに、これは「ない」。

 法学も図書館も、社会制度。
 扱われる情報も、最終的には認知型のモデルに帰着する必要がある。
 ところがこの間を埋めるものが不十分にすぎる。

 だから、結果的な状況として、社会制度としての情報認識モデルというより、安易な二極化が進むのではないか。図書館情報学の現在の潮流は、次のようなところだろう。二つが「情報」ということばを媒介に融合しているようにはとても見えない。

・電子情報・機械検索といった技術に偏った情報科学。
・それでも、図書館という社会制度を語る方法として。「科学的」理解のための経営学の導入(数値化という一種の便法)。もしくは歴史分析。せいぜいちまちまとした制度論である著作権法論。

 そして現場では、個々のレファレンス・インタビューなど受け身のテクニックが経験として蓄積されていくばかり。その実践が、社会的にどのような潜在的意義をもつかということがことばにされないまま…。

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2005.02.24

図書館学と情報学、法情報学(9) : 図書館の社会的本質と「情報」

 結局、図書館・情報学にとって、図書館という存在の本質は何なんでしょうか?自分も、「本質」なんてことばはなるべく使いたくありません。

 でも、研究者たちに問いたい。
 図書館が「そこにある」から部分部分を切り取って研究しているだけでは、何のフィードバックにもならない。フィードバックといっても、現場へ、じゃないですよ。社会への還元です。
 「分析」ということばはわかりますよね。ばらしただけではなくて、最低限、組み立ててみなくては理解したことにならないんです(部分部分だったら小学生の科学研究とどこが違うんだろう)。総体として見直してみて、それが社会的存在として、何であるのか。どのような機能が大事なのか。
 →【(9)公開前追記・(8)へのruckさんの最初のコメントを受けて】

 そして、図書館の経営に関わる人たちや図書館の実践を担う力のある経験者たちにも問いたい。
 経営指標は、計測可能な範囲の技術であって、そのものが「目標」じゃないんです。電子技術は、情報探索・提供のための道具でしかなくて、それを使った事業自体が「目的」じゃないんです。
 必要なのは、図書館がどんな社会制度であるかというしっかりとした認識と、実践に向けた目的、目標をもつか。そのためには、人間の社会をいかに意識して、自分たちがもっている「経験」をことばにしていくことが大事なのではないかと思います。

 だから、図書館学が考えたい「情報」と、情報学(情報技術)が考えたい「情報」の間には、明らかに乖離があります。
 図書館学が考えたい「情報」は、情報技術の考える情報(データベース)の先にある、社会的に共有さるべき認知的な「情報」モデルです。
 資料などの物理的な情報資源(インターネット上の電子データを含む)との関係を考えれば、元々共有していたものが、技術の発達によってもっと容易に共有できるようになった。だけど、そこでGoogleのような、電子"データ"の検索"技術"「のみ」に堕してしまったら。その先の、人間の認知に連なる理論的裏付けや、その具体的な社会的意義に連なっていかなかったら。
 自分が以前の記事で「そこが大事なんです!」と、欠けた学問、理論や方法の必要性を訴えていたのは、この、図書館学における「情報」の問題、社会制度としての図書館の視点に立った「情報」の問題に帰着するような気がします。

 以上で、「図書館学と情報学、法情報学」のシリーズはおしまいです。

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図書館学と情報学、法情報学(10) : 追記

 追記にしては長くなったので、別記事に起こしました。
 文脈としては、ちょっと読みにくいですが、本文に挿入したつもりでお読みください。
 (8)へのruckさんの2度目のコメントの前に書いています。

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【(9)公開前追記・(8)へのruckさんの最初のコメントを受けて】

 これまで(4)以降、「情報」と他分野の学問との問題は、(2)の前者について話題にしてきています。
 上記で言うこの「研究者」は、そのような文脈での図書館・情報学研究者はもちろんですが本来、関係してくる情報技術(Computer Science)研究者をも含めたメッセージと読むこともできます。

 あなたたちが研究している「(定量的に計測できる)情報」って、弾道計算ができればそれでいいの?弾道計算という目的がなくなったあとでは、通信技術、コンピュータ技術の研究をやっている。それだけの狭い専門領域の「情報」研究なんだろうか。
 社会と大いに関係があるからこそ、「情報」がほかの諸科学と接点をもち始めてきているんだと思うんだけどなあ。

 本シリーズで言えば、(2)で挙げた後者にもひっかからない、外部との接点を持たない「情報」技術者は、それ以上でもそれ以下でもなく、本シリーズには関係ありません。彼ら独自の社会的意義があるのでしょう。シャノン流の情報定義の世界が確立されていることは、(7)に挙げた西垣通『基礎情報学』のごく初めの方で触れられています。その中でおしまい。それ以上はありません、です。
 よくは知りませんが、MPUやxDSL、新しいWeb技術の開発で頑張ってくださればいいんじゃないでしょうか。

 ウチでは全自動食器洗い乾燥機を便利に使っていますが、日常的な生活感覚としては同じ。あの中にもマイクロチップや緻密なプログラム制御が入っている。
 自分の近しい知人にもそのような「情報処理」を仕事にしている人が何人もいますが、彼らだって、社会的接点をもっています。何を観測し、情報として機械に処理させ、プログラム制御させるか。自分たちの作る情報処理システムを含む「道具」が社会にとってどんな役に立つか。プロジェクトXは好きな番組ではありませんが、社会貢献をなした無名の技術者たちを、自分は尊敬さえしています。

 でも、このシリーズとは関係ない「情報」ですね。

 情報技術一般が社会とどう接点をもつのか、「自分たちのことば」もないまま…。いやむしろ発信しているかもしれませんが、商品広告、プロパガンダにしか聞こえない。少なくとも"社会理論"じゃないです。
 アラン・ケイのダイナブック構想とか、大好きですけどね。子育て中ならばなおのこと。でも、だから何なんでしょ?コンピュータ技術発祥の「情報」というキー概念が、人間の知的営為、「読む」「認識する」「解釈する」といった営為そのものに切り込む「理論」にはなっていないような気がします。
 そのうち、子どもの読み聞かせのことを書こうと思っていました。その方からも、「情報」とコンテンツの問題に迫れると思います。定番、陳腐な話題になってしまうかもしれません、と予防線を張りつつ。
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2005.02.25

五十六カレー、食べました。

 先週末、五十六カレーをついに食べました。以前長岡みやげに買ってきたものです。
 56種の食材に少し期待してしまっていましたが、「具の形が見えない」印象はレトルトらしさか。
 それでも、マイタケのコリコリ感はしっかりありましたよ。
 特筆すべきは、辛さ!
 辛いものは大好きなんだけれども、強くはない。微妙な私ですが、ご当地カレーでこんなに辛いのがあるんだ…と感心いたしました。
 五十六カレー、マイタケの食感と辛さに、私は印象づけられました。さすがニューオータニに出すだけのことはあるという味…と言っちゃっていいのかな。自分は気に入った部類かもしれません。
 また買って帰っちゃうかもしれないな。

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2005.02.26

関東の春の花

 いまの自分にとって、春が来たなと思うのが、梅です。
 先々週くらいから、咲き始めていますね。満開はもう少しみたいですけど。

 就職して初めて上京したときに住んだアパートの隣が梅林。夏はヤブ蚊に苦しめられたけれど、春、窓を開けるとさわやかな香りで部屋がいっぱいになりました。すぐ隣は埼玉県。東武東上線の越生という地は梅林で有名ですし。
 町内あちこちに梅の木があったので、「へえ関東って桜ばかりじゃなくて梅がたくさんあるんだなあ」と思いました。

 関東の梅って、印象強かったんです。
 長岡の梅はあまり記憶にありません。積雪量の多寡にかかわらず、「雪が解けたら、悠久山の桜を花見に…」という印象だったんですよ。
 時機もあります。梅って、2月にはほころび始めますよね。雪国の2月は雪まっさかり。アリエナイ。
 だから関東の梅って、春が近づいてきているんだなあと思わせられる花です。
 通りすがりに、ふっと風に香る触わりもいい。

 いま自分の住んでいる地域にも、梅があちこちにあります。小さなところでは隣の家に、盆栽がありました。木もあちこちの家の庭から覗いています。
 しかし、残念な話があるのです。

 わが街の中心となっている駅は、線路と川が交差するところにあります。駅を中心点に街が、線路と川で十字状に4つのブロックに分断させられてしまっているというわけです。困るのが道路。踏切にせよ行き来するのに大変です。
 開発計画がずっと以前からあるのですが、その中、とあるルートは、線路の上に橋を架けてバイパスする大きな道路を造ろうとしています。

 いまの街に引っ越してきて一年ほどした頃、春になって気づくようになったのですが、とてもたくさんの木が生い茂る梅林があります。上京したての頃のお隣さんの比じゃありません、梅の「林」です。
 毎春、満開がいつになるかと楽しみにしています。
 この界隈、お寺さんが多いんです。その敷地のひとつ。この梅林を含んで、小さな里山になっていて、ヤブ蚊の出ない晩秋や天気のよい冬、初春は、子どもと枯れ葉を踏みしめながら散歩を楽しんでいました。

 この梅林、残念ながら道路造成のために潰されてしまうのです。
 去年からもう最後になるのだろうか…と思いながら、梅の林を見ています。
 道路開発の進展は年間ペースながら、着々と進んできていて、あるところから見えていたきれいな防風林も、つい先日通りがかったら全部刈られてしまっていました。
 梅林は来年の春見られるかどうか、ですね…。

 今年は家族で一度様子を見に行きました。
 満開の頃にまた行って、花と香りを楽しんでこようと思います。

 ところで、職場の同僚(それも埼玉在住ですよ)にも聞いてみたんですが、生粋の関東人も「梅ねえ…水戸の偕楽園は行ったことあるけど、越生は行ったことないなあ」という返答なんです。そういえば小田原も梅で有名ですのに。
 梅は、関東の人にとって、あまり印象に残らない花なんでしょうか?
 それと、ほかの雪のない地域の人はいかがでしょう。

 日本海側で梅というのは、先ほど述べたように花開くときがちょうど雪です。学生時代を過ごした東北地方も、寒くて梅というのはあまり印象がありません。
 きっと、関東-東海以西は意外に梅って当たり前の花なのかな、それが北国ではそうでなかっただけで…と考えているのですが。いかがでしょうか?

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2005.02.27

まっ白な世界の…におい。

 今日はもうただのつぶやきを。

 週末に一泊二日で帰省。
 息子と二人というのは初めて。まあ、向こうに着いたら母(息子にとっては祖母)がもう待ちかまえていて、世話は任せてしまえるのだが。

 書くのは二度目かもしれないけれど、ほんとに「トンネルを抜けると雪国だった」なあ。
 ちょうど降り積もった新雪、ちょうどよく湿っていて、いい感じでギュッ、ギュッと踏みしめるのが心地よかった。

 子どもは、連れていかないと「雪国」ってもんがわからないだろう。大人だってわかりゃしないんだから。
 一週間前に、自分でもかつて親しんだ絵本『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』を用意したら、楽しんでくれた。でも、雪でホワイトアウトするような光景や、雪がどんなふうに降ってくるか、除雪した後の風景がどんなになるか。
 経験は大事ですよね。

 わが子、転んだときに気に入りの手袋が雪まみれになるのが最初はイヤに感じていたのだけれど、親が自分の身体を雪の中に放り込んでみせてやると、コートに新雪が付くのは当たり前、払ってやればそれでいいということがわかってくれた。
 自分が世話になった近所のお兄ちゃん(もうお互いおじさんだが)が遊び場を作ってくれていて、子どもは踏み固められた斜面を上り下りするだけ、歩くことだけでも楽しんでいた。
 だんだん、バランス感覚や滑って転んだときの態勢も身体でわかってきたようだった。

 ことほど、「情報」ってのは伝わらない。
 ここでは、テキストとしての「ケイティー」、視覚的な雪の風景、実感としての雪の感触。
 「情報」を振り回す方はぜひいまの新潟にも行ってみてほしいです。『バカの壁』読んでませんけど、そういう話なんでしょ。
 自分自身だって、わかったつもりで知らないこと、多いと思います。長岡の風土を知るだけに、その辺は自覚的であろうと思っています。

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2005.02.28

"Finding Neverland"―ネバーランド

 ネタ切れと書き疲れもあって、そろそろまた休止宣言しようと思っているのですが。
 コメントいただいたり、トラックバックありがとうございます。とても嬉しいです。
 レス、のんびりですが書かせていただきますね。

 このブログの普段のスタイルは、日記形式ではなく、一度書いておいたものを寝かせておくことの方が多いことは、よくおいでの方はご存知かと思います。
 ところが今日は、書いておきたいことがありまして。記憶が鮮明なうちに書いてしまいますね。レス前にすんません。

 本当にひさしぶりに映画を見てきました。
 邦題「ネバーランド」、"Finding Neverland"です。
 感動してきました。オススメもできる映画です。

 『ピーターパンとウェンディ』戯曲制作を背景にした、ジェームズ・M・バリとピーターのモデルになった家族達との実話を元に脚色したもののようです。

 時代設定が1903年で、ヴィクトリア朝にひっかかってるもんだから、ホームズ・ファンとしては課題映画なもんで。
 それとはまったく関係なく、映画好きの家人が息子と自分が実家行きの間に観に行って、涙流してよかったと。
 この手のホームズ関係映画を全部見始めていたらきりがないし、一方で良作ならばDVDとして手許に置きたいじゃないですか。だから、実際に映画館に足を運ぶまでもなく、資料のために「映画パンフ」だけは観に行ったら買ってきてくれ、と言っているんですが、家人は相当に感動しないと買わない質でして。
 気分転換も図って、足を向けたわけです(パンフ購入以外に実はもうひとつ、夏公開の『劇場版・機動戦士Ζガンダム 第一部・星を継ぐ者』の特典付前売券購入という理由もあったからなのですが)。

 映画そのものの評は、ほかのお詳しいところに譲ります。
 自分の感想の前置きに、ストーリーをざっと。
 バリの演劇がスランプ気味。そこへ、いつもネタを探しに行っていた公園に(社交の場でもあるのでしょう)、息子たちを連れたご婦人が来ていて、急速に仲良くなっていく。
 その中のピーターという男の子が、バリは自分自身に似ている気がしてならない。ピーターは父を亡くしたことに傷ついていて、芝居のような世界はウソと決めつけて、自分は大人になるのだ、と。
 彼らとの付き合いの中で、戯曲「ピーターパン」は描かれていくのですが、そのこと自体は観客には既知のものとして表にほとんど出てきません。
 むしろ、バリがその子どもたち一家に入れ込んでいくことで、そもそもの奥方とうまくいかなくなったり、子どもたちの母親との関係が社交界で悪い噂になったり、…ああでもこんなことは外側のことなんだな。

 大事なことは、Neverlandは本当にある。空想すれば本当にそこにあるんだ、というメッセージと、それと関わって、家族であること、大人になることが絡めて描かれているところにありました。
 子役なしにはこの映画は成り立ちません。子どもたちもバリも、交流していく中で人生の新たな息吹を得ていく。互いに必要な存在になっていく。
 勝手な感想ですが、親ともなる世代になってみて、今の家族のこと、自分の子どもの頃のこと、自分の親のこと…諸々考える時期が来ているだけにね、いい映画を見たなあという気になったんじゃないかと思います。
 悲しい現実を前にするからこそ大人になりながら、信じることの大切さを大事にして今を生きていこうとする。最後のシーンが近づくにつれ、もう劇場内はやさしい涙が流れている気配が、あちこちでしていましたよ。女性の涙ばかりじゃなかった模様。
 ただただお涙ちょうだいの映画じゃなかったです。少なくとも、恋愛映画じゃないですからね。
 音楽も含め、映画全体の作りが穏やかで美しく感じられました。もちろん、英国風のロケは素晴らしいし。
 うーん、…うまく書けてない気がするな。なにかしら、伝わってますかね。

 パンフを見たらヘエと思わせるキャストで嬉しくなりました。
 バリ役はジョニー・デップ。映画オンチで知らないのですが、過去の経歴だけ見るとこんな落ち着いた役は珍しいんじゃないかな。映画全体の雰囲気にすごくよくはまってました。
 若き未亡人役はケイト・ウィンスレット。タイタニックのヒロインで有名らしいですね。パンフのインタビューにも出てましたけれど、結婚して実際の母親になったことが演技にしっかり影響を与えたとか、そのとおりだと思います。うわついた感じ全然しないんだもん。
 ほかの主要な脇役も実力派ばかりだったという印象です。
 ダスティン・ホフマンが味のある脇役でしっかり出ていたのに気がつかなかったのは、くやしかったですね。

 コナン・ドイルがバリに話しかける役で出てくるのですが、画面を見ているだけじゃわからなかったです。
 これで宿題は達成、DVD購入は決定だな。

 しかし、映画も何カ月ぶりかしらん。
 もしかすると「赤毛のアン第3部・アンの結婚」以来まともな映画は観に行っていない。
 そういや、ロードオブザリング第1部と第3部だけは観に行ったか(「キャシャーン」はカウント外!間違い!あんなんだったら「キューティーハニー」観てスカッとしておけばよかった!)。
 次はスター・ウォーズエピソードIIIは観に行きたいんですが、いまは子育てを楽しみにしないといけないのでしょうなあ。

 その意味でも、家族で話題にできるいい映画でした。

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